音楽ナタリー Power Push - 高橋まことが振り返る「BOØWY伝説」
BOØWY公式アーカイブサイト オープン記念
「バカ野郎、使わねえんだったらマイクなんかいるか」
──BOØWYにはリーダーという立場の人が明確にいたんですか?
基本はヒムロックよ。やっぱり「バンドの方向性はこうだ」ってことはあいつが決めてたんで。俺を抜かせば一番年上だし、一応あいつがリーダーみたいなもんだった。
──布袋さんは高橋さんにとってどういう存在でしたか?
ひと言で言うと、変だよねあいつは。
──ははは(笑)。
いや、うまいんだけど、なんか人と違うっていうかさ。ギターだけ弾いてりゃいいって人じゃないじゃん? 「絶対に自分が全部持っていきたい」みたいなところがあるから、ヒムロックが歌ってるときは引っ込んでバッキングやってるけど、いざソロになったら途端にぐいっと前に行くし。曲を作ってても自分が出るところをよく考えてるんだよね。「BEAT SWEET」とかも自分にスポットが当たる部分をちゃんと用意してる。「ギターのために作ったのか?」みたいな曲もあるからね(笑)。
──松井さんはどうでしたか?
松っちゃんも最初のうちはコーラス録ってたんだよね。ベルリンから帰ってきて日本でツアーをしたとき、ベルリンで録音してくれたエンジニアのマイケル(・ツィマリング)が「俺PAもできるよ」って言って日本に来きちゃったからミックスやらせることにしたの。それまでは俺と松っちゃんのところにもマイクがあって、松っちゃんも「NO.NEW YORK」とか歌ってたんだけど、マイケルが「まことと松井のボーカルはいらねえな」って言って、フェーダー下げて音を切りやがった。
──あははは(笑)。
「バカ野郎、使わねえんだったらマイクなんかいるか」っつって、それから俺と松井はマイク取っ払っちゃったんだよ。ただそれには問題があって、ステージが大きくなるとカウントの声が3人に聞こえないんだよね(笑)。結局「曲が始められないから」ってことになって、カウントを拾ってみんなのモニタースピーカーに流す用に棒マイク置いた。
──ボーカルマイクがなくなったのはやっぱりショックでしたか?
まあ別にいいんじゃん?って(笑)。どうせしゃべるのはヒムロックだけで、ステージでは布袋も俺も松井もひと言もしゃべらないから。
──そうですよね、BOØWYってMCをするのは氷室さんだけなんですよね。ほかのバンドだと、主にボーカルがMCをやるけどメンバーにもマイクを向ける、みたいなことも多いですが。
そういうのほとんどなかったもんね。「しゃべりと歌はあんたにお任せ」みたいな。まあ、俺も別のバンドではしゃべったりするけど、俺がしゃべると「話がなげーよ」って言われるから、BOØWYはそれでよかったんじゃないかな(笑)。
最初はゴルチエのマークをパクって貼っつけてたんだよ
──BOØWYってオリジナルアルバムが6枚ありますが、音楽性が全部違うんですよね。高橋さんがその後にやるDe-LAXも、作品を出していくたびにどんどん作風が変わっていきましたし。当時はそれに戸惑うファンもいたんじゃないかなと思うのですが。
そうだね。だからファンの子でも前期が好きとか、中期が好き、後期が好きとかいろいろ分かれるんだよね。
──高橋さん自身は今になって振り返って、どの時期のBOØWYの音源が好きですか?
