バイブスが共鳴してとんでもねえ爆弾ができちまったよ
Yaffle
Zoomにログインすると、聡明で僕の思ってたより気さくな方がいました。暖かい雰囲気で、彼らが楽しみながらこのプロジェクトをやっているのが伝わってきました。ヒガシローランドくんとは一緒にご飯も行きましたが、お互いキノコ好きで、キノコ愛を語り合いました。
制作過程ではお互いのアイディアにインスパイアされあい、俺らのバイブスが共鳴してとんでもねえ爆弾ができちまったよ。
- Yaffle(ヤッフル)
- 東京都出身のソングライター / プロデューサー。小袋成彬と共にTokyo Recordingsを設立したメンバーの1人で、小袋、藤井風、iri、SIRUP、SANABAGUN.の高岩遼、Capeson、柴咲コウ、adieu(上白石萌歌)らの楽曲制作やアレンジから、映画「響 -HIBIKI-」「ナラタージュ」などの音楽制作まで幅広く活躍する。2020年9月18日に1stアルバム「Lost, Never Gone」を配信リリースする。
甘美なゲシュタルト崩壊に戦慄
ケンカイヨシ(Loyly Lewis)
「Gorilla Attackとは何者か?」なんというか、人を食ったネーミングだな。「ゴリラに言葉は要らないから、分からなくていい」「ゴリラは多くを求めやしない」冒頭、宣言される彼らのマニフェストに全てが詰まっているような気がした。例えばだ。四肢の好奇を刺激し、肉体的悦楽、精神的恍惚の世界へ誘っていく消費的ポルノ・グラフィックが、時に(その欲望をぶちまける対象である)豊満な肉体の女性のみならず、愚鈍さを曝け出す自らの劣情を興奮の対象とするように、音楽史において「楽曲」は常々、自己陶酔、自己憐憫の絶好の種とされてきた。人々は物語の登場人物と自身を重ね、共鳴し、その命の持つ言葉にならない憤りや叫びをアートに任せることで、なんとか困難を生き長らえてきた。ポップ・アートの歴史は救済の歴史でもあった、ということだ。しかし、(彼らがユニット名に用い、そして詞中でも多用する)「ゴリラ」という単語は、楽曲をリスナーの自叙伝として解釈させることを巧みに拒絶する。否、寂しさを兎と準えたり、児童文学の代表「オズの魔法使い」において「臆病なライオン」の持つ役回りが屈強な肉体と怯える心といった二律背反、“人間そのもの”のメタファーであったように、動物の特質を人間と重ね合わせる、という手法自体は文学において普遍的なものだ。だが、我々はゴリラを「バナナ」「ウホウホ」「愉快」と言ったある種の滑稽さを持って捉えており、正直言うと「このサウンドでゴリラって何w」と最初聴いた時ウケてしまった。しかし、人間と距離のある単語が急に流麗なラップ / アーバンサウンドに放り込まれ続ける中、私の聴覚には奇妙な変化が訪れていた。「今まで音楽だと思って聴き、感動してきたものって、一体なんだったんだ?」「俺はただ自分と音楽を重ねていただけだったのか?」Gorilla Attackの魔法にかかると、自分が今、何を聴いているのか分からなくなる。代弁者としての役割を音楽が失った瞬間、アーバンな音世界、流麗なラップサウンド、そしてキャッチーな言葉たちは人と結ばれた意味を完全に失い、個々のマテリアルが一つに溶け合う。──甘美なゲシュタルト崩壊に戦慄した瞬間、私は、彼らの狙いをようやく理解した。ああ、そういうことか。ここで描かれているのは過去であり未来、そして我々が何も考えずに生く“東京”という街そのものだ。甘々しく何も感じないようインプットされたユートピア / ディストピアの中で109の消費を即す無機質な広告と、この詩世界で歌われている「ゴリラ」、そして我々に一体、どのような差異があるというのか? 