1970年に放送局系音楽出版社として産声を上げたテレビ朝日ミュージックは、その後幾度となく事業改革を行い、現在ではアーティストマネジメント事業、イベント事業、マーチャンダイズ事業、ファンクラブ事業など、音楽にまつわるさまざまな事業を手がける“トータル・エンターテインメント・カンパニー”へと生まれ変わった。そしてコロナ禍の今、さらなる変化を遂げようとしている。
音楽ナタリーでは、「創造的破壊」を信念にテレビ朝日ミュージックを発展させてきた吉田真佐男代表取締役CEOにインタビューを実施。同社の50年の歴史を振り返りながら、“アフターコロナ”へ向けた次の一手や、現在積極的に実施している採用活動において求める人物像について話してもらった。
取材・文 / 丸澤嘉明 撮影 / 相澤心也
会社概要
株式会社テレビ朝日ミュージック
NETテレビ(現:テレビ朝日)の番組で使用する楽曲の管理を目的に、放送局系音楽出版社として発足。もともとは株式会社エヌ・イー・ティー音楽出版という社名だったが、1977年に株式会社テレビ朝日ミュージックに商号変更した。1980年代後半にテレビ番組との音楽タイアップというビジネスモデルを確立。1996年に「Break Out」、1998年に「FUTURE TRACKS」の放送をスタートさせてテレビ番組と連携する事業スキームを開発し、インディーズブームの火付け役となる。さらに2000年に入るとケツメイシを皮切りにアーティストマネジメント事業をスタートさせた。現在は“トータル・エンターテインメント・カンパニー”を標榜し、著作権ビジネスをはじめ、アーティストマネジメント事業、イベント事業、マーチャンダイズ事業、ファンクラブ事業など、エンタテインメントに関わる多種多様なビジネスを展開。既成概念に囚われず、新たなエンタテインメントのカタチを創造できる人材を募集している。
音楽出版社として始まり、タイアップビジネスを構築
──テレビ朝日ミュージックはもともとテレビ朝日の番組で使用する楽曲を管理する音楽出版社として1970年にスタートし、その後1980年代の終わりにタイアップというビジネスモデルを作ったそうですね。
1970年の著作権法の全面改正にともない、現テレビ朝日の番組で使用する楽曲の著作権を管理する会社として、我が社が設立されました。僕が入った1973年は、社員が3人しかいない小さな会社で、子供向け番組などで使われる楽曲の権利の管理をしていました。タイアップビジネスの開発については、他局ではときどきドラマ主題歌や挿入歌を大ヒットさせることはありましたが、システム化されていなかったので、単発で終わっていたんですね。でもテレビ局ってだいたい1クール3カ月を基準に動いていて、アーティストの新曲もだいたい3カ月に一度出る。そのサイクルが一緒だったので、これをリンクさせてシステム化できると思いました。2年半くらいかけてテレビ朝日の各番組1つひとつと交渉して、9割の番組のオープニングとエンディングで楽曲を流してもらう枠を作ることができました。結果これが楽曲のヒットやアーティストのブームにつながり、タイアップという名称まで誰かが付けてくれたということですね。
──レコード会社からしたら毎週テレビで楽曲が流れるから大きな宣伝になるし、そのレコード会社から著作権を預かっているテレビ朝日ミュージックとしても曲を使ってもらうことで使用料が入ってくるという。
そう。それでどのレコード会社もどれだけいいタイアップを取れるかという勝負になるんだけど、当時一番多くいい楽曲を創作し、いいアーティストを輩出していたのがビーイングさんでした。のちのビーイングブームにもつながっていくんですが、ビーイングさんと組んだ曲はほとんどすべて爆発的に売れましたね。
──タイアップの中でもアニメはいろいろと苦労されたそうですね。
