「もらい泣き」のほろ苦い思い出で名前をカタカナ7文字に
──武部さんとマシコさんは20年前、一青窈のデビュー曲「もらい泣き」で共同作業をスタートさせたわけですね。最初に共作することになったきっかけはなんだったのですか?
マシコ プロになる前の駆け出し時代、お世話になっていた事務所の社長さんから一青を紹介されまして。「すごく才能ある子なので、ぜひデビューさせたい。マシコくんも曲を書いてみてよ」と言っていただいた。そこで、「今、信頼する先生にこういう楽曲を書いてもらってるんだ」といって聴かせてもらったのが、武部さんのデモ音源だったんです。
武部 僕のほうが先にプロデュースを頼まれていたんだね。そのときタツロウが聴いたのは「月天心」とか「翡翠」とか、あのへんのデモでしょう?
マシコ はい。それから彼女のために楽曲を作り始めたんですが、なかなか決定打が出せなかった。そんな中で一青に誘われてユーミンさんのライブを観に行き、打ち上げで武部さんにお目にかかったわけです。
武部 天賦の才能は疑いようがなかったけど、なかなか苦戦してたんだよね。タツロウは一青の第一印象って覚えてる?
マシコ めちゃめちゃ覚えてますよ。社長から「一度会ってみて」と言われて、某駅で待ち合わせてランチを食べたんです。当時の一青はまるで化粧っ気がゼロでね。しかも、自転車を駐めても鍵をかけないんですよ。「自転車を盗られるよりも、私が鍵をなくす確率の方が高い」って。まあ変わった子だなあと。
武部 鍵、今でもかけないよね(笑)。
マシコ でもそのあとで、彼女が書いた詞を見せてもらって驚いた。間違いなくアーティストだ、只者じゃないと思いました。武部さんはいかがでした?
武部 僕はデモテープが最初。デビュー前はホイットニー・ヒューストンとかDestiny's Childとか、R&Bっぽい曲を歌っていて。でも僕には全然ブラックミュージックっぽく感じられなかった。背伸びしてフェイクもしてるんだけど、まるで合ってなかったんですね。「この子、このままじゃ絶対成功しないな」と感じたのを覚えています。でも声自体の存在感はすごかった。既存の女性ボーカリストとは違う、それこそ一青窈というジャンルを作れる予感がしたくらい。圧倒的に光るものがありました。
マシコ 本当にそうですね。
武部 ただそのためには彼女がもともと備えているアジア性、オリエンタルなムードを最大限に生かしきる楽曲を書き下ろさなきゃいけない。そういう話を一青本人にもして。そこから試行錯誤が始まったんだよね。
マシコ デビュー曲の「もらい泣き」については、ちょっとほろ苦い思い出がありまして。曲が通らなくて苦戦していた頃、事務所関係者を集めたお花見があったんです。そこでギターを弾いていた若者に、社員さんが「曲を募集してるから、よければ送って」と名刺を渡したら、後日本当にデモが送られてきて。それが「もらい泣き」のサビになった。溝渕大智くんです。
武部 確か当時、リハーサルスタジオのアルバイトをしてたんだよね。彼が書いてくれたサビがとにかく素晴らしかった。
マシコ 武部さんは百戦錬磨だから、瞬時に「あ、サビはこれでいこう」と判断されたと思うんですね。それで僕はAメロとBメロを担当することになった。正直、心境は複雑でした。料理で言うと前菜だけを作らされている気がして、悔しくて泣いたのを覚えています。今にして思えば、そんなのラッキーでしかないんですけど。
武部 まあ、血気盛んな頃だからさ(笑)。たしかAメロはタツロウが書いて、Bメロは僕が作った。トラックはタツロウのデモをベースに、僕がブラッシュアップした気がします。複数の作家が協力して作るコライトの走りですよね。
マシコ 作曲家クレジットに3人分の名前が並ぶなんて、当時はなかったですもんね。私が名前をカタカナ表記にしたのは、あれがきっかけなんですよ。
武部 あ、そうなの?
