音楽サブスクリプションサービス「うたパス」が提供する、日本初の音楽専門インターネットラジオ・Backstage Café(通称:BSCラジオ)で放送中の番組「ゲットイットPresents “はたらくこと、つくること”」では、メインパーソナリティのマツザカタクミ(ex. Awesome City Club)がゲストと共に、変わり続ける現代の“はたらきかた”、アーティストやクリエイターの“つくりかた”にスポットを当ててトークを繰り広げている。この特集ではマツザカをはじめ、株式会社ゲットイットの代表取締役を務め、メジャーデビューしたバンドでベーシストとして活躍していた廣田優輝、ゲットイット社員の世一英佑、3月31日放送回にゲストとして出演した歌人・俵万智を迎え、創作活動と仕事の両立について語ってもらった。
取材・文 / 真貝聡 撮影 / 塚本弦汰
創作活動と仕事は相容れない扱いを受けている
──今回は「さまざまな働き方、夢の追いかけ方があるということ」をテーマにお話を聞きたいと思います。廣田優輝さんはEOSL機器専門店の中で日本最大級の事業規模を誇る株式会社ゲットイットを経営しつつ、バンド・BlueHairsでベースを担当されていました。これまでの経歴を教えていただけますか?
廣田優輝 2001年4月、大学3年生の20歳のときにゲットイットを創業しました。ただ、小さい頃から創業を狙っていたのかというと、そうではなくて。ご縁があって秋葉原のPCショップで働くことになったのをきっかけに、中古サーバーの個人売買をやるようになったんです。初めは小遣い稼ぎくらいの感じで、「自分の探した商品が売れてうれしい」みたいに、宝物を探すような感覚でやっていました。そこからだんだん商売の規模が大きくなっていき、通帳に月100万近く出入りする状況になったので会社を起こしました。
──バンド活動を始めたのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?
廣田 あるとき経営者の勉強会がありまして、そこで親しくなった経営者仲間で「バンドをやろうよ」という話になり、2014年にBlueHairsを結成しました。いざ本気で活動してみたら面白さがどんどん増していって、2018年にはSony Music Recordsからメジャーデビューしまして。その後、会社の代表をやりつつ音楽活動も充実するようになったタイミングで、ゲットイットの面接に世一英佑さんが来てくれたんです。彼は小説家を目指して本を書いているのですが、ウチの面接担当が話を聞いたら「これまでの面接で小説を書いていることを打ち明けると、面接官に難色を示されてきました。なので、ほかの面接では小説を書いていることを話せませんでした」と言ったそうなんです。創作活動と仕事は、どうしても相容れないような取り扱いが世間的にあるな、と前々から思っていたんですけど、世一さんの話を聞いてやはりそうだったのかと。
──だからこそ廣田さんは、いろんなバックグラウンドを持つ方々をゲットイットで採用されていますし、その一方でBackstage Caféで番組「ゲットイットPresents “はたらくこと、つくること”」を立ち上げたわけですね。
廣田 バンドをやっているとコンビニを含めた飲食系やライブハウスなど、融通の利きやすい環境で働かざるを得ない状況になりがちで、選べる職の間口が狭い現実がある。「どうして敬遠されるんだろう?」と疑問に思ったのが番組の企画を考えたきっかけでした。一緒に働くうちに得意な能力や創作の力は絶対に生きる。そのことを世の中に訴えていく会社があってもいいんじゃないかなと思ったのです。そんな気持ちをミュージシャンであり、Backstage Caféのプロデューサーでもあるカタオカセブンくんに話したら「ぜひ、一緒に番組をやりましょう」と言ってくれて、去年12月に放送を開始しました。
小説家を目指して、何が悪いんですか?
──「世一さんとの出会いが番組の企画を考えた1つのきっかけである」と廣田さんが話していましたけど、世一さんはゲットイットの社員として働きつつ、小説を執筆しています。現在に至るまで、どのような道を歩んで来られたのでしょうか?
