ASKA|Made in ASKAで31年 活動の中で生じた音楽の変化

自分でもどこに存在してるかよくわからない

──1988年に1stソロアルバム「SCENE」が、1991年には2ndソロアルバムの「SCENE II」がリリースされますが、これら2作品と1995年発売の3rdソロアルバム「NEVER END」はずいぶんテイストが違いますよね。

「SCENE」ジャケット

そうですね。デビューして4、5年目くらいから「ソロをやりたいんだ」という話はしていたんです。でも、当時はいろんな意味で今と違って閉鎖的でしたから「CHAGE and ASKAというベースがあるにも関わらずソロをやるのは、解散と受け止められるんじゃないか」みたいな意見が多くて。僕は単に自分だけのアルバムを作りたいだけだったんですけど、毎年のように却下されてたんです。通らなかった。CHAGE and ASKA の活動を始めてから9年目か、10年目に入ってからですね。「今まで人に書いた曲だけでソロをやらせてほしい」とお願いしてみたら「なるほど、それなら企画性があるね」ということで、やっと作れたのが「SCENE」なんです。

──「SCENE」や「SCENE II」を出した頃は、ソロライブもなかったですよね。

はい。そもそも1人でライブをやるつもりはなかったですから。

──そこから「NEVER END」に至る中で変わったことは?

「NEVER END」ジャケット

ソロ活動に対する意欲は強くなっていましたね。「SCENE」「SCENE II」はわりとバラード中心の楽曲だったんですけど、ソロ活動への気持ちがちょっと強くなってるときに「バラードのイメージ付けをされたくないな」と思って。自分の持ち味はバリエーションだと思ってるんで、それを最大限生かしたアルバムを作ってみようとしたのが「NEVER END」です。

──確かに、ソロアーテイストとしての表現の幅の広さは「NEVER END」で見えた気がします。

そうだとうれしいですね。やっぱりグループをやりながらソロをやるというのはどこかに気兼ねがあって。その頃「“1人CHAGE and ASKA”をやりたい」と言って、随分誤解されました(笑)。コーラスも含めて全部1人でやりたかった時期なんです。

──ライブを含めてロックアーテイストという見方をされるようになったのは、この頃が最初だったんじゃないでしょうか?

そうかもしれませんね。ただ自分ではソウルをやってる気持ちが強いんです。イギリスではよく「ASKAの音楽はソウルだね」と言われました。それはきっと言葉を超えて感じていることだったんでしょう。歌謡曲で育ってきたから、自分の中にはメロディのおいしい部分がありながら、ロック的な要素もある。音楽って自分の経験が音に出てくるものですから、僕の音楽の位置付けは非常に難しいと思います。自分でもどこに存在してるかよくわからない。

──自分でもわからないんですね。

そう。でもそれが自分かなと思うんですよ。時期によってやってることが違うということは、なんでもやれるということだと思いますし。

──90年代に入ってCHAGE and ASKAはミリオンヒットを連発するモンスターグループになるわけですが、その中でも「自分の音楽はどこにあるんだろう」みたいな意識はあったんですか?

その感覚は今でもありますよ。皆さんがよく「ASKAっぽい曲だね」みたいに言ってくれることがありますけど、自分ではどこがそう感じさせているのかよくわかってないですから。ただ、もしそれが自分でわかったとして、自分っぽく曲を書いてしまったら、それはつまらないものにしかならないでしょうし。

──過去のインタビューで「同じ曲は書きたくない」と繰り返しおっしゃってましたからね。例えば「『SAY YES』みたいな曲を」みたいな依頼は数えきれないほど受けてきたと思いますし。

一番多かったのが「『万里の河』のような曲を」というリクエストでしたね。本当に何度もリクエストされたものですから、呪縛だと感じていました。呪縛が一番長かったのが「万里の河」。なんとしても、その鎖を外したかった。

