シンガーソングライター具島直子が実に約16年ぶりの新作となるEP「Prism」をリリースし、音楽ファンの間で話題になっている。
具島直子は昨今のシティポップブームの中で世代を超えて再評価されているアーティストの1人。新作には先行配信された「Prism」「Horoscope」と、1stアルバム収録曲「Candy」のYaffleによるリミックスバージョンを含む6曲が収録されている。
本稿では、具島直子というアーティストの歩みと、音楽ファンに熱く支持される理由を、栗本斉によるレビューで紐解く。
文 / 栗本斉
2021年10月末のある日、一部の音楽ファンがざわついた。なんの前触れもなく、具島直子の新曲「Prism」が配信されたからである。しかし、どういう経緯で発表されたのかがよくわからず、「本物か?」なんて噂されるほどだった。それからまた半年以上経った2022年の6月に、新曲「Horoscope」が発表される。しかし、これも単発のままで追加のインフォメーションはなかった。これら2曲の配信におけるアートワークは共通したものだったため、ついにアルバムリリースかと期待させられたし、シンプルなアレンジと、独特のウィスパーボイスのアンサンブルは新たな展開を予感させてくれた。それにもかかわらず、またぷっつりと情報は途切れてしまう。あまりにも焦らされすぎてあきらめ、そしてすっかり忘れていた頃になって、ついに新作が発表される。それが、このたび約16年ぶりの新作となったEP「Prism」なのだ。
今回の新作の内容を伝える前に、具島直子がどういうアーティストなのか、なぜこれほどまでに新作が渇望されてきたのかを簡単に説明しておいたほうがいいだろう。幼少時からピアノを習っていた彼女は、大学生のときにボーカリストでありボイストレーナーでもあった桐ヶ谷ボビーと知り合い、本格的に音楽の道に進む。といっても、当初はCMソングやコーラスなど、スタジオミュージシャンとしての活動が主だったようだ。
しかし地道に実力を付け、自身でも楽曲制作を行うようになり、1996年に満を持して1stアルバム「miss.G」でデビューを飾るのだ。本作は、当時それほど大きなセールス結果を生んだわけではないが、音楽ファンの間で高く評価された。ジャジーでメロウな「Melody」やボサノバタッチの「台風の夜」、ソウルマナーを感じさせる「モノクローム」など名曲ぞろいではあるが、決定的な1曲と言えるのが、のちにシングルカットされた「Candy」である。スウェイするメロウなビートとアンビエントなキーボードの合間をさざ波のようにたゆたう具島直子の声は、甘くロマンチックで何度も聴きたくなる独特の魅力を放っている。当初より人気曲だったが、2010年代以降はシティポップの文脈で再評価が高まり、さまざまなアーティストにカバーされ、90年代J-POPのスタンダードな1曲と言われるまでになった。
「miss.G」に続き、翌1997年には2ndアルバム「Quiet Emotion」が発表される。冒頭の「Tell me oh mama」のような「Candy」の路線を引き継ぐメロディアスなナンバーを筆頭に、アンニュイ路線の傑作「no. no. no.」、穏やかながらもソウルフルな雰囲気に満ちた「So high So high」など前作に劣らない傑作に仕上がっていた。1999年に発表された3rdアルバム「mellow medicine」は、それまでよりもリズムなどサウンドの輪郭が多少目立つようになったが、彼女の歌声は変わらず、甘く切ない「missing you」や浮遊感に包まれた「声を聴かせて」、スウィートソウル調のスローバラード「12月の街」など、こちらも名曲ばかり。このように、90年代に具島直子が残した3作のアルバムは、いずれもマスターピースと言っていい出来栄えなのだ
しかし、「mellow medicine」以降は表立った音楽活動を行わなくなり、8年後の4作目「MYSTIC SPICE」まで待つことになった。このアルバムはそれまでのピアノを主体にした浮遊感あふれるソウルフル路線とは少し違い、アコースティックギターやピアノジャズを軸にした少しジャジーなテイストに統一されていた。ただ、サウンドこそ違うが、ボーカルはそれまでの作品を踏襲しており、歌い手としての健在ぶりを見せてくれた。その後は、新曲を含む2009年のベストアルバム「Magic Wave」、2011年の配信限定シングル「美しいもの」などのリリースがあったり、数は少ないが何度かライブが行われたりしたが、10年以上もの間彼女の新曲を聴く機会はなかった。その間、何度か再評価の波が起こり、ストリーミングが解禁となり、数度にわたって過去作品がアナログ化されるなど、リアルタイム世代だけでなく90年代を知らない若者たちにも具島直子の名前と音楽は少しずつ浸透していったのである。こういった流れがあったからこそ、彼女の新作が待望という言葉で彩られるのは当然なのだ。