1980年代、アニメの主題歌に関してはほぼ日本コロムビアさんの独壇場でした。日本コロムビアさんの学芸部というところがほとんど手がけていたんですよ。でも80年代中盤から後半にかけて、アニメ音楽の売上がどんどん落ちてしまって。そこで、僕はなんとか改革しようと思って、いろいろなアニメーション制作会社やテレビ朝日のプロデューサーと交渉したんです。とにかく当時はもうポップスやロックのヒット曲がいっぱい生まれていたので。その提案に乗ってくれたのが「おぼっちゃまくん」(1989年1月~1992年9月放送)というアニメの制作チームでした。僕は「これはセンセーショナルなことをやらなきゃダメだ」「日本の楽曲じゃないのがいいだろう」と思い、当時アメリカで大ヒットしていたM.C.ハマーの「Count It Off」を放り込んだんです。そうすると業界が「これはなんだ!?」って騒然とするわけですよ。でもそれが狙いだったんですよね。それまでの常識とまったく違うことがやりたかった。
──それまでの流れからの振り幅が大きいですね。
そこから始まって、変えていった先の1つの終着点として、「SLAM DUNK」(1993年10月~1996年3月放送)に行き着くんですね。
──BAAD「君が好きだと叫びたい」、大黒摩季「あなただけ見つめてる」、WANDS「世界が終わるまでは…」など、オープニング曲とエンディング曲を今でも覚えている人も多いと思います。
当初、主題歌を誰にするか議論が白熱して決まらなかったんです。最終的に、東映アニメーションさんや代理店、テレビ朝日の関係者が全員集まって、日本コロムビアさんが作ったものと当社で提案したビーイング楽曲、どちらがいいか挙手制にしたんですよ。その結果、ビーイング楽曲が選ばれました。あそこでアニメのテーマソングにJ-POPやロックを使う流れが決定的になりましたね。各放送局のアニメ主題歌がそのあと軒並みそうなりましたから。ちなみに「SLAM DUNK」関連楽曲のシングルは、ビーイングブームの潮流もありトータルで850万枚ほど売り上げました。
インディーズブームを巻き起こした「Break Out」
──ビーイング楽曲を筆頭にタイアップが活気付いたのが90年代前半だと思いますが、その後1996年に若手アーティストを発掘する音楽番組「Break Out」がスタートしました。
ビーイング楽曲が流行したときにヒット曲を歌って楽しむというカラオケブームが起こり、その次に小室(哲哉)さんが活躍されて。それで世の中がどうなったかと言うと、“歌って楽しむ”から“歌って踊って楽しむ”文化ができあがった。ビーイング楽曲も小室さんの楽曲も、プロが作った相当クオリティの高い作品ですよね。じゃあ次に何が来るか考えたときに、僕は完成度が高くなくてもいいから“その人だけの何か”を表現しているのがいいんじゃないかと思ってね。それでインディーズにたどり着いて。「Break Out」という番組を作って、全国8カ所のライブハウスと提携して、インディーズバンドを紹介していったんです。そしたら、やはりこれが当たったんです。
──テクニックを競うプログレッシブロックのあとに、シンプルなサウンドに乗せて思いを吐き出すパンクが来る、みたいな流れにも似ていますね。
そうそう。食事でも、毎日ステーキを食べていたら今度はおしんことかお茶漬けとか素朴なものを食べたくなるでしょ。
──提携したというのは、具体的にどういうふうに?
ライブハウスにカメラを2台入れさせてもらい、1台は固定、もう1台はそこで働いているアルバイトの子に撮ってもらいました。それに加えてアーティストに関するさまざまなデータを毎晩送ってもらうシステムを作って。だから有望なアーティストが、東京にいながら全部わかるんですよ。そしたら人気があるのはほとんどビジュアル系だった。当時彼らは社会的には全然知られていなかったんだけど、「Break Out」で取り上げたら一気にブレイクしましたね。
──当時取り上げたのはどんなバンドだったんですか?