世一英佑 大学を卒業したあとは長い時間をかけて小説が書きたくて、30歳まで会社に勤めないまま暮らしてきました。なぜ会社員にならなかったのかというと、そもそも働くことがすごく好きなので「会社員になったら仕事に熱中して、今の自分はどっちつかずになるだろうな」と思ったからです。それなら貯金ができなくてもいいので、執筆時間が確保できるバイトで最低限働いて、あとはひたすら小説を書こうと。
──どのようなアルバイトを経験されたのですか?
世一 博物館でしばらく働いたこともありますし、27歳で石垣島に移住してからは、宿の仕事やライター業をしました。ただ、30歳になったタイミングで「妻もいるし、いつまでも貧乏なのはどうかな」と思いました。また、小説も書けるようになってきて二足のわらじを履く自信がついたので、会社で働くことに挑戦しようと上京しまして。最初に勤めたのが雑誌の編集でした。毎日終電に駆け込んで帰る生活でしたが、それでもがんばって小説は書いて。この時期に執筆した作品が「ポプラ社小説新人賞」の最終選考まで残ったのですが、土日もしばしば仕事で自らを消費するような日々が続いていました。自分の中では「小説をメインにして、仕事はそれを支えるもの」というつもりだったのに、ぶっちゃけ仕事にほぼすべての時間を取られていることに「これが人生の正しい選択なのかな?」と考えたんです。
──そして去年、ゲットイットに就職されたわけですね。
世一 はい。数社で面接を受けたのですが、私が「小説を書いている」と話すと面接官の顔色が変わり、「チームワークはできるのか」「小説家になったら会社を辞めるんじゃないか」と落とされたこともありました。でもゲットイットの面接では、担当された方が「最後に何か話していないことはないですか?」と聞いてくださったので、落ちてもしょうがないと正直に話したところ「小説家を目指して何が悪いんですか?」と言ってくださったんです。そこの理解がすごくうれしくて、この会社に入りました。実際に働いてみると18時台に帰れる体制はありがたいですし、社風も僕にとってはリラックスできる、楽しい環境なんです。雑談と笑いが多く、いわゆる気疲れが少ない。年間3本の長編小説を書くという、これまでのペースではありえなかったことが去年できたのも、ゲットイットでの働きやすさと結び付いているのかなと思います。
石垣島でまさかの交流、俵万智と世一英佑の出会い
──俵さんにもお話を聞きたいのですが、実は世一さんとお知り合いなんですよね?
俵万智 石垣島に丸5年住んでいたんですけど、住み始めてしばらくした頃に世一さんが引っ越してこられて。私と世一さんが住んでいた場所は島の中でも特に小さな集落で、近所に飲み屋さんがないから、夕方になるとみんながおつまみとお酒を持って集まってくるんです。それで自然と親しくなりましたね。
世一 お会いする前から俵さんのお名前はもちろん存じ上げておりましたし、歌集もエッセイも読んでいたので石垣島に引っ越したときは本当にびっくりしました。最初はどう接したらいいのか戸惑いましたが、お酒を飲んだりバーベキューをしたりするうち、趣味が合うことが多くて。上京した今も、ありがたいことに交流が続いてます。
マツザカタクミ 俵さんが石垣島に移住されたのは、落ち着いた環境で創作活動をされたいと思ったからですか?
俵 実は震災がきっかけなんです。当時仙台に住んでおりまして、震災直後から息子の通う小学校が避難所になったため休校になりました。とりあえず春休みの間だけでも仙台を離れようかなと思い、友人が住んでいた石垣島に身を寄せました。行ってみると本当に素晴らしい場所だったんですね。最初は春休みだけのつもりが「いや、1学期の間だけ住もうかな」と延ばしていくうちに帰れなくなって。ものを書く仕事はメールを送ることができればどこにいてもできるので、それも大きかったかもしれないですね。
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手を抜いたら、短歌にも生徒にも失礼になってしまう