「無学 鶴の間」第28回レポート
「バックスクリーン3連発」の記憶を封印してる
「今日は野球関係の方です。すごいことをやり遂げた人ですけど、普通に見てたらそんなふうに見えないんです」
鶴瓶がフフフと笑い、「元巨人の槙原さんです」、そう紹介した。
登場した槙原寛己、「どんな感じかなと思って来てみたら、やっぱりすごい圧がありますね」と無学の客席を見渡す。
鶴瓶の師匠・六代目笑福亭松鶴が住んでいた家を、鶴瓶が買い取って寄席小屋として改装したここ「無学」で、25年間ゲストを伏せて開催してきたトークイベント「無学の会」の配信番組「無学 鶴の間」。ゲストに誰が来るのかわからないからこそ、観客はその瞬間まで期待感を大いに募らせる。槙原が感じた「圧」は、期待感の現れで、それはそのまま会場の熱気となっている。
「僕が出てきたとき、(旅行会社の)HISの人と思われたんじゃないかなって」と心配そうに笑う槙原だが、Tシャツにアロハシャツという格好は、「鶴瓶とはハワイでよく会う」という槙原なりの、鶴瓶のイメージで選んできた衣装だった。
「無学 鶴の間」では、スポーツ選手としては初めてのゲストとなったが、鶴瓶はこれまで自身の番組に槙原をゲストで多く呼んでいるという。槙原が引退してすぐの頃に呼んだのが「家族に乾杯」だったそうで、槙原は「人見知りのところがあって、パッと行けなかったんですよ。最初意気込んじゃって、難しかったですね」と当時を振り返る。鶴瓶も「いや、面白かったですよ。そうじゃなきゃ、その後も呼んでない」と言い、まずは、「完全試合なんてしてる人、長いこといなかったんですからね」と、1994年に史上15人目となる完全試合を記録した槙原の現役時代の話から、こんなトークとなった。
鶴瓶 最初、阪神からの勝利でしょ?
槙原 初登板です。あのとき、19歳でデビューして、甲子園球場で1対0で。
鶴瓶 「なんやこいつ」って思いました。
槙原 でも、その3年後に3連発打たれたんですよ。
鶴瓶 俺はあのとき、スッとしたんや(笑)。
槙原 僕、あのとき、早く忘れたいなと思ったんで、もう記憶を封印してるんですよ。でも今になって、僕を紹介するときは、3連発打たれた映像しか出てこない(苦笑)。
鶴瓶 ワハハ!
槙原 一応、パッケージで、完全試合の映像もちょっとだけ流してくれるんですけど、この間、追い打ちで、新庄に敬遠の球を打たれた映像が出てきたんです。だからこの人はいつも打たれる人だと思われてる(笑)。
しかしそれほど、話題を持っている人物ということになる。「3連発」とは、1985年の阪神戦で槙原が、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に3者連続でバックスクリーンに本塁打を打たれたこと。この年、阪神は日本一に輝いたこともあって、このシーズンの阪神を勢い付かせた出来事として「伝説の3連発」と、いまだに語り継がれてもいる。
新庄に敬遠球を打たれた裏話
そこに加えて、同じく阪神戦。1996年6月12日、同点で迎えた12回裏、1ストライク、1塁3塁の場面で敬遠したはずのボールを新庄に打たれたことも、大きな話題となった。槇原は外角にボール球を投げた、当時を振り返る。
「敬遠って、キャッチャーが絶対にバットが届かないところまで行って、そこに投げるんですよ。でもそれが甘かったんです(キャッチャーだった光山英和はホームベースに近い位置で構える癖があった)。だから、『光山、今度、それは危ないから、そういうことやめなさいよ』って僕は言っていたんです。そしたら次の日に打たれたんです。あれは参りましたよ」
それが三遊間を破るヒットとなり、阪神のサヨナラ勝ちとなった。
「だけど、打つ瞬間に完全にホームベースを踏んで打っているんですよ。あれはダメですよね」
規則では打者がバッターボックスの外でボールを打てばアウトとなるはずだが、「でも、そんなこと、阪神ファンは誰も許してくれないから」と苦笑い。
「そう、ものすごく盛り上がってるから」と鶴瓶が言うと、「長嶋(茂雄)さん、審判に文句言いに行ったんですけども、そんなこともう全然無理でしたね。甲子園球場は、もうどうしようもできないです。長嶋さんでも無理ですから」と、阪神ファンの熱狂ぶりを語った。
しかし、話には続きがあった。今季、日本ハムをパ・リーグ2位に導いた監督としての新庄剛志の手腕を「若い選手たちをちゃんと育成して少しずつやって来ているから、彼はなかなかのものですよね」と讃え、新庄が敬遠の球を打ったときの裏話を始めた。
槙原 あれね、敬遠の球でホームランを打ったことがある柏原純一さんという方がバッティングコーチだったんですよ。それで新庄がバッティング練習しているときに、柏原さんに、「俺、敬遠が来たら打っていいですか?」と聞いたらしいんですよ。
鶴瓶 先に聞いとったん?