今回リリースされた「Prism」は、6曲入りEPという形式ではあるが、我々ファンにとって待ち焦がれた作品であることは間違いない。冒頭は先述した先行シングル(といっても1年半も前だが)の「Prism」。簡素なドラムとゆったりグルーヴするベースとのリズムパターンにそっと寄り添うように、ピアノがコードを奏でていく。ところどころにシンセサイザーによる効果音のような音色が差し込まれるとはいえ、バックトラックは隙間が多くデモ音源のようでもある。しかし、彼女のあの声が乗ることで、独特の幻想的な音空間が立ち上がり、一気に具島ワールドへと引き込まれるのだ。
続く「ホロスコープ~星座物語」は、これまた先行で発表されていた英語曲「Horoscope」に日本語詞を乗せたもの。こちらも「Prism」同様に、リズムトラックはドラムとベース、そしてピアノを中心としたもので非常にシンプルだ。しかし、具島直子の何層にも重ねた声と、うっすらとかぶさるシンセサイザーの音色によって、音の厚みを感じさせる。また、星座をテーマにした歌の世界はとても神秘的に響く。この雰囲気はまさに彼女の真骨頂とも言えるもので、本作の核となる1曲であることは間違いないだろう。
3曲目の「Rain」は、先の2曲に比べるともう少しパターンの違うサウンドと言えるかもしれない。プログラミングされたリズムとシンセサイザーの装飾音を軸にしており、特にリズムがドープに響くところはクラブミュージックにも通じるものがある。ただ、コーラスワークを駆使したボーカリゼーションで聴かせる楽曲の構築力はさすがで、短い英語詞を積み重ねていく言葉の使い方も巧みだ。
4曲目の「Close To You」もやはり、サウンドはリズムセクションとピアノ、シンセサイザーというところは変わらない。シンセベースの質感が声とのバランスをうまく保っている。そしてどこか物悲しくも切ない言葉が紡がれる日本語の歌詞が、そっと心のひだに触れられているような感覚にさせてくれる。
ここまでの4曲が本編だとしたら、残りの2曲はボーナストラックのようなものだろうか。5曲目は先行で発表されていた「Horoscope」のオリジナル英語バージョンで、日本語詞との違いを存分に楽しんでいただきたい。同じ楽曲であっても、どこか印象が変わるのは、言葉と歌が密接に影響し合っているからだろう。そしてラストには名曲「Candy」のリミックスが収録されている。「Candy」のリミックスといえば、松尾潔が手がけた「CANDY -KC melts "miss. G" Remix-」が知られており、アーバンな感覚に仕上がった秀逸なバージョンは、後に7inchアナログ盤でリイシューされているほど人気がある。ただ、今回は新進気鋭のクリエイター、Yaffleを抜擢しているのが新しい。Yaffleは藤井風やiri、adieu(上白石萌歌)などの作品をプロデュースしていることで知られ、自身でもソロ作品を発表している。先日発表したアルバム「After the chaos」はポストクラシカルに肉薄した壮大なトライだった。そんなYaffleのリミックスは、意外にも原曲を大胆に解体したサウンドに。BPMが上がりハウスビートが加わることで、トランシーでアッパーなダンスミュージックに生まれ変わっている。このリミックスはファンにとっては賛否両論あるだろうが、具島直子の懐の深さを物語るユニークな試みと言っていいだろう。
さて、今回のEP「Prism」には、いくつか具島直子がアップデートされていると感じられるところがある。まず、詞曲のクレジットがすべて「Cosmic Radio」になっているところだ。これは「自身の中にある言葉や音の本質を受信するために発動するラジオのようなもの」という意味合いがあるようだ。彼女が作る楽曲をベースに、桐ヶ谷ボビーが肉付けしたり意匠を凝らしたりというようなやり方はおそらく変わらないのだろうが、自身の名前を出すのではなく、あえてこの名義にしたことは今の彼女にとって重要なことなのだろう。また、以前よりも音作りがシンプルになったことで、声の魅力をより深く感じられるのは、彼女自身も自覚しているのではないだろうか。昨今のアンビエントR&Bやドリームポップとの親和性も高いと感じさせるのは、彼女が歩み寄っているのではなく、時代を超越して彼女の音楽が求められていることと強くリンクしているように思う。まさに具島直子の「Prizm」は綿々と構築されてきた“具島直子像”を裏切ることなく、これまでの彼女の作品同様にリアルタイムでも時代の音として鳴り響く今聴くべき音楽であり、そしてこの先もずっと聴き続けられるエバーグリーンな作品なのだ。
プロフィール
具島直子(グシマナオコ)
東京生まれのシンガーソングライター。洋画家の祖父のもとで育つ。4歳でピアノを始め、21歳のときにプロデューサーの桐ヶ谷ボビーと出会い、大学を中退し音楽の道へ。桐ヶ谷に師事しながらスタジオミュージシャンなど音楽関係の仕事をこなし、1996年にアルバム「miss.G」で東芝EMIよりデビューした。1997年に2ndアルバム「Quiet Emotion」、1999年に3rdアルバム「mellow medicine」を発表。2007年に4thアルバム「Mystic Spice」をリリースし、翌年11月に東京・六本木のスイート・ベイジルSTB 139にて初ライブを行った。2009年、ベストアルバム「magic wave」を発表。その後も幾度か東京でライブを開催し、現在は作曲等の活動をしている。2023年4月、実に約16年ぶりとなる新作「Prism」をリリースした。