初音ミクができるまで
僕がクリプトンに入社して最初にした仕事は、ヤマハ株式会社の剣持秀紀さんから依頼されたVocaloidのアップデートチェックの仕事でした。その流れで「Vocaloidをどうやって展開したらいいか」を考えることにも参加させてもらいました。最初期においては、弊社の取引先であるイギリスのZERO-Gという企業や、ドイツのBestServiceというパソコン用の音源会社に掛け合って、Vocaloidを英語圏~ヨーロッパで大きく売り出したいというのが戦略だったのですが、ZERO-Gが初めてリリースした、「LEON」「LOLA」という英語で歌うVocaloidが、イギリスの権威ある音楽制作者向け雑誌「Future Music」などでこれ以上ないくらい酷評されたんです。「使い勝手も、音もよくない」みたいな。確か点数も10点満点で2点か3点というかなり低い点数でした。子音が明瞭でなく、発音のニュアンスがまだうまく再現できていなかったから、「打ち込んだイメージと出てくる音がまるで違う」とか書かれて。それで「英語圏で盛り上げていくのは難しいんじゃないか」という雰囲気になりました。
日本でも並行して「MEIKO」や「KAITO」を開発したところ、英語より日本語のほうがVocaloidのシステムに合っていて、ユーザーからもいい反応があったので、「日本で盛り上げてみよう!」みたいな感じになりました。例えば、当時勢いがあった札幌のI'veというプロダクションに行って「KOTOKOさんの声をVocaloidにするというのはどう思いますか?」などとヒアリングさせてもらったり、国内で受け入れられる道を模索するようになったんです。しかし、元の声が著名な人であればあるほど、出てきた歌声とのギャップが目立ってしまうんじゃないかという危惧もあり、躊躇してしまうことが多かったんです。
そのうちにVocaloid2の企画が持ち上がってきて。最初の製品は何にしようかっていうときに、剣持さんがマジックペンで「MEIKO2」と手書きしたCD-Rを持ってきてくれて。それを見て僕は「いやー、MEIKOならともかく、MEIKO2ではフレンドリーな女声歌手という印象にならない。それでアンドロイド設定だと、なんだかキャラメルマン2号みたいじゃないですか。人の名前に“2”を付けるのはShing02だけの専売特許にしておきましょうよ」と考えて(笑)、「試しにほかのライブラリを作ってみたいんです」と、会社とヤマハさんに申し入れをしたんです。
当時は専属担当者を付けてまでやってペイする企画かどうかがわからなかったので、とりあえず通常業務としてドラムやオーケストラ、ヒップホップなんかの音源のセールスをやりながら、空いた時間にちょこちょこミクの企画を考えていました。最初は英語圏への同時アプローチも考えていたこともあり、バイリンガルの浅川悠さんへオファーをしたら、たまたま留学中で、先に藤田咲さんへお願いする流れとなりました。「Vocaloidに甲高い高音成分を組み合わせると、粗が目立たないんじゃないか」というアイデアを試すことになったんです。そうして、初音ミクの音源が完成しました。
ミクはどのように受け入れられたのか
発売されてから実際にどういう使い方をされるかは、特に考えてませんでした。「今できる技術でとにかくやろう」と、Vocaloid2の開発ツールのバグフィックスをヤマハさんと行いながら、バッタバタな状況で開発していました。MEIKO2といくつかの英語Vocaloid2はVocaloid1からのコンバートバージョンだったので、1から作られたライブラリは初音ミクが最初だったんです。そんな理由もあって、初音ミクの最初の出荷バージョンでは、ピッチの設定バグが発覚してしまって。あとから「注意!」って書いた赤い紙をパッケージに入れて、ピッチチューニングの修正方法を伝えていたような状況でした(苦笑)。