槙原 聞いてたんですよ、あいつ。それで柏原さんが「ちょっと待て。これは野村(克也)さんに聞く」と言って、「じゃあ聞いておいてください」って。オッケーだったら打ちますよ、という話で、新庄はバッティングピッチャーに外に投げてもらって、それを打つ練習をしていたそうなんです。それは、僕の試合のだいぶ前ですよ。1週間か1カ月前です。
鶴瓶 もし敬遠が来たときのためにね。
槙原 だから彼は準備しているんですよ。政治的にもちゃんと話をつけているわけですよ。向こうでオッケーサインが出るまで。ノムさんはそれでオッケーを出したらしいんです。
鶴瓶 だから、闇雲に打ったわけではない、と。
槙原 違うんです。思いつきでやったと思われるけど、ちゃんとした練習だとか、コーチに確認したとか、そういうことをやっていたことを教えてくれて、あ、こいつすごいなと思いましたよ。その話を聞いて、今の監督業からすると、少しずつ選手をどう作っているかをしっかりやれているんで、若い選手が本当に出て来ているんですよ、今、日本ハムは。
鶴瓶 出て来てますね。そうでなければ、2位にはならないですよ。
槙原 だから彼の評価はすごく高いんです。
「新庄はセルフプロデュース力が高い」と槙原。この先、新庄がどのように野球ファンを楽しませるのか、それが楽しみになる話が続いた。
先輩・張本勲のすごい話
そして鶴瓶は、「槙原は野球界で一番面白い」と明石家さんまに言われたという話をする。それを言うと、「僕、飲んだら明るくなるらしいんですよ。でも野球やってるときはつまんなそうにしてたらしくて、すごく暗い人だと思われていたみたいです。だからなおさらギャップがあって、ほかのチームの人たちからは、こんな明るい人だと思わなかったと言われることが多かったんです。でもテレビだとかしこまっちゃって、なかなかダメなんですよ」と苦笑。自身のYouTube番組「ミスターパーフェクト槙原」でも、スタッフから飲みながらやってください、と言われるほどで、「だから、YouTubeも最初のところで、僕のほっぺが赤く塗られているのは飲んでいるときなので、そのときがオススメです」と笑う。
「ミスターパーフェクト槙原」は、槙原が野球のOBをゲストに呼んでの対談番組で、先ほど話題となった新庄をはじめ、高橋由伸、清原和博、工藤公康、長嶋一茂など、数々の野球選手が登場し、さまざまなエピソードを披露している。「でも、もう結構な人数が出てくれているので、飽和状態になってるんですよ。だからこれからどういうふうにしていこうかと考えています」と槙原。
鶴瓶 たとえば張本(勲)さんとかは来ないんですか。
槙原 張本さんを呼べるYouTuberはいないですよねえ。張本さんは呼べないですよ。
鶴瓶 あの人、めっちゃオモロいですよ!
槙原 めっちゃオモロいですよ。プライベートで飲み屋の席で一緒になったこともあるんですよ。そのときは話はできるんですけど、それ以外はできないですよ。怖いです(笑)。
鶴瓶 いやいやいやいやいや(笑)。
槙原 カツ入れられちゃいますよね、普通に。もう2、30年前ですが、ある先輩が結構いろいろジャイアンツのことを言っていたんですよ。その頃、「ゴルフ巨人阪神戦」という番組が昔あって、大阪の読売テレビで収録をやってたんですよ。朝7時ぐらいにでかい大人がガーッとクラブハウスを走っているから、誰だろうと思ったら張本さんで、「お前どういうつもりだ!」って、そのある先輩を持ち上げて、そのままどっかに消えていったんです(笑)。
鶴瓶 ウハハ!
槙原 まだそういうことが許されていた時代ですね。まあ、張本さんも血気盛んで、聞くところによると、巨人広島戦でお客さんが乱入してきたらしいんですよ。そのときにお客さんをバットで殴ったというのは聞いたことあります(笑)。
鶴瓶 うはは。それはあかん(笑)。でも、張本さん、僕の番組「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」に出てくれはったんですけど、素敵な方ですよ、あの人。めちゃめちゃ苦労されてるじゃないですか。元々が在日の方で、お母さんのとても苦労された話も聞きました。
槙原 僕らの巨人軍のキャンプに、OBの人からいろんな訓話をいただこうということで、一度張本さんに来てもらったことがあるんです。張本さんは普段はお見せしないんですけど、左手の指が火傷でグローブが握れないんですよね。
鶴瓶 え?