真ん中あたりが一番いいんじゃない? 何も考えてないから。「PSYCHOPATH」が出る頃には「もう今年で解散だなー」っていうのが頭の中にあるからモヤッとしながら作ってたけど、「BEAT EMOTION」あたりはイケイケで、アルバムを出せば1位になるし、一番何も考えてない時期だから、あっけらかんと気楽にやれてて楽しかったですね。
──僕が最初に聴いたのは「BEAT EMOTION」だったんですけど、そこでファンになってどんどん前のアルバムを聴き始めたら、「MORAL」を聴いて違いにビックリしました。その頃はパンクって言われていたようですが、当時流出して出回っていたライブのテープを聴いたら、氷室さんは「みんな俺らのことパンクだって言うけど、パンクじゃねえから」って言ってたのをすごく覚えてます。
たぶんその発言自体がパンクっぽかったんだと思うけどね。「大人の言いなりになっちゃダメ」「世の中を斜めに見ろ」っていう意味でそれを言ったんだと思う。あの頃のヒムロックは髪の毛を紫とか真っ赤に染めたり、人から「なんだありゃ!?」って言われるような反社会的なカッコしてたし。
──バンドのビジュアルはどうやって決めていたんですか?
ああ、どうなんだろうね。そのへんはよく覚えてねえなあ。スタイリストとか、レコード会社のディレクターとか、うちのプロデューサーとかがみんなでワイワイ言ってた気はするけど、何をどういうふうにすればいいのかとか、俺はわかんなかったからな。
──ライブを重ねるごとにどんどん衣装が派手になって、後期にはみんなでジャン=ポール・ゴルチエのスーツを着ていましたよね。
最初は布袋が自分の衣装を誰かに作ってもらって着てたんだけど、そこにゴルチエのマークをパクったやつを貼っつけてたんだよ。そしたらスタッフから「ゴルチエを着たいんだったらゴルチエに話してみれば?」って言われて。
──えっ、最初は非公式だったんですか。
うん。あのときはオンワードがゴルチエとライセンス契約してたんで、そこに話持って行ったら「BOØWYさんが着たいって言うなら使っていただいて構いませんよ」って言ってくれて。ツアー前に衣装が詰まった箱を何十個も持ってきてくれたんですよ。「すげえな取り放題じゃん」「もうスタイリストいらねえじゃん」って。
──けっこうゆるかったんですね。そういえばバブル時代真っ盛りか……。
ただ、もらったのはショーで着るためのやつなんで、みんなでかいんだよ。布袋はまあ着れるんだけど、ほかの3人はジャケットの袖まくったりしてさ。
──コンセプチュアルにやってるのかと思ったら、意外と適当だったんですね(笑)。
わりとそんな感じだね(笑)。
──高橋さんはずっとサングラスをトレードマークにしていますが、どういうきっかけでサングラスをかけ始めたんですか?
やっぱり俺は普通の人っぽく見られてたから。最初はボストン型の丸いメガネかけて髪型はテクノカットで「まこっちゃん、だせえ」とか言われてたから、「ちょっとまずいな、雰囲気変えなきゃ」って思って。
──とはいえ、フロントマンの2人にビジュアルで勝つのは難しいですよね。
いや無理だよね。バンドのファッションリーダー的な部分は布袋が引き受けてたし。俺が服を買いに行っても、「まこっちゃん! これいいよ!」っつって布袋が選んでくれるんだよ。あと、髪の毛を切ったり立てたりするのも布袋がやってくれてたからね。俺は自分で立てられねえから(笑)。まあ、布袋はスタイリストも兼任してるようなもんだった。
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高橋まこと(タカハシマコト)
1954年生まれ、福島県出身のドラマー。1981年に暴威(のちのBOØWY)の初ライブを観たことをきっかけに、ドラマーオーディションに参加してバンドに加入。1988年に東京・東京ドームで最後のライブ「LAST GIGS」を行うまで、パワフルかつタイトなビートでバンドの屋台骨を支え続けた。BOØWY解散後は、元ALLERGYの宙也を中心としたバンド・De-LAXに参加し。De-LAX解散後はソロアルバム「楽しき人生」をリリースしている。その後もさまざまなバンドに関わりながらドラマーとして精力的に活動。2007年には自叙伝「スネア」を出版した。