ミクが発売されるちょっと前の時期は、インターネットではアマチュアミュージシャンはmuzieっていう投稿サイトに曲をアップしていて、ニコニコ動画の“爆誕”があり、初期の“ネットラップ”みたいな切り口が出始めたり、DJ TECHNORCHさんとかがロッテルダムテクノやシュランツ経由のナードコアをやってたり、チップチューンがライトに流行ったり、濃い目のオタク向けポップスがA-POPと呼ばれてたりした時期で。同時に、コラージュやマッシュアップの手法が多様化して、imoutoidさんのような新世代のプログレッシブなアーティストも出てきていて。AKB48が本格的にメジャーデビューしたのもそれくらいの時期ですよね。音楽シーンでそういう“オタクっぽい”“秋葉原っぽい”いろいろなものがクロスオーバーしていたなんでもありの空気感だったのが、ミクの登場にとってもよかったのかもしれないです。もし発売のタイミングがズレていたら、ミクは受け入れられなかった可能性もあると思います。それ以前に大きなムーブメントを起こした音楽、例えばクラブミュージックや、R&B、ヴィジュアル系みたいな、1990年代後半からポストJ-POP的な立ち位置だったカテゴリーが落ち着いていって、同時に洋楽のカリスマ性も急速に落ちていって、2000年代後半に「若者は、何に熱中するんだろう?」という雰囲気になっていたときに、一気にネットカルチャー / オタクカルチャーにエネルギーが集中していって、ちょうどそこでタイミングよくミクがブレイクしたという話ですね。
また、それくらいの時期から若い子たちがCDを買って音楽を聴くということをしなくなってましたし、音楽に興味を持った子たちがみんな、パソコンやスマホ、ニンテンドーDSとかでネットに接続すれば無料で聴けて友達とシェアして盛り上がれるボカロ動画に流れていったというのもあるんじゃないでしょうか。
ミクの発売直後はニコニコ動画も始まったばかりで、Flash動画ブームの流れで「面白いネタやコラージュ動画を楽しもう!」という気運が強かったので、既存のコンテンツをリミックスした動画が多く、「ニコニコ動画でオリジナル音楽を聴こう」という風潮はそんなになかったです。だからミクユーザーも“音楽を作る”というより“ミクで遊ぶ”という感覚で、「鉄オタの人が、発車チャイムをミクに歌わせてみた」とか、「ゲームボーイの名作のゲーム音楽に歌詞を付けて歌わせてみた」とか、ネタ的に面白がってもらうことが多かったですね。ある意味、“遊べて歌えるバーチャルアイドル”だったんですよね。当時は、会う人たちから「歌は作れないけどとりあえず初音ミク買って、名前呼ばせたりエロいこと言わせてみたよ!」って楽しそうに言われてました(笑)。でもその時期に、新しいもの好きで好奇心に満ちたオタクの人たちから「初音ミク面白いよね」って楽しんでもらえたのが、今考えるとすごく大きかったよなあと思います。プログラマーの方々が一番多かったですが、ニュースサイトの記者や、テック系雑誌の編集部の方、ゲーム業界の方々、はてブ民(はてなブックマークユーザー)の方々が「こういう技術が発展すればあんなこともこんなこともできるじゃないか」って最新技術やSFと結び付けて考察した記事を書いてくれたり、そういう動きに後押しされたところは絶対あります。
自分の中で初音ミクの“第1クール”は2008年3月くらいまでだと思っています。ガンダムでいうとファーストガンダムみたいなものですね。その頃、音声合成ソフト・UTAUや、3DCGムービー制作ソフト・MikuMikuDanceがフリーで公開されたり、ユーザーの可能性を広げてくれるフリーソフトやサービスがミクブームをきっかけに制作されて、ネットコンテンツのスタイルは少しずつ広がっていたんです。その結果、なんとなく「歌を作ってみたい」「動画を作ってみたい」「ネットで自分の作品を公開してみたい」、そして「ネットで流行っている曲を演奏してみたい」「イラストを描いてみたい」「ボカロ曲で踊ってみたい」と思っていたような人たちに「自分でもアイデアさえあれば気軽に面白いことができるんだ」という気持ちが芽生えて、ミク周辺の盛り上がりにさらにブーストがかかった。企業が主導したわけではなくて、ユーザーコミュニティから熱を持って発達したものだった、というのがよかったんです。MikuMikuDanceを開発した樋口優さんは「あくまで主役はユーザーの皆さんで、私はソフトを作っただけ」と言って、自分は前に出ずにスッと引いていたんですが、彼のそういうスタンスは、あの頃の初音ミクムーブメント振り返ったときに最も英雄的だったなと思います。
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ボカロ曲の傾向の変遷
2017年8月23日更新