BANTY FOOT|周辺シーンとのコラボで熱を帯びる名古屋発レゲエサウンド

東海地区を代表するレゲエクルー・BANTY FOOTが7月10日に新作「DIRECT ~ALL JAPANESE DUB PLATE MIX~」をリリースした。

レゲエには各アーティストのオリジナル楽曲をクルーごとに歌詞を書き換え、ダブプレートと呼ばれる1点ものの楽曲として仕上げるカルチャーがあり、本作はBANTY FOOTオリジナルのダブプレート集。FIRE BALLやRYO the SKYWALKERらベテラン勢からVIGORMANら若手レゲエアーティスト、さらには裂固や¥ELLOW BUCKSなどのラッパーたちも参加しており、オープニングナンバーとして新曲「Radio feat. Rude-α & 遥海」も収録されている。

昨年リリースされた「交差点 feat. EXPRESS」がYouTubeで200万回再生を記録し、東北楽天ゴールデンイーグルスの浅村栄斗選手や読売ジャイアンツの若林晃弘選手の登場曲として使用されるなど、レゲエシーンを超えた支持を獲得したBANTY FOOT。音楽ナタリーでは、これまでの歩みと今後のビジョンについて、BANTY FOOTの創設メンバーであるJUNに話を聞いた。また特集の最後のページには、新曲に参加したRude-αと遥海から寄せられたコメントも掲載している。

取材・文 / 大石始 撮影 / 山川哲矢

サッカーからレゲエの世界へ

──JUNさんのご出身は名古屋ですよね。

そうですね。緑区っていう名古屋の端っこです。中心まで車で30分ぐらいの郊外で。

JUN

──じゃあ最初に遊びにいったクラブは名古屋?

そうです。当時RADIX(2016年6月に閉店)っていうクラブがあって、先輩に連れていかれたんです。それが2000年代頭ぐらいで、MIGHTY CROWNが出てたんですよ。それまでレゲエを一切聴いたことがなかったんですけど、MIGHTY CROWNがニューヨークのサウンドクラッシュ(サウンドシステム同士によるレゲエならではのバトル)で世界チャンピオンになった直後だったこともあって、音楽の持つパワーに初めて圧倒されちゃって。そのときはGUIDING STARという名古屋の大先輩も出ていて、いきなりハードコアな現場に行っちゃったんですよね(笑)。

──そのイベントからズブズブとレゲエの世界にハマってしまったと。

そうですね。イベントが終わってから一睡もせずに地元のレゲエ専門レコードショップに行って、ミックステープを買ったんですよ。それを擦り切れるぐらい聴いては、ほかの店でもミックステープを探すようになって。そんなとき、2001年10月にRED SPIDERが名古屋に来て、また撃ち抜かれて「俺もやりたい!」と思ったんです。次の日には(DJプレイ用の)レコードを買いに行ってましたね。

──決断してから実行に移すまでのスピードがいつも早いんですね(笑)。

「やりたい」と思ったら、すぐにやりたくなっちゃうんですよね(笑)。僕はもともとJリーガーになりたくて、実業団でサッカーをやってたんです。でも、夢が途絶えてしまって、その後はただ仕事をする毎日で、かなりやさぐれてたんですけど、そんな僕の姿を見て、先輩がレゲエのクラブに連れていってくれて。そこでサッカーから音楽へと気持ちが変わってしまった。

──なかなかレアなケースですよね。

そうですよね。最初のBANTY FOOTもサッカーをやってた仲間5人と始めました。サッカーを辞めたあと、初めて「カッコいい」と思えたのがレゲエだったんです。MIGHTY CROWNにしても彼らはレゲエで世界チャンピオンになったわけで、夢があるなと思えた。自分にとってはそれが大きかったんです。ここまで本気になるとは思ってなかったんですけどね。

──では、BANTY FOOTの活動に本腰を入れるようになったのはどのタイミングだったんですか?

2003年に初めてジャマイカに行ったんですよ。当時まだ会社員だったので、有給休暇を取って2週間行ってきました。ただ、英語もまったくしゃべれなかったし、何もできなくて。どうしてもジャマイカのアーティストとレコーディングしたくて、言葉がわからないなりにスタジオまで行って、現地のアーティストと15曲ぐらいダブプレートを録れたんだけど、これじゃダメだと。それで日本に帰ってから半年後には会社を辞めて、もう一度ジャマイカに行って。それからレゲエ1本でやることに決めました。

名古屋を席巻していたハードコアなヒップホップ

──BANTY FOOTが本格的な活動を開始した2000年代前半の名古屋のシーンはどんな状況だったんでしょうか。

JUN

平日のイベントでもお客さんがいっぱい入ってましたし、すごい盛り上がりでしたね。オールジャンルのクラブでもレゲエがかかっていました。名古屋だとヒップホップもすごかったですね。

──当時の名古屋のヒップホップというと、ILLMARIACHI(刃頭と2004年に急逝したTOKONA-Xによるユニット)のあとにM.O.S.A.D.がいて、PHOBIA OF THUGがいて……。

そうですね。TOKONA-Xさんがレゲエのパーティにきて、フリースタイルで盛り上げてたことがありましたね。めちゃくちゃカッコよかった。

──名古屋というと、AK-69とB-NINJAHがコンビを組んでいたりと、レゲエとヒップホップのシーンが近いイメージがあるんですが、JUNさんの世代はそれほど交流はなかった?

そうですね。M.O.S.A.D.やAKさんみたいな上の世代の先輩たちはすごく近かったんですよ。名古屋のヒップホップって本当にハードコアで、僕ら世代はあまり交わることがなかった。先輩たちのようになれるわけでもないし、「自分たちなりのレゲエをやっていこう」という意識は最初からありましたね。それぐらい先輩たちが強烈だったということでもあるんですけど。

──そういう意味でも、名古屋は東京や大阪とは違う独自のシーンがありますよね。

独特ですよね。東京や大阪に対してライバル心を持ってる人も少なくないですし、横浜と似てるなと感じるところもありますね。