「無学 鶴の間」第10回レポート
“キー坊”上田正樹に歌ってほしい
「無学」の小さなステージには、ステージ用のエレクトリック・ピアノとマイク。誰がゲストか登場するまでわからない「無学」であっても、それがミュージシャンであることは容易に想像がついた。
それは鶴瓶のこんな話からも予想できた。
「先日、『鶴瓶の家族に乾杯』で南三陸に行ってきたんです。震災からもうしばらく経っていますけど、でもまだちゃんとは復興できてないですよ。僕も長いこと、もう50年以上お笑いをやってるから、向こうに行っても顔知ってくれてますやん。だから、行くと喜んでくれる。いかに知られているかで向こうも感動すると思うから、もっともっと有名になりたいと思う。泣いて喜んでくれるんですよ。『うわあ、会いたかった!』って」
そのとき出会った人は、過去、脳梗塞で倒れて、現在車椅子で生活している年配の男性だった。後遺症で言葉がうまくしゃべれなくなっていたが、歌を歌うたうことでしゃべれるようになったとのことだった。さらに、以前、別の場所を「家族に乾杯」で訪れた際に出会った人は、同じように脳梗塞で倒れたが、ハーモニカを演奏することがリハビリになったという。そのとき起きたエピソードを面白く話しながらも、その話の中で鶴瓶は、それほどに人間にとって音楽の力が生きるエネルギーになるのだということを伝えているように思えた。
そしてこうも話した。
「人は、いろんなもの抱えて生きていますからね。でも、こういう場所に来ると、いやなことを忘れたりする。そういう意味でもこの場で少しでも幸せになってもらえらと思う」
そう言い、「紹介します」と、親しみを込めて昔からの呼び名で「キー坊」と呼び、リズム&ブルースシンガーの上田正樹をステージに迎え入れた。
「2017年に『無学』には出てくれていますが、この配信番組のほうにも出てもらいたいと思ったんです」と鶴瓶。というのは、昨年、鶴瓶が吉岡里帆と共演したドラマ「しずかちゃんとパパ」に、上田正樹の「You are so beautiful」が使われたことがきっかけだった。ドラマのエンディングに流れるその歌の素晴らしさに改めて感銘を受けた鶴瓶は、「You are so beautiful」を「無学」でぜひ歌ってほしいと切望したのだ。
感動的な体験からそれぞれの道を志した2人
まずは、そんな上田正樹の歌の原点、高校時代の話から2人は話し始めた。
上田 1966年、アニマルズというイギリスのバンドが来はったの。
鶴瓶 「朝日のあたる家」、あれ、ええ歌やんな。
上田 そのアニマルズの公演を名古屋の鶴舞公会堂に見に行ったんです。それで「Boom Boom」という曲があって、それにハマったんです。そのときは、それがブルースだということはわからなかったけど、その曲を聴いて、3階席の奥からステージ前まで走って行って、“唾かぶり”のところで、ウワーッ!って盛り上がっていたら、(ボーカルの)エリック・バードンが歌いながら僕に握手してくれた。そのとき、自分の全部の細胞が震えるくらい感動した。それで、絶対これをやろうと思った。それが18のとき。
鶴瓶 その感動がずっとブレてなく、今もずっと歌い続けているのがすごいよね。
上田 だからすごくラッキーだと思ってる。全部の細胞がワーッとなるくらい感動して、そのまま歌手になった。
鶴瓶 俺もよう似てるわ。市民寄席に(笑福亭)仁鶴兄さんを見に行ったんです。仁鶴さんもめっちゃ面白かった。でも、そのあと出てきた、うちの師匠(六代目笑福亭松鶴)が、「仏師屋盗人」を演って、ドワーッて会場の雰囲気をひっくり返した。もちろん松鶴は知ってたよ。でも「なんやこの人!」ってものすごく感動して、そのまま弟子にしてもらおうと楽屋のところに行ったら、黒ずくめの人たちが車の前で、大声で挨拶してる。あ、これは完全にヤクザやって思って(笑)。でも、それくらい感動した。そっちもそうでしょ?
