「超人ロック 憧憬」聖悠紀を支え続けたアシスタントと妻が綴る、聖との日々 (2/2)

聖悠紀の妻・mia インタビュー

最後にネームを描いた原稿は、棺にも入れました

──聖悠紀さんが亡くなられて、早1年ですね。今年の“ロックの日”には「聖悠紀先生を偲ぶ会」も開催されましたが、それ以外にも、折に触れてSNSなどで聖さん、そして「超人ロック」が多くの人に愛されていたのだなと改めて実感することが多かったように感じています。miaさんにも、そんな声の数々は届いていらっしゃいますか。

聖悠紀の読者様は、2006年から6月9日を「超人ロックの日」と呼んで、毎年SNSにイラストやご感想を寄せてくださいます。途切れることなく今年で18年目を迎えました。若い読者の方から、絵を描くことを仕事とするプロの方々まで、毎年大勢の方が参加してくださいます。聖悠紀も私も毎年読ませていただき励ましをいただいてきました。話が脱線しますが、聖は、出版社主催の新年会に出かけるとき、同業の先生方と話ができるといいなと言って出かけていきました。仕事が忙しい聖にとって、新年会はほかのマンガ家の皆様と親しく話ができるチャンスだったんです。機会に恵まれて話ができた年は、帰宅するとニコニコして土産話をしてくれました。「今年はダメだったよ」と残念そうに言っていた年もよくありました。そういう聖を見ていましたから「超人ロックの日」にご声援をいただいてどれほどうれしかっただろうと想像すると、皆様への感謝の気持ちでいっぱいになります。ありがとうございます。

──今回の「憧憬」は、聖悠紀さんが亡くなった後、残された資料をもとに仕上げられ、我々読者に届けられたと聞いております。完成にいたるまでにはどんなやり取りがあったんでしょうか。

聖悠紀のパーキンソン病の進行は早く、「憧憬」は何度も休載しながら苦労して描いていました。あと18ページで完成するというところまできたとき、残りは一気に読んでほしいという聖の希望で、最後まで完成させてから編集部にお渡しすることになりました。その頃はもうペンを持てなくなっていましたので、鉛筆でネームを描き、残りの作業はアシスタントの佐々倉さんがしてくださることになりました。佐々倉さんは聖悠紀が所属していたマンガ同人集団、作画グループの会員で、聖が若い頃からアシスタントをしてくださっている方ですから、安心してお任せすることができました。聖は急に亡くなりましたので、プロットは完成していましたが、残り18ページの原稿のうち最初の8ページしかネームを描けませんでした。聖が亡くなった後、その8ページの完成原稿のデータをいただき、印刷して棺に入れました。

「超人ロック 憧憬」最終話の1ページ目。

「超人ロック 憧憬」最終話の1ページ目。

──完成した「憧憬」最終話を読まれて、どんな感想を持たれましたか。

完成した「憧憬」の原稿を読んだときは、聖が生きた最後の日々を思い出して切なくなりましたが、やっと聖の仕事が終わったんだ、これでゆっくり休めるんだとも思いました。聖は長年支えてくださった方に原稿を仕上げていただいて喜んでいると思います。聖に最後まで描いてほしかったという気持ちは大きいですが、これでよかったのだと思っております。

「憧憬」の次は、「カオスブリンガー」を再開したいと言っていた

──聖悠紀さんがご家庭で、miaさんに「超人ロック」の話をされることはよくあったのでしょうか?

聖は家では仕事の話をあまりしませんでした。長年一緒に暮らすうちにたまに自分から話すこともありましたし、私が尋ねれば答えてくれましたが、聖は以前から、読者の想像に任せたいと言っていました。細かなところを質問されて自分が答えてしまうと、読者が想像する機会を奪ってしまうと思っていたのかもしれません。

──晩年はパーキンソン病とも戦われながらの執筆となりましたが、思うように線が引けない中、ご病気を公表された後も、決して“「超人ロック」の最終回”ではなく、「憧憬」のように新たなエピソードを生み出し続けられたことについて、もし聖悠紀さんの思いを聞いていらっしゃったら、教えていただけますでしょうか。

