インパルス板倉俊之の書き下ろし小説「鬼の御伽」がドワンゴの新ブランド「ⅡⅤ」(トゥーファイブ)より刊行された。この作品はおとぎ話「桃太郎」と「泣いた赤鬼」の2編を板倉が独自に解釈し、それぞれ一から描き上げたオリジナルの物語。お笑いナタリーでは発売にあわせて板倉のインタビューを行い、この着想や、小説を執筆することへの思いを聞いた。自身の怨念を込めた処女作「トリガー」から、“ボケ”が出発点となった今作「鬼の御伽」まで、甘い夢を見ることなく筆を執り続ける板倉は、なぜお笑いとは別に小説という表現を選ぶのか。
取材・文 / 佐藤ろまん、狩野有理 撮影 / 草場雄介
きっかけはテレビの企画、筆が止まらなかった
──このたび発売された新刊「鬼の御伽」は、誰もが知る昔話の「桃太郎」を翻案した「パーフェクト太郎」と、こちらも日本人が慣れ親しんできた児童文学「泣いた赤鬼」をモチーフにした「新訳 泣いた赤鬼」の2編からなる作品です。これまで板倉さんが創作してきた小説とは違い、原作があるものにチャレンジしたのはなぜですか?
「パーフェクト太郎」を作ったのは、テレビ番組(NHK Eテレ「テストの花道 ニューベンゼミ」)がきっかけだったんです。「桃太郎」の書き出しを面白くしようという企画で、自分で考えた「桃太郎」の書き出しをケータイに打っていたんですよ。そしたら止まらなくなってきて、けっこうなボリュームになっちゃって。これだと分量的に使えないので、番組では別のアイデアを出したんですが、せっかく長々と書いたものを捨ててしまうのはもったいないじゃないですか。それに、“桃太郎を真剣に面白くする”っていうこと自体が一番のボケになっているんじゃないかとも思ったんです。「なんでこいつ、こんな真剣に『桃太郎』を作り変えようとしているんだ」っていう(笑)。そんなことで書き進めて、完成したはいいけど特に発表する場所はなかった。なのでまずは朗読劇としてやってみよう思って、1年ほど前に劇場で上演したのが「パーフェクト太郎」の最初ですね。
──“書き出し”では収まらないくらい筆が乗ってきて、できあがったわけですね。
もう1編の「新訳 泣いた赤鬼」は、ハッキリ言ってあの「泣いた赤鬼」とはまったく関係ないです(笑)。「パーフェクト太郎」は「桃太郎」を作り変えることがテーマでしたが、「新訳 泣いた赤鬼」は完全オリジナル。実は何年も前から大まかな設定と、結び方のアイデアはあったんです。今回の出版の話をもらったときに「パーフェクト太郎」と「鬼」をテーマにつなげられるなと思ってそのアイデアを引っ張り出してきて、執筆に取りかかりました。そしたら「パーフェクト太郎」より長くなっちゃった(笑)。
──なるほど。「鬼」をテーマにした1冊にしようと思ったのはなぜですか?
だって、男はみんな鬼が好きでしょう? 鬼とバイクと車と銃と剣は、男が全員好きなんですよ(笑)。
──そんなライトな理由だったんですね。てっきり「人間の心に棲む鬼を暴き出して……」というような、深い理由があるのかと思いました。
全然ないです(笑)。
──戦闘シーンがリアルに描写されているのが印象的でした。例えば、刀や弓など日本古来の武器や戦術について調べているんですか?
特には調べていないです。実際にあった合戦の話だったらやらなきゃならないでしょうけど、これは僕の創作なので。自分で地形を決めて、その範囲の中でどうやって相手を出し抜くか、人間を凌駕する鬼と人間がどう戦うか、ということに力を入れて描いたつもりです。
──確かに誰が今どこにいて、どんな動きをしているか、それを別の人物がどう見ているか、というのを映像のように想像しながら読み進めることができました。
戦闘シーンはマジでこだわった部分ですね。文章で興奮できる戦闘シーンを書くことには手を抜けませんから。でも大変なんですよ、戦闘シーンって。「ガンダム」(「機動戦士ガンダム ブレイジングシャドウ」)のときに地獄を見ましたけど(笑)、モビルスーツのコックピットに乗って操作するパイロット目線で書くのがまあ難しくて。今作も苦労しましたが、その経験に鍛えられたかいあって納得するものが書けたと思っています。
たとえ悪事でも、ちゃんと根拠を持たせたい
──板倉さんは2009年に「トリガー」で小説家デビューされました。最初の作品でエッセイや自叙伝などではなく、小説に挑戦しようと思ったのはなぜですか?