一番インパクトが大きかったのはSHAZNAで、あとはLa'cryma ChristiだったりPIERROTだったり。「Break Out」で取り上げて、彼らの作品を世に送り出した結果、ヴィジュアル系の大ブームとなり、ひいてはインディーズブームが到来したんですよね。そして「Break Out」の一大ムーブメントの中、今度はクラブシーンにスポットを当て、「FUTURE TRACKS」という番組を作りました。僕はクラブカルチャーについて詳しくなかったので、アーティマージュの浅川(真次)さん、エレメンツの野村(昌史)さん、ニューワールドプロダクションズの後藤(貴之)さんにブレーンとして参加してもらって。全国のクラブと提携して、クラブ系のインディーズアーティストを取り上げたんです。ここでもm-floがすぐ売れて、さらにこの番組でケツメイシや傳田真央といったヒップホップ、R&B系のアーティストたちを発掘し、一大ブームとなりました。番組を活用してムーブメントを起こすという新たなビジネスモデルは、今も存在する大きなものに成長しましたね。
ケツメイシと契約してマネジメント事業に参入
──2001年にはそのケツメイシと専属契約を結び、マネジメント事業に着手します。そして同じく2001年に吉田さんは社長に就任されました。
2000年代に入ってCDが売れなくなって音楽業界全体が一気に不況になったんですよ。うちもわずか2、3年で売上が1998年度の50%以下になりました。そんな状況になって、結局コンテンツを持っていないとそこから派生する周辺ビジネスができないと思ったので、ケツメイシから自分たちでもマネジメントを始めました。それまでは「Break Out」や「FUTURE TRACKS」で見つけたアーティストは、楽曲の権利だけ所有して、レコード会社とか事務所に紹介してしまっていたので。ケツメイシを「FUTURE TRACKS」で見つけて、契約。湘南乃風もその流れの中での契約。次に「THE STREET FIGHTERS」という番組でHYやサスケを輩出して彼らとも専属契約を結び、幸運にもそれぞれヒットが続いて2、3年で会社の売上が150%くらい伸びましたね。
──社長になられて「トータル・ミュージック・カンパニー」を掲げ、ライブイベント事業やマーチャンダイズ事業などもスタートさせていますよね。
ライブビジネス、グッズビジネス、ファンクラブビジネスとどんどん増やしていきました。でもどれもコンテンツを所有していないとできないんですよね。当時よく社員には「箱根の山で言うと、僕は旅館経営やホテル経営はしたくないんだ。源泉の所有者になっていたいんだよ」と言ってました。「源泉を持っていれば、旅館やホテルが使ってくれて寝てても稼げるんだ」ってね。
──「トータル・ミュージック・カンパニー」を掲げて事業の確立を果たし、2012年にはさらなる事業展開を目指して「トータル・エンターテインメント・カンパニー」という方針を打ち出されました。
要はアーティストのIP(知的財産)を持ったら、全部のビジネスを内製化したほうが利益効率がいいということでそうしたわけです。ただアーティストが売れてるときはいいんですけど、売れなくなると逆になっちゃうんですよ。
──それがむしろ重荷になってしまう。
だから、当社のアーティストがライブをやらないときは他社のアーティストのライブをやったり、グッズを作ったり、ファンクラブを運営するなどしてビジネスの効率化を図りました。
──自社でやって学んだことを、他社のアーティストに生かしていったということですね。
そういう単純な理屈です。ちなみにマーチャンダイズに関しては、当社も歴史が深いです。萩本欽一さんの「欽ちゃんのどこまでやるの!」(1976年10月~1986年9月放送)という番組があって、高部知子さん、倉沢淳美さん、高橋真美さんからなるわらべが歌った「めだかの兄妹」の歌詞の通りのキャラクターを作って大成功を収めたことがあったんですよ。だからグッズビジネスとしては、実は40年くらい前からやっていたんだよね。
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「トータル・エンターテインメント・カンパニー」を成し遂げるために
2021年3月29日更新