槙原 バットもちゃんと握れないような手なんです。「俺の左手を見てみろ」と言われて、その手を見せられたときには、僕ら、言葉を失いました。3000本(安打を)打ってるんですよ。未だに日本で1番打ってる記録を残されてる方。だけど、実はみんなに見せてないけど、お前らには見せるというふうにして見てくれたときに、ああ、すごいなと思いましたね。
鶴瓶 熱い人ですよね。
槙原 はい。会えばお話もいつもさせてもらってます。でもこんな話してたら、あとでまた俺呼び出される(笑)。でもあの人の話、ものすごい話がいっぱいあると思います。
大谷翔平はプロ野球の歴史でNo.1
そして、話は、自身がドラフト1位で巨人に入団が決まったときの話となった。大府高校在学時から、愛工大名電高校の工藤公康、愛知高等学校の浜田一夫と共に、愛知三羽鳥と呼ばれていた槙原。巨人からの1位指名はとてもうれしかったと話す。
槙原 周りは中日ファンが多いんですけれども、僕は巨人が好きでしたね。あの当時、王(貞治)さんがどんどんホームラン記録を更新している頃です。それを一番見ていた時期なので、巨人っていいな、都会でいいなって思っていました。
鶴瓶 愛知県やからね。
槙原 名古屋には僕ら、普段から行けるわけですよ。だから名古屋じゃないって。でも、大阪だとちょっとまた違うなと思ってたんですよ。
鶴瓶 ちょっとちょっと!
槙原 あ、ここ、大阪でしたね(笑)。
鶴瓶 どこでしゃべってるつもりやねん。
槙原 東京はなんか明るそうだったんですよ。初めて行ったときのことで、忘れられないのは、渋谷を歩いたんですよ。18歳ですよ。もうすごくいい女ばっかりだったんですよ。こんなところで生活して、明るい希望しかないなって思いました。
鶴瓶 ワハハ、まあ、そうですね、僕らも東京に来たときはそうでしたもんね。18でしょ? 18でええ女いっぱいおるな、と。
槙原 いや、ま、ほんとそうですね。隠さず言うと(笑)、本当にすごいなと思いました。
鶴瓶 でも確かに東京はカルチャーショックよね。
槙原 だから僕、東京に行けるだけでよかったんです。
鶴瓶 俺ら大阪やから、そんなもん東京に負けるかアホ!って思って行ったら、梅田100個ありましたからね(笑)。また梅田や。次また梅田、梅田ばっかりやん!って。
さらには、メジャーリーグ初の「50本塁打・50本盗塁」を達成した大谷翔平の話へ。18歳で日本ハムに入った頃から大谷を見てきた槙原に、「あのときからすごかったんですか?」と鶴瓶が投げかけると、「バッターとしては僕らもあんまり知らなかったのですが、160キロ投げるという触れ込みで来ているので、どんな球を投げるのかなという興味で見に行っていたんです。でも顔も小さくて、背も僕よりも大きいんですよ。ああ、すごいなと思ったんですが、これがだんだんだんだん、WBCのときなんか、めちゃくちゃ身体がでかくなってて」と、その半端ではない成長ぶりに驚いたと話す。さらに、WBCのマイアミでの準決勝に解説に行った槙原が見たのは、大谷のバッティング練習のすごさだったという。
「たとえば、甲子園球場でバッティング練習してて、スコアボードに当たるなんて考えられないじゃないですか。でも、あいつは当てますよ、たぶん。それくらい飛ぶんですよ。マイアミの球場って電気のスコアボードみたいになっているんですけど、そこに平気でガンガン当てるんです。向こうのメキシコの選手とか、決勝もアメリカの選手とかがみんな出てきて、大谷のバッティング練習を見てるんですよ。おお! おお!って。これ、日米野球でバリー・ボンズだとかサミー・ソーサとかがバッティング練習やったとき、僕らが選手たちを見に行ってるのとまったく同じ光景を、今アメリカ選手がやってるんですよ。それを見て、僕らはちょっとなんかうれしい気持ちでした」
鶴瓶も「俺らもね、コロナの時期にいろんなことがあったけども、大谷の活躍にどれだけ救われたところがあったか」と大きく頷いた。
そして、大谷が50-50を達成できるのはなぜか、ここだから話せるピッチクロックと牽制、メジャーリーグは盗塁しやすくするようにベースを大きくしたという話などを披露し、観客を驚かせた。
「100何十年の歴史の中でそれをやった人はいないんです。だから彼は今、1個盗塁する、1個ホームラン打つたびに、全部ヒストリーを作っていってるんですよ。今までの野球、プロ野球の歴史の中でナンバーワンです。あそこまで野球だけに注げるというのはすごいです」と、そのすごさを力説した。
