エハラマサヒロが、ピン芸人としてデビューしてから10周年を迎えた。これを記念して自身がプロデュースするミュージカル公演「10th Anniversary ザ・ミュージカルマン starring エハラマサヒロ」を開催。ミラクルひかる、加藤諒、黄帝心仙人、MC ZU-nAといった仲間たちや、GLAYのTERU、山崎まさよし、清水翔太ら豪華ゲストを迎えて、歌あり、モノマネあり、コントあり、ダンスあり、ヒューマンビートボックスありのショーを繰り広げた。
お笑いナタリーではこの最終公演をレポート。さらにエハラにインタビューを実施し、お笑いが大好きだった少年時代からさまざまなジャンルで活躍する現在までをたっぷりと振り返ってもらった。また「R-1ぐらんぷり」「あらびき団」「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」など5つのキーワードをもとに、エハラの歴史を紐解く。
取材・文 / 狩野有理 撮影(P1~2) / 吉場正和
子供の頃から「細かすぎて伝わらない」
──10周年おめでとうございます。
ありがとうございます!
──見ている側としてはもっと長くやられている印象があるのですが、ご本人的にはピン芸人になってからの10年は早かったと感じるか、遅かったと感じるか、いかがでしょうか?
後半の5年は早く感じましたね。前半5年は、ピン芸人としてのキャリアをスタートさせて3カ月目に「エンタの神様」(日本テレビ系)が決まり、半年後に「あらびき団」(TBS系)が決まり、そのあと1年経たずして「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ系)の「山-1グランプリ」で優勝して。そして翌年には「R-1ぐらんぷり」で2位になって、そこから仕事がどわっと増えてスベり散らかす日々が続いて(笑)。目の前のことでいっぱいでしたし、濃密で、学生時代みたいな時間の流れ方だったような気がします。後半5年は、仕事のやり方も自分なりにわかってきて、自分でやりたいことを中心に動くようになったから、新しい経験をすることは少なくなりましたけど落ち着いて1つひとつに取り組めるようになりましたね。だから「あれ、もう5年経つか」っていう。気がついたら自分の子供がデカくなってました(笑)。
──子供の成長で時の流れを感じているんですね(笑)。今回のインタビューでは10年間を振り返ると共にピン芸人になる前のエハラさんについてもお聞きしたいと思っています。すごく初歩的な質問になりますが、まずは芸人になろうと思ったきっかけを教えてください。
子供の頃、大阪ローカルで若手芸人が出ているネタ番組がいくつかあって、それを観るのが大好きだったんです。中川家さん、たむらけんじさん、千原兄弟さん、ジャリズムさん、ハリウッドザコシショウさんのコンビ・G☆MENSさんとか、全員めっちゃ面白くていつも腹ちぎれるくらい笑っていてました。「この人らの中におったら毎日めちゃくちゃ笑えるんやろうな」と思っていて、お笑いの世界に憧れていたんですよね。「笑いを取りたい」とか「冠番組を持ちたい」とかじゃなく、「僕が笑いたいから面白い人たちと一緒にいたい」っていう理由で芸人になりたかった。
──笑うのが好きな子供で、自分から笑いを取るタイプではなかった?
いや、笑うのも好きでしたし、人を笑かすのもめっちゃ好きでした。いつもはしゃいでる子でしたね。
──クラスの中心的な存在?
中心ではなかったです。僕には、生まれながらにして“鼻につく”という長所があるので(笑)。それを遺憾なく発揮していて、笑いは取ってるけどクラスの中心にはなれていないっていう変なポジション。友達の間では楽しいヤツだったとは思います。僕、ハリウッドザコシショウさんがめっちゃ好きで、よくマネしてたんですよ。
──ザコシショウさんが好きな子供って珍しくはなかったですか?
確かに、僕以外にいなかったかも。当時からむちゃくちゃなことをやっていらっしゃったんで。僕も大好きではありましたけど、ああなりたかったわけではないですよ?(笑)
──あはははは(笑)。好きだけど目指しはしないと。
中川家・礼二さんにはなりたかったですね。礼二さんがピンネタで「駅名漫談」っていうのを披露していた頃、楽しみすぎて、ひとボケ目で呼吸困難になってテレビ消したことあるんですよ。「これ以上観てたら俺死ぬ!」と思って。それくらい礼二さんは好きでした。
──モノマネや形態模写が得意な礼二さんがお好きだったというのは、現在のエハラさんに通ずるところがありますね。モノマネは昔からやっていたんですか?