マシコ はい。並びを見たとき、「武部聡志」はビッグネーム。「溝渕大智」は画数が多い。だったら俺は、カタカナ7文字にしてスペースを取ってやろうと。せめてもの自己主張です(笑)。そのあとしばらく、「もらい泣き」みたいな曲を書いてという注文をもらうたびに凹みましたが、今では感謝しています。あの曲がなければ、武部さんとお仕事するチャンスもなかったわけですから。
「ハナミズキ」のデモを聴いたとき、「これは直せないな」と思った
武部 でもタツロウが書いて2枚目のシングルになった「大家」とか、一青の東洋的な空気感をすごく具現化した曲だったし。もっと言えば「ハナミズキ」はデビュー前からあったわけじゃない。
マシコ そうですね。「ハナミズキ」は、9.11(2001年のニューヨーク同時多発テロ)の直後、やり場のない気持ちをぶつけるように作りました。普通なら曲ができてから歌詞を乗せるんですが、この曲だけは同時進行。私がメロディを考えている間に、一青も心に浮かんだ言葉をバーッとスケッチブックに書き留めて。数日後に1つの部屋に集まり、メロに言葉をはめていったんです。
──そういえば以前、五木ひろしさんから「ハナミズキ」の譜割りについて伺ったことがあります。五木さんいわく、昭和の歌謡曲で育った自分には「庭のハナミズキ」を“ニワノハ”と“ナミズキ”とで区切る感覚がない。この曲をカバーした際、そこが一番チャレンジングで面白かったと。
武部 うん。あれは完全な禁じ手。曲タイトルになっている言葉を途中で切るなんて普通は絶対しちゃいけない。しかも歌詞の中でハナミズキという言葉が出てくるのは、あの1カ所だけだから。
マシコ 今さらですけど武部さん、どうしてディレクションで修正しなかったんですか? 完全にセオリーから外れていたのに。
武部 タツロウと一青が作ったデモを聴いたとき、「これは直せないな」と思ったんだよ。その前の「もらい泣き」の歌詞は、何度も直した覚えがある。でも「ハナミズキ」のデモは、それくらい力がこもっていた。
マシコ そうか、そうだったんですね。
武部 あの曲には、9.11テロを目の当たりにしたタツロウの祈りも入ってるし。ニューヨークで被害に遭われた一青の友人の、リアルな体験も反映されている。ハナミズキがかつてアメリカから日本に贈られたという史実も、もっと言えば、一青自身の生い立ちも入っている。それらが奇跡的に重なって、我々チームの中で、平和を求める反戦歌になったんじゃないかなと。
マシコ そう、反戦歌なんですよね、「ハナミズキ」って。実はあの曲、最初はそれこそメジャー7thのコードを使っていたんです。今思えば浅はかなんだけど、ニューヨーク的な雰囲気を出したくて。AORっぽい仕上がりになっていました。でもそこは、武部さんがストレートコードに直してくださった。
武部 きれいなコードワークだったんだけどね。でも、2人が曲に込めた願いや祈りが伝わるのはそっちかなと思って。少しだけ手を加えました。
マシコ ちなみにサビのフレーズの2つ目には、Bm7-5(Bマイナー・セブンス・フラットファイブ)というおしゃれなコードが使われているんですが、こっちは端折らずに生かしてくださってるんです。それが決して軽くならず、むしろ厳粛に響くのはやっぱりアレンジの技なんですよ。細かい話だけど、Bm7-5と微妙に当たる音をあえて重ねることで軽薄さを打ち消し、重みに転じている。すごいさじ加減だと思いました。
──そう考えたとき、ポップソングにおけるコードはそのままメッセージにもなりうるんですね。
武部 もちろん。同じメロディで同じ歌詞でも、コードワークに手を加えれば色合いがガラリと変わる。歌い手の個性や曲に込められたメッセージを受け止めつつ、最適な流れを考えていくのが僕らの仕事なんですよ。
──それは武部さんからマシコさんへ、世代を超えて受け継がれている。
マシコ そうあってほしいと思います。音楽をめぐる状況は、この10年で激変しました。制作環境も今度どんどん変わっていくでしょう。でも、プロ意識を持ってメロディや言葉と向き合うこと。小手先ではなくちゃんと意味のある曲を作っていく姿勢は変わらないし、変えちゃいけないと思う。20周年で出させてもらった「CITY COUNTRY PRESENT PAST」は、その決意表明でもあるんです。
武部 うん。ポップスである限り、世相と無関係ではいられない。だけど人の心を動かす表現は、どの時代でも作り手としてベストを尽くし、思いを込めた先に生まれるものだと思うんですね。僕らは80年代からずっとそういう仕事の仕方を続けてきたし、結局そういう音楽だけが今も残っているじゃない。
マシコ 本当にそうですね。
武部 繰り返しになるけれど、タツロウはそういう普遍的な音楽を生み出せる作家だと僕は思っている。「ハナミズキ」が時代を超えた名曲になったように、それこそ100年先も残っていく曲をこれからのキャリアの中でたくさん生み出してほしいし、きっとできると信じています。
プロフィール
マシコタツロウ
1978年生まれ、茨城県出身の作曲家、作詞家、シンガーソングライター。2002年10月リリースの一青窈「もらい泣き」で作曲家デビューを果たす。EXILE、関ジャニ∞、嵐、Kis-My-Ft2、V6、郷ひろみ、中森明菜、中村雅俊、香西かおり、林家たい平、May J.などさまざまなアーティストへ楽曲提供しているほか、校歌、市歌なども手がけている。現在LuckyFM 茨城放送で放送中の「MUSIC STATE」で水曜レギュラーパーソナリティを担当。2023年1月にオリジナルアルバム「CITY COUNTRY PRESENT PAST」をリリースする。
マシコタツロウ | YOSHIMOTO MUSIC CO.,LTD./よしもとミュージック
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武部聡志(タケベサトシ)
1957年2月12日生まれ、東京都出身の作・編曲家 / 音楽プロデューサー。国立音楽大学在学時よりキーボーディスト / アレンジャーとして活躍する。1983年より松任谷由実のコンサートツアーにおいて音楽監督を担当。一青窈、今井美樹、ゆず、平井堅、JUJUらのプロデュースを務めるほか、テレビドラマや映画の劇中音楽、フジテレビ系音楽番組「MUSIC FAIR」「FNS歌謡祭」の音楽監督など多岐にわたり活動している。
武部聡志-TAKEBE SATOSHI- (@takebesatoshi) | Twitter