ルサンチマン|「孫が自慢できるロックスターに」高校を卒業したばかりの気鋭オルタナロックバンドが語る“メメント”

18〜20歳のメンバーからなる若手オルタナロックバンド・ルサンチマンが3月31日に1stミニアルバム「memento」をリリースした。ルサンチマンは高度な演奏能力に裏打ちされたテクニカルなアレンジとプリミティブな爆発力を兼ね備える独特のサウンド感、内省的で飾らない歌詞世界、八方破れなハイトーンボーカルなどを武器に、2019年には現役高校生ながら「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2019」への出演を果たしている。そんな彼らが、高校を卒業するタイミングでの集大成としてまとめ上げたのが本作だ。

音楽ナタリーではメンバーの北(ペイ / Vo, G)、クーラーNAKANO(G)、清水(B)、もぎ(Dr)にインタビュー。バンドの成り立ちからこれまでの歩み、さらに将来的に見据える野望について語ってもらった。

取材・文 / ナカニシキュウ 撮影 / 宇佐美亮

高校の同級生と先輩

──皆さんは同じ学校の同級生ということでいいんですか?

北(Vo, G)

(Vo, G) ベースの清水さんだけが2個上で、あとの3人が同級生です。最初は同級生4人で始めたんですけど、途中でベースが脱退してしまったので、同じ部活の先輩である清水さんに声をかけて入ってもらいました。それが去年の話で……。

清水(B) 僕はそのとき大学1年生で、大学では陸上サークルに入ろうかなと思っていたんですけど、そんなときに北から連絡が来たんです。

 最初はサポートでベースを弾いてもらうつもりだったんですけど、頼んでみたら「あ、いいよ!」みたいなけっこう軽い感じで(笑)。

──なるほど。まずはそれぞれのルーツから聞いていきたいんですけど、作詞作曲を手がける北さんはルサンチマン結成以前から曲を作って歌っていたんですか?

 いえ、中学生の頃はずっとコピーバンドをやっていて。[Alexandros]とかのコピーをしてたんですけど、当時からなんとなく「音楽で食べていきたい」とは思っていたので、オリジナル曲を作りたい気持ちは持ってました。それが高校でやっと叶ったんです。

──バンド名の通り、ルサンチマン(弱者が強者に憤りや憎悪の感情をもつこと)を抱えているタイプの少年だったんでしょうか。

 ではないです(笑)。最初は単純に「ルサンチマン」という響きが好きで付けただけだったんですけど、支配者とか強い者に対する反骨心みたいなものを糧にバンド活動をやっていけたらいいなという思いもあったので、曲のテーマもなんとなくそういう哲学的な方向になったというか。

──皆さんくらいの年代でそういう鬱屈した思いを歌う人って、最近だとバンドよりもDTMとかの方向へ行きがちなイメージがあるんですが……。

 ああ、なるほど。確かにそうかもしれません。

──そっちにはあまり興味がなかった?

 そうですね、音楽のルーツ的なところが完全にアナログな音で。生ドラムとアンプで鳴らすギターやベースのサウンドしか聴いてこなかったんで、パソコン上で作り込むような音楽をやろうという発想がそもそもなかったんだと思います。

──ではNAKANOさんがギターを始めたきっかけはどういう感じだったんでしょうか。

クーラーNAKANO(G)

クーラーNAKANO(G) 中学3年生の秋ごろ、受験勉強をしなければいけない時期に現実逃避みたいな感じで始めました(笑)。ゲスの極み乙女。のミュージックビデオとかを観て、川谷絵音さんがすごくカッコいいなと思ったのがきっかけです。それからすっかりハマってしまって、「高校では軽音部に入るんだ」と決めて受験勉強もがんばれました。

──清水さんがベースを始めたきっかけは?

清水 父がギターを弾く人だったので、自分も何か楽器をやりたいとは思ってたんです。そしたら中3くらいの頃に「ベースやってみないか」と父から言われて、楽器も買ってもらって。なので自分からベースという楽器を選んだわけではなかったんですが、当時よくマキシマム ザ ホルモンのMVを観ては「上ちゃん、めちゃくちゃかっけー!」とずっと思ってたので、それを父が察してくれてたのかもしれないです。

──もぎさんはどうですか? ドラムはいつから?

もぎ(Dr) 小学5年生のときからです。当時「太鼓の達人」というゲームがとても好きだったんですけど、父から「そんなに叩くのが好きなら、ドラムやってみなよ」と勧められて。

──「太鼓の達人」きっかけでドラムを始める人って、本当にいるんですね(笑)。ドラム教室に通ったりしたんですか?

もぎ いえ、街のリハーサルスタジオに入って1人で黙々とやってました。ONE OK ROCKやSEKAI NO OWARIの曲をコピーして、音源に合わせて叩いてましたね。

ルサンチマン

もうあとには引けない

──そして高校の軽音部でバンドが組まれるわけですよね。それは北さんが中心となって?

 そうです。当時はオルタナがどういうものかもちゃんと理解していないまま「オルタナみたいなのやろうぜ」ってメンバーを誘って(笑)。明確なイメージはなかったものの、何か革新的なことをやりたいなとは漠然と思ってました。

──活動としては、当初は部活動がメインだったわけですよね。

 はい。1年生のときは部活の他校バンドとのライブとか東京都が主催する軽音楽のコンテストを目指していた感じで。それが2年生になると、ライブハウスに出演することが部活的に解禁されるんです。そのタイミングでライブハウスに出るようになって、今に至ります。

──その年には「RO JACK for ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2019」で優勝して、「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2019」出演を果たしています。これはバンドにとって大きな出来事だったんじゃないですか?

 本当に貴重な経験をさせてもらいました。あのステージを機にNAKANOのバンドへの向き合い方が変わった気がして、僕はそのとき「こいつとは将来的にずっとやっていける」と確信したんですよ。僕やもぎは最初から音楽で食べていく気満々だったんですけど、NAKANOだけはずっと意思が読み取れなくて。

NAKANO そうだったんだ?(笑) 僕はnano.RIPEさんがすごく好きなんですけど、その年は彼らもロッキン初出演というタイミングだったんです。憧れのバンドと同じ年に初出演なんて、すごいことじゃないですか。それで「これはもうあとには引けないぞ」と……。

ルサンチマン

──なるほど、実際に覚悟が固まった瞬間だったんですね。それが北さんに伝わったと。

 ライブ後にあんなにテンションが上がってるNAKANOを見るのは初めてでした(笑)。

──そうしてバンドが勢いを増していく中、世の中はコロナ禍に突入します。

 お客さんの前でライブができない状況が続いたんで、正直溜まっていくものはありましたね。

もぎ ただ、そういう状況だからこそミュージシャンのあり方についてじっくり考える機会にもなったし、いろいろ見つけられた気がします。不安にはならなかったかな。

清水 そう、わりと前向きに捉えていたと思います。

NAKANO 充電期間みたいな感じで。

──意外と皆さん楽観的なんですね。

もぎ 学校が休みになるのもちょっとうれしかったりして(笑)。

 僕ら全員が学生だったことも大きいかもしれないです。仮に社会人2年目とかのタイミングでコロナが来ていたとしたら、また全然感じ方は違ったでしょうね。