やってました。みんなが声や仕草に特徴のある先生のマネをしている中、僕だけなぜか「保健の先生のガーゼの置き方」とかを当時からやっていましたね。
──目のつけどころが細かすぎますね(笑)。
手の甲で2回ちょんちょんってする先生がいたんです。誰もそんなところ見てへんから「そんなんする?」って全然共感されなかったんですけど、そういうのをやるのが好きでした。
天津・向にきっかけをもらい、南海キャンディーズ山里に背中を押された
──養成所(NSC大阪校24期)に入ってから本格的にお笑いを始めて、最初はコンビで活動していたんですよね。
はい。でもNSC在学中は2回も解散したんです。3組目に組んだコンビで卒業して、劇場に出たりして活動していたのですが、それも解散し、さらにそのあとも2回解散して、僕バツ5なんですよ(笑)。
──最初からピンでやるつもりはなかったんですか?
まったくなかったです。漫才がやりたかったっていうのもあるし、当時の大阪にはピン芸人が活躍する土壌が今ほどはなかった。いるとしても、ジャグラーとかパフォーマー系。だからピンでやるっていう発想がそもそも頭になくて。
──バツ5になるまでコンビにこわだっていたエハラさんが「ピンで行こう」と思ったのはなぜですか?
最後のコンビを組んでいるときに、僕は東京進出を考えていたんです。でも相方さんがそんなモチベーションではなくなってきていて、解散を切り出されてしまった。その理由っていうのが「お前がやることはお前1人で成立してる」と。それと、天津の向さんが昔からずっと「お前はピンになって東京に行ったほうがいい」と言ってくれていたんです。その言葉が頭に残っていたので、解散を切り出されたときに「じゃあピンで行こうか」と決断できました。
──向さんは素質を見抜いていたんですね。
最初は僕も「いやいやー」って適当に返していたんです。天津さんはその頃大阪にいたので、内心「あんたに東京がわかるかいな」と思っていて(笑)。ただ、そのあと向さんと南海キャンディーズの山里さんが「エハラは東京に行くべき」っていうお話をされているのを偶然漏れ聞いて、「本気で言ってくれてたんや」っていうのがわかったんです。山里さんは当時もう東京で活躍していたので……。
──説得力があった?
はい。東京を知らない向さんに言われるのとは重みが違いましたね(笑)。あはははは、冗談ですよ! 向さんにはきっかけを作っていただき、山里さんには背中を押していただいて、お二人に感謝です。
──その後、ピンになると同時に東京に拠点を移しました。仕事は順調でしたか?
いや、そこからの2年間が地獄でした。なんにもしてない。というかやめていたんです、芸人を。フリーターでした。
──そんな時期があったんですね。
スタートダッシュを切りたかったんです。最初が肝心だと思っていたので、ちゃんとアイテムと経験値を貯めておきたかった。ただそうこうしているうちに仕事がなくなって、生活費を稼がないといけないからバイトに追われて、舞台に立たずにただただ時間だけが過ぎていきました。出る時期を見計らいすぎたんです。
──ではどうやって表舞台に戻ってこれたんですか?
同期がどんどんテレビに出はじめて、これはもう追いつかれへんからやめて大阪に帰ろうと思ったんです。まだ何も始めてないのに(笑)。そんなときに、パリコレにも出ているすごいモデルさんとお付き合いできることになったんです。僕、そのとき月収8万円ですよ? CMを何本もやっているような方となぜ付き合えたかというと、その子が僕のことを「めっちゃ面白い」って気に入ってくれた。笑いの部分で認められたっていうのでスイッチが入って、後輩に連絡しまくってライブに出させてもらい、そこでお客さん投票1位になってよしもとのレギュラーライブが決まったんです。だからここが本当のピン芸人としてのスタート地点ですね。
──2年の潜伏期間を経て、ようやくスタートラインに立てた。
はい。しかも、一発目に出たライブにたまたま「エンタの神様」の資料用カメラが入っていたんです。それですぐ番組に呼ばれて。本当に運に恵まれていたなと思います。