当時、芸人本が流行っていて僕にもそういう話が来たんですけど、僕がいわゆる自伝的なものを書いてもパンチ力がないんです。麒麟の田村さんみたいに段ボールを食って生活したことはないし、品川庄司の品川さんみたいに乱暴な青春を送ってきたわけではないので。なので「フィクションだったら興味あります」とお返事して、「それでもいいです」ということだったので書くことになりました。ちょうどその頃、表現方法のひとつとして“笑い”じゃないものにも興味があったんです。例えば泣かせるとか興奮させるとか、そういう感動を目的に作るものは、お笑いとは根本が別なんだろうなと思っていて。それに、もともと1人で何かを作るということも好きだったので、そこまで大きな抵抗もなく取り組めましたね。
──小説のアイデアは常にご自身の中にストックしているのでしょうか?
アイデアの“タネ”みたいなものはいっぱいあって。作品を書いている途中で「次はこんなのやりたいな」っていうのが出てきます。「トリガー」のときは世の中に対するイライラを常々抱いていて、それを発散させるような、腹立つ奴の頭を片っ端から拳銃でぶち抜いていくストレス解消映像がパッと思い浮かんだんですよね。
──小説で表現してみたいことは執筆を重ねてきて変化してきましたか?
「トリガー」はそういう、怨念めいたものが強かったんですが、2作目からは読者にストーリーを楽しんでもらおうという思いが出てきました。加えて最近では、自分の主張を出しながら、その反対の主張をする奴も登場させて、自分の考え方を自分で否定していろんな視点に立ってみるようにしています。主人公からすると邪魔で仕方がない奴なんだけど、そいつがいることで自分の考えを熟成させるきっかけにもなるというか。自分の中で人間学をしている感じです。
──いろんな視点に立ってみる、というのは今作でも意識していることですか?
そうですね。たとえ悪事でも、ちゃんと根拠を持たせたいと思っていて。「鬼の御伽」でも鬼やそれぞれの立場の人間の言動には筋が通るようにしています。そもそも僕は、鬼に財宝が奪われるという「桃太郎」のもともとの設定に、「その財宝どうすんだよ!」と子供の頃から引っかかっていて。メルカリとかもない世界でしょうから(笑)、「果たして財宝は鬼にとって価値があるものなのか?」っていう。鬼がどうして財宝を盗むのか、どうして人を襲うのか、自分なりに道理を立てました。今後は“引っかからずに読める桃太郎”として、学校でも「パーフェクト太郎」を子供たちに勧めてほしいくらいですね。
──お笑いのネタ作りと小説の執筆、同じ書く作業でも根本は別だと思っていたということですが、小説を何作も手がけられてきて、具体的にどんな違いを感じますか?
もう全然違います。コントの場合はお客さんの前で発表する状態が商品なので、台本もセリフだけでいいし、コンビならネタ合わせしながら「こう動いて」とかって口で説明しちゃえばいいわけですよ。でも小説になると文章そのものが売り物。お客さんに提供するまでに膨大な時間がかかりますし、神経を使う作業です。
──手間も時間もかかる小説執筆です。それでもコンスタントに作品を発表し続けているということは、その苦労を超える手応えややりがいを感じているということですよね。
コントだと笑いにしなきゃいけないという縛りがありますけど、それがない作業に楽しみ、喜びを得られたことは大きいかもしれません。言ったら、小説ってなんでもできちゃうんです。テレビのコントだと2Dで見せられる限界がどうしてもあるんですけど、小説だったら銃は乱射できるし、ミサイルも飛ばせるし、それも、セットや小道具も作る必要なく無料でできるという自由さは感じますね。
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書き続ける中で出てきたこだわり