ASKA

チャゲアスとは違うテーマを

──「Made in ASKA」に収録されている「はるかな国から」「ID」「ONE」といった90年代に作られた楽曲は、現代にも通じる社会的な背景を感じさせるものがあります。

確かに「はるかな国から」を書いた背景には、90年代中盤に報じられた、ある少年がいじめで自殺をしたニュースがもとになっています。あの事件が社会に与えた衝撃というのは大きかったし、僕自身この曲の歌詞を書いているときに「少年のご家族に挨拶に行かないといけない」と思ったくらいなんです。ただ本当に歌いたかったことは「夏になったら薄着しよう。冬になったら厚着すればいいじゃないか。そういう自然な生き方をしよう」ということだったので、そこまではせずに歌詞を書き上げました。

──CHAGE and ASKAで発表している曲とは違うテーマを選んでいた意識もありましたか?

そうかもしれません。自分でも気付かないうちに、そういうテーマを選んでいた気はしますね。

「kicks」ジャケット

──ファン投票で8位を獲得した「同じ時代を」、10位の「Girl」が収録されたアルバム「kicks」(1998年3月発売の5thアルバム)は、今の若い世代のリスナーに聴いてほしい1枚だと感じます。

「kicks」リリース時の皆さんの反応は否定的なものだったんです。でもそれはわかってやってた。当時僕は「クラブとロックの融合」と言ってたんですけど、そういう試み自体がなかった時代だから理解されなくて「言うのはいいけど、聴く側の身にもなってみろよ」という感想を持たれたんでしょうね。「kicks」が本当に再評価されたのは10年くらい経ってからですね。今では「このアルバムが一番いい」と言ってくれる人がたくさんいますから、若い方にも受け入れられやすい作品なのかもしれません。

──「kicks」はロンドンで制作された作品でもありますよね。そういった制作環境の変化も影響しているのでしょうか?

実際には最終的なレコーデイングをロンドンでやっただけで、おおよその形は日本で固めていたんですよ。ただ音はやっぱり違いますね。参加ミュージシャンの多くはロンドンのミュージシャンですから。エンジニアのポール・オダフィーがすごく有名な方で。彼と気が合って「何度でもやり直すから」と言ってもらえたから、ひたすら積み上げていく作業が海外でもできたんです。不思議なもので、海外で音を鳴らすと海外の音になるんですよね。「電圧が違うから」とかいろいろ言われてますけど、明確な答えはないんです。でも向こうで音を鳴らすと本当に音は違う。

音楽は時代と一緒に変わっていく

──2005年の「心に花の咲くように」、2008年の「UNI-VERSE」、そして2012年の「いろんな人が歌ってきたように」といった「Made in ASKA」に収録されているラブソングに改めて触れて、ASKAさんが発するラブソングの形の変化を感じました。

「いろんな人が歌ってきたように」は「そろそろ気付こうよ。すべては自分だということを」をテーマに書き始めた曲なんです。他人の影響があったとしても、他人のせいでこうなったとは絶対に思ってはいけない。最終的には全部自分が選んだことだから。日常生活24時間、寝てるときはわからないですけど、一瞬一瞬自分で判断しながら選んでいる。癖も含めてね。こうして長い間歌ってきたけど、ふと気付けば自分も愛を歌っているということに喜びがあるんですよね。これまでたくさんの先人たちが歌ってきた愛を歌うということを、自分もできるようになれたのかって。

──「はじまりはいつも雨」や「MIDNIGHT 2 CALL」で描かれていた恋愛感情から、もっと大きな愛情に変わっていく流れをベストアルバムの収録曲で感じました。

特に僕はそれが極端かもしれません。それに恋愛の歌を歌ったかと思えば、次の曲では人の生き死にや生き様を歌ったりするわけですから、その振り幅は広いのかなって。自分の中でもっと細かい引き出しを持たなければいけないと思ってはいるんですけど。


2018年10月17日更新