師匠・長嶋茂雄との思い出
話は長嶋茂雄の話へとつながった。槙原にとって、師匠と呼べる人はやはり長嶋だという。97年、巨人からFA宣言をした槙原の自宅に、長嶋監督がばらの花を持って訪問し、その説得で残留を決断した話は有名だが、それを今も感謝していると話す。
槙原 僕は巨人を出るつもりはまったくなかったんですけど、でも最終的には長嶋さんが僕の家にバラを持ってきてくれて、槇原を止めたという話になってるんです。でも、監督がお前んちに行くと言うから、「監督、僕が都内どこでも行きます」と言ったら、「いや、それじゃダメなんだ。俺がお前んちに行く意味がある」と言うんですよ。
鶴瓶 ええ。
槙原 僕はその前に長嶋監督に、「残ります」と言ってるんですけど、「いや、これはもう儀式というか形としてちゃんと残さなくてはダメだ」と言って来てくれたんです。巨人ファンはたぶん、僕が一回出るとか出ないとかという話をしてしまったから、怒っていたと思うんです。だけど、長嶋さんが止めて、「こいつはちゃんと来年からもやる」という形を作ってくれた。そういうふうに大義名分を作らないと、やっぱり世間は認めてくれなかったから。
鶴瓶 ああ、形としてそうしてくれた、と。偉いな。
槙原 僕は2001年に引退するんですけど、ちょうど長嶋さんも一緒だったんです。長嶋さんの引退のときに監督室に行って、「長嶋さん、あのときのFAの話、本当にありがとうございました。僕はおかげさまで20年間、巨人軍で勤め上げることができました。あそこで長嶋さんに認めていただけなかったらこんなことできませんでした。幸せでした」と言ったら、「そうだろう、俺は全部わかってたぞ」って言ってくれて。そこでウルッときましたね。
鶴瓶 いや、でも、あの時代に王さんも長嶋さんもいて、この2枚看板ってすごいよね。この2人の、人としてのすごさというか。
槙原 今、野球のOB、誰に聞いても、背筋が伸びるのはやっぱり長嶋さんと王さんだと言いますね。
鶴瓶は槙原に訊いた。
「もし、今後、球団から(指導者としての打診などを)言われることがあったとしたら、もちろん行きたいでしょ?」
槙原も頷きながら、こう答える。
「そうですね。なんか皆さんが言うのは、やっぱり刺激が違うと言っていました。僕は今、ぬるま湯なんで、朝起きて、なんかいいことないかな、とか、今日も元気だな、とか、体重太ってんな、とか、そんな話じゃないですか。でもそうじゃなくて、とにかく人のためにどうするか、ということなんですよね。僕はそれを今まで経験してなかったので、その痺れる体験というのは、もしチャンスがあればというのはちょっと思えるようになってきました。でも40代にやっとけばよかったです。40代にやっておくと、たぶん、人生とかしゃべることとか、今、解説もやらせてもらってるんですけど、もっと違う深みが出たかなと思うんです」
鶴瓶が言う。
「でもこれから何かあれば、やってほしいなと思いますけどね」
その言葉に、会場からも拍手が湧いた。
「ありがとうございます」と真摯に槙原が礼を言った。
今の槙原の解説やテレビでの活躍によって、多くの野球ファンが野球をますます楽しみにするようになっている。それは、今、槙原が自身の経験を持って、自身のカリスマ性とエンタテイメント性を生かしながら、しっかり野球界を盛り上げていこうとする熱意が伝わっているということにほかならない。
「無学 鶴の間」28回目のゲストは、これからもっと野球はどんどん面白くなる、そう確信させる、元巨人のミスターパーフェクト、槙原寛己──。
プロフィール
笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)
1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。
槙原寛己(マキハラヒロミ)
1963年生まれ、愛知県出身。大府高校卒業後、ドラフト1位で読売ジャイアンツへ入団。ピッチャーを務め初登板で初完封し、その年に12勝を挙げる。また、当時の日本最速である155km/hを記録し、新人王に輝いた。以降、藤田・王・長嶋監督のもとで、巨人黄金時代を支える投手として活躍。1994年には広島戦で20世紀最後の完全試合の達成もした。1998年シーズン途中からリリーフへ転向し、2001年に現役を引退。現在は人気の野球解説者として、プロ野球、メジャーリーグ、WBCなどの解説で活躍中。