「憧憬」が終わったら、休載しているヤングキングアワーズ(少年画報社)の「超人ロック カオスブリンガー」を再開したいと言っていました。「カオスブリンガー」は、「超人ロック ラフラール」「超人ロック 鏡の檻」、そして「超人ロック 銀河の子」を描いているときから構想を練っていたようです。壮大な話になる予定でした。また、ほかのマンガ家の先生にロックを描いていただくことについては抵抗がなく、「超人ロック 異聞」も喜んでいました。

「憧憬」のネームに至るまでの聖の心中は私には想像もできません。2017年12月に心停止し、蘇生を経て冠動脈バイパス手術を受けた際、意識が戻って最初に言った言葉は「原稿」でした(人工呼吸器につながれていたので文字が書かれた板を指さしながらの会話でした)。「マンガは面白くなければ」と語っていた聖は、当時の様子を笑える4コママンガにしましたが(※)、本当はとても苦しいことの連続でした。その苦しみの中で何よりも「原稿」を気にかける人でしたから、休載が続くことはつらかったでしょうし、原稿を完成させたいと誰よりも思っていたはずです。聖は弱音を吐かず、自分の身に起こったことを嘆くことも、思うように描けないことについて怒ることも、一度もありませんでした。ひたすら耐えて、受け入れているようにも見えました。ですが聖ほどの人ですから、きっと心の中でいろいろなことを考えていたのだと思います。

※このときの顛末を記した「電脳かば闘病記」はヤングキングアワーズ2018年7月号に掲載され、のちに「超人ロック 鏡の檻」4巻に収録された。

優しい人でしたが、自分には厳しい人でした

──佐々倉さんには聖さんの“仕事場での顔”をお聞きしました。miaさんには聖さんの“ご家庭での顔”をお話しいただけないでしょうか。

まとまりがなくて申し訳ございませんが、思いついたことを書かせていただきます。聖は自分からは多くを語らない人でした。感情の起伏が穏やかで、怒ることも何かに怖がることもなく、ホラー映画を観てもぜんぜん怖がりませんでした。大声で笑うこともなく、にっこりする程度でしたので、私は聖を爆笑させたくて、いろいろなことをしました(恥ずかしいので何をしたかは省略させてください)。たまに成功して笑ってくれるとうれしかったです。聖と一緒に暮らすうちに、聖がブラックホールのようだと思うことがありました。自分が見聞きしたこと、感じたことをみんな吸い込んでしまう。そして後で作品の形で表に出しているのではないかと思いました。

カバーイラストにも使われている、「超人ロック 憧憬」第5話の扉絵。生前に発表されたものとしては、最後のエピソードとなった。

カバーイラストにも使われている、「超人ロック 憧憬」第5話の扉絵。生前に発表されたものとしては、最後のエピソードとなった。

読書、ゲーム、映画を観ることが好きでした。車を運転することも好きで、運転がとても上手でした。聖のSF好きはよく知られていますが、文庫本を自由時間ができたときによく読んでいました。優しい人でしたが、自分には厳しい人でした。結婚する前からフォトショップを使っていて自宅のパソコンで仕事をすることがよくありましたが、聖の仕事を見ていた私が褒めると、わしはうまくない、まだまだだと言っていました。前の質問の答えにも書きましたが、聖はパーキンソン病にかかって絵がだんだん描けなくなっていっても、怒ったり、嘆きや不安を口に出したことがありませんでした。亡くなるまで本当にひと言も言いませんでした。いつも感情を言葉にしていたのは私でした。悲しんだり、嘆いたりしている私に「なるようにしかならん」と言って鎮めてくれるのは聖のほうでした。

──最後に、長年の「超人ロック」のファンに、メッセージをいただけますか。

今まで聖悠紀の作品を読んでくださりありがとうございました。そして、これからも読み続けてくださることに感謝を申し上げます。皆様のご声援があって聖悠紀は描き続けることができました。「超人ロック」が半世紀以上にわたる大作となったのは、皆様が読んでくださり、聖を応援してくださったからだと思っています。聖は皆様にお礼を言うことができないまま、突然旅立ってしまいました。聖悠紀に代わって、心からお礼と感謝を申し上げます。ありがとうございました。またコミックナタリー様、このたびは筆記インタビューという形で読者の皆様にお礼を申し上げる機会を設けてくださりありがとうございました。聖悠紀について話をする機会をいただいたことにも感謝を申し上げます。