思考停止した脳にドーパミンを垂れ流し、思い通りに大衆のマインドを動かす術に長けた広告 / TVショウ / YouTubeに侵食されながら同じ行動を繰り返す我々に、ゴリラという単語の滑稽さにプッと噴き出す資格があるか? 選ばされている側と、「自分で選んでいると勘違いさせられている側」に明確な違いなんてあるのか? 「Gorilla Attack」「それを聴くリスナー」は、そもそも違うものなのか。……疑念は「16ビットの音の渦」にマスキングされ、楽曲もいずれはフェードアウトし、我々は何も考えずにヘラヘラと生きる人生に再びフェードインするだろう。しかし、記憶に遺ろうと遺るまいとゴリラと魂は共鳴し続けるのだ。44.1kHzの単なる波形となっても、永遠に。「脳内 うごめくGorillaの群れ 倍増 まだまだ 覚醒 覚醒 体内 うずまくGorillaの軍団 倍増 ただただ めざめ めざめ」(著:ケンカイヨシ)
- ケンカイヨシ
- 関東在住の音楽プロデューサー。エッジの効いたサウンド、エロくてジャジーなポップスが得意。
絶えず、水のように柔らかく、寄り添って染み込む
ササノマリイ
「Gorilla Attackとは何者か?」
何者なんだろう。
純粋で、前を向いていて、ナイーブで、強くて、優しくて、脆くて。
表に見えるものがすべてではないけど、
その表に見えるものだけでさえ多くの感情を見せて、与えてくれる。
答えを与えてくれる存在なんかじゃなくて、
見つからない答えに寄り添って、出た答えをともに見つめて、
「今」が「今」以外の何者でもないと理解させてくれる
絶えず、水のように柔らかく、寄り添って染み込む。
僕にとってのゴリラアタックは、そんな存在です。
そして、「あなたにとってのゴリラアタック」もまた存在します。
あなたにとってのゴリラアタックは「何者」なんだろう。
- ササノマリイ
- 2009年にVOCALOIDシーンで「ねこぼーろ」として音楽活動を本格的に開始。2014年よりシンガーソングライター「ササノマリイ」としての活動をスタートさせ、同年10月に1stアルバム「シノニムとヒポクリト」をリリース。2015年7月には2ndアルバム「おばけとおもちゃ箱」を発表した。2017年6月、ぼくのりりっくのぼうよみをゲストボーカルに迎えた楽曲「game of life feat. ぼくのりりっくのぼうよみ」を収めた音源「game of life EP」を発売。2020年4月に三井アウトレットパーク「Spring Sale」のCMソング「年中混乱中」、8月には最新曲「SEI」を配信リリース。
おっかすなーおっかすなー思よったら
雲のすみか
「ああんなとごに2っつ山なんてあっだっげがなあーっつって思よってがいつも通り山道さ下っとったんださ、したらわしの回転式電動かんぴょう巻き機さうんともすんとも言わんがっきゃろ? んでおっかすなーおっかすなー思よったら、さこ! 目の前にどおーでかいあれさ! なあに花火みてえな毛ぇでおおわれよる、黒黒おおしたありあ、なんだ」
- 雲のすみか
- 静岡県出身のラッパー / トラックメイカー / サンプリングナード。2014年に1stアルバム「テテロルルロ」を発表。自主レーベル「天空日暮らし。」を設立するほか、他アーティスト作品への参加やライブ活動などを展開。2ndアルバムのリリースを控えている。
拡張性の獣
SOLANINE
ビジュアル面の表現を担当するにあたり、Gorilla Attackとは?という問いについて長い時間向き合いました。その中で私が辿り着いた結論は、「拡張性」です。
Gorilla Attackの音楽はしがらみや苦しみに囚われない強さと、自由を求める願いの様なものだと感じており、
それはストレス過多な現代社会において、誰もが持ち得るものだと思います。
音に乗ってそれは人々に伝播し、様々な形へ変化しながら拡がり、アップデートされていく。
私から見たGorilla Attackは、まさに「拡張性の獣」です。
- SOLANINE
- 元ゲーム会社勤務のフリーランスイラストレーター。Gorilla Attackとしてキャラクターデザインとイラストレーションを手がけている。
ヴァーチャルにもリアルにも存在するゴリラ
YP
あれは確かまだ寒い冬の頃、東ローランド(以下東くん)から相談を受けた。「自分たちがこの世界に存在を証明するためにはどうすればいいか?」その問いに対して私は「ヴァーチャルからリアルに存在を引っ張ってこよう」と提案した。「気が合いますね。」などと会話を交わした。
それから数カ月がたち、東くんと電話する機会があった。ちょうどオンライン飲みが流行り出した頃に、斜に構えながらオンライン飲みというものを東くんとやってみたのだ。しばらくして私は酔っ払ってしまい、気が大きくなっていたのだろう「Gorilla Attackのアートディレクションは絶対俺がやったほうがいい」などと言い放ち、東くんは「じゃあやりますか。」と彼らしい軽快で頑丈な返答に私はとても大きな事に首を突っ込んでしまったなと覚悟をしたのを覚えている。それがすべての始まりであった。
「Gorilla Attack」とはゴリラへの愛とリスペクトを表したアート活動であると私は認識している。またはゴリラを拡張することで多角的なアプローチを行うアートユニットがGorilla Attackだ。時に音楽へ、時にファッションへ。ゴリラが目的によって変幻自在に変容し、縦横無尽にカテゴリーを横断する様は自らのテリトリーを拡張し、新たな住処を獲得するための戦闘行為のようにも見える。私はそんな彼らの存在をヴァーチャルとリアルの交差点に置き、大暴れをしてもらった。(「隔世 gorilla」MV参照)
彼らのキャラクターを具現化し、現実世界にも衣装を存在させて、リアルの世界とヴァーチャルを行き来するMVを作った。結果として2人はヴァーチャルにもリアルにも存在するゴリラとなった。ゴリラがこの世界に具現化されたのだ。彼らのGorilla Attackは今始まったばかりだ。今後ともこの極上のアート活動に加勢して行きたいと考えている。
- YP
- 1994年生まれのクリエイティブディレクター。2016年に森永乳業リプトンのテレビCM「夢を追いかける人 編」を最年少CMディレクターとして手がける。監督を務めた株式会社VAZのWeb CM「JAPANESE BUZZ」は公開から3日で1000万再生を突破。MIYAVI、KREVA、三浦大知のコラボミュージックビデオの制作も行い、yonige、あいみょん、水溜りボンドなど同世代の若手アーティストの映像作品も手がけている。
ニシもヒガシもわからない音楽が好きなゴリラたち
カンタ(水溜りボンド)
ご縁があり、以前「Gorilla Anthem」にてMVを制作させて頂きました。楽曲の世界観に引っ張られ一度聴いた時点で映像のイメージが湧いたのを覚えています。
彼らが何者なのかは、この1st EPを聴いて頂ければわかります。そしてこの楽曲に出会った人たちは是非拡めてください。なぜなら彼らはきっとポップも売れ方もニシもヒガシもわからない音楽が好きなゴリラたちだからです。
- カンタ(水溜りボンド)
- 水溜りボンドとして、トミーと共に活動する動画クリエイター。2015年1月1日の活動開始以来、ドッキリ、実験、検証、料理など、さまざまなテーマで1日も欠かさず動画を投稿している。
Zoomにログインすると、聡明で僕の思ってたより気さくな方がいました。暖かい雰囲気で、彼らが楽しみながらこのプロジェクトをやっているのが伝わってきました。ヒガシローランドくんとは一緒にご飯も行きましたが、お互いキノコ好きで、キノコ愛を語り合いました