上田 もちろん。ものすごく感動した。でも親には大反対されて。
鶴瓶 うちもや。
上田 その当時はね、シンガーになる、ビートの強い音楽をやるっていうのは不良のするものだった。でも絶対やりたかった。それでしょうがないから、家出するしかないと思った。でも書き置きとかしたらバレるやん。だから風呂桶と自分がバイトして買った安いギターを持って、「ちょっと風呂行ってきます」って家出した。
そこから3カ月ほど、大阪・天王寺公園でホームレスさながらの暮らしをしていたという上田。当時、公園にいたホームレスの人たちに助けられながら、「お前ギター持ってるから何かやれ」と言われて、英語の歌ばかり歌っていると、「そんなんあかんから、森進一歌え」とか言われて。そんなんがスタートやった」と笑う。
「そういうところからスタートしてなあ」と鶴瓶が感心して頷くと、「ほんまに好きやったんや」と、生涯かけて追及できる音楽に出会えたことへの喜びをしみじみと振り返る。
「好きなことをやろう」と思った原点は鶴瓶との共演
「そこからいろいろやって、本当に売れたのは33くらいちゃうかな」と上田。そのとき、「悲しい色やね」が大ヒットして一躍トップシンガーとなった上田だが、その前に組んでいた「上田正樹とサウストゥサウス」というバンドの頃から上田の歌を好きだったという鶴瓶は、当時のレコードを自分の家から持参していた。その懐かしいLPのジャケットをうれしそうに眺め、「これ、鶴瓶ちゃん、持っててくれたの? じゃあ、あとでサインしとくわ」と上田が笑う。
上田 サウストゥサウスを解散して、それで高知県に1年おった。
鶴瓶 え、それ、知らんかったわ。
上田 高知までわざわざ僕を東京の事務所の人が引っ張りに来てくれた。それまでは自分は歌謡曲みたいなのはあかんかった。でも1回自分でやってみて、身体があかんかったらあかんにしようと。それで「東京に行きます」と言って行ったら、3、4年で売れた。
鶴瓶 「悲しい色やね」が売れたとき、俺にも「こんなん売れてもな、テレビの歌番組とか出とないねん」と言ってた。
上田 当時の「ザ・ベストテン」などの歌番組は「今週の何位!」と発表されて、カーテンが開いて出ていくんです。でも、カーテンを前にして、もうここから帰ろうかなと思ったこともある。それで1位にもなったことがあるんだけど、そうすると道を歩いてて、「きゃー! 上田正樹やわ!」って言われることもあった。
鶴瓶 そりゃあるやろな。
上田 で、めっちゃびっくりして。こうなったらカッコつけなくちゃいけないのかなとなるやん。それで、あるときに、鶴瓶ちゃんの番組に出させてもらった。
鶴瓶 「突然ガバチョ!」に出たんですよ。
上田 その番組で、笑ったら強制退場させられるコーナーがあった。そのときに、鶴瓶ちゃんが「お尻かいたら、粉が出た」と言って、それでガーッて笑って。
鶴瓶 そう(笑)。最初に笑った。
上田 それで即退場(笑)。でもそのとき、わかった。これはカッコつけている場合じゃない。自分は自分だから、素のままでええんやって。そこから、道歩いてても、電車乗ってても、自分で「お尻かいたら、粉が出た」って言って、自分で笑ってた。
鶴瓶 ワハハ!
上田 そしたら自分を取り戻す。
鶴瓶 へえ。そしたらあれかいな。座右の銘は、「お尻かいたら、粉が出た」か!
上田 (笑)。でもあれが、自分で、「よし、自分が好きなことをやろう!」と思った原点や。
人と人のレベルで言えば、みんな横で繋がってる
上田の活躍は、そこから日本のみならず、世界にも舞台を広げた。レイ・チャールズ、B.Bキング、ジュニア・ウェルズ、タワー・オブ・パワー、ネヴィル・ブラザーズ、スライ&ロビーなど、世界的アーティストたちと共演。また、韓国やインドネシアでもアルバムデビューを果たし、それが大ヒット。アジア各地でのライブはもちろん、遠くは、西アフリカのセネガルで野外ライブを行ったこともある。
「違う文化のところでライブができて、そこの人たちがワーッて喜んでくれはるのがね、本当にうれしい。それが、18のときに自分の細胞が震えるくらい感動したのがずっと今も続いてるんや」と上田は言い、そうやって音楽で世界の人々と繋がる体験をしてきたからこその思いをこう続ける。
「ジョン・レノンの歌にもあるけれど、“Imagine there's no countries”。国なんてないって思ってる。今、ニュースを見ていても、どことどこが喧嘩してるとか、誰がどっち向いたとかばかりやん。だけど、もっと人と人のレベルで言えば、みんなめちゃくちゃ横で繋がってる」
鶴瓶もまた、こう話す。
「でも、キー坊は音楽、俺らはお笑いやけど、この人の歌を聴けて幸せやな、この人のしゃべりを聞いて幸せだなと思える空間がある。だから、俺らはええ仕事ついたなと思うよね」
上田も深く頷いた。
代表曲「悲しい色やね」など生演奏
いつもの「無学 鶴の間」であれば、トークをさらに続けていく鶴瓶だが、40分ほどで「じゃあ、そろそろ」と、歌のセッティングを促した。何よりも、今、観客が、上田正樹の歌を聴きたいと思っている、そのことを鶴瓶が誰よりも感じ取っているのだろう。こうして毎回、ゲストによって構成が変わっていくのもまた、この「無学」の魅力と言ってもいい。
セッティングが終わり、再びステージに現れた上田がエレクトリック・ピアノの前に座る。柔らかいピアノの音色に、上田がスキャットを重ねる。メランコリックなメロディと上田のブルージーな歌声に、一瞬で会場の空気が変わった。
「この歌が、『お尻かいたら、粉が出た』のときの歌です。大阪の街の歌です」、そう言って歌い出したのは、上田の代表曲「悲しい色やね」。年輪を重ねてこそ出せる、豊かな歌の表情、人生の悲喜を包含した声が、よく知る歌でも、またしみじみと今、胸に沁みてくる。
続いて、コーラスにR&BシンガーのYoshie.Nを迎え、2曲目に上田が選んだのは、2010年「鶴瓶の家族に乾杯」に出演したときに訪れた北海道余市町の川のほとりで作った曲。
「『River Side Blue』というブルースです。『Boom Boom』から何十年も経って派生した上田のブルースです」
そう言い、楽器をギターに変え、爪弾き歌いはじめる。Yoshie.Nの力強い歌声が重なり、2人の掛け合いがさらにその歌の世界をエモーショナルなものへと変えていく。
そして、「しずかちゃんとパパ」のエンディング曲として使われ、「ええところで流れるねん」と鶴瓶も、そして上田自身もドラマを見て泣いてしまったという「You are so beautiful」。再び鍵盤の前に座り、内側から自らの魂を絞り出すように歌い上げる声が切なくも美しかった。
「思い出して泣いてしまう」と鶴瓶があたたかい拍手を送ると、「ええ感じやったな」と上田が小さく笑う。
「やっぱり、ここ(無学)ね、すごくうれしいです。ものすごく(観客が)間近にいてるから」
そう言って、「一応、アンコールな」と、「陽よ昇れ」を披露。人生を歩み続けるために、その道標のような一筋の光が照ることを願い進む、生きる力が湧いてくるような歌に、大きな拍手が鳴り響き、ここで大円団となるかと思いきや、鶴瓶が「アンコール! アンコール!」とムチャぶりの声を上げた。
だからエンタメは必要なんですよ
ここまでの4曲しか用意していなかった上田だが、すぐさま「アンコール、何かやろうか」とギターを鳴らす。さすが百戦錬磨。数多くのライブをやってきた上田が、この流れでさらに伝えたい1曲として選んだのは、2010年発表の「ゆたかなくらし」だった。本当の豊かさとは何か、幸せとは何か、ブルースを歌い続けてきた上田だからこそ今、伝えたいその歌に、観客は奮い立たされた。
力強く響く上田の歌声とYoshie.Nのコーラス、心地よくも切れのあるギターのカッティングが、どんどん高みに昇り、最高潮に達する。上田正樹の真骨頂だ。そのライブ感に会場が酔いしれ、さらに大きく拍手が沸いた。
「やっぱりね、幸せはいつか来るんだ、絶対に諦めたらいかんっていうことは、みんな思ってる。絶対いいときが来るんやから、諦めたらあかんっていうね」。鶴瓶はそう言い、それを感じさせる意味でも「最後の1曲は絶対に必要だった」と上田を讃えた。
「なんていうのかな、こうやって人がいてて、歌ったり、人が笑う、とかが必要なんやな」と、上田も感無量の表情を浮かべる。
「だからエンタメは必要なんですよ。だから止めたらいかん」
それは、長い間、舞台を大切にしてやってきた2人にとって、実感のこもった、決意のような言葉だった。
「無学 鶴の間」、第10回目のゲストは、18歳でリズム&ブルースを一生をかけて突き詰めていくと決め、半世紀以上、その道を走り続けてきたからこそ、自分自身のソウルを今、響かせる、シンガー・上田正樹──。
プロフィール
笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)
1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。
上田正樹(ウエダマサキ)
1949年京都生まれ。1974年「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。その後、ソロとなり、1983年シングルチャート1位を獲得した「悲しい色やね」ほか、数々のヒット曲を世に送り出す。73歳となる今も、精力的にライブも行い、最新作はバンドサウンドにこだわり制作したオリジナルアルバム「Soul to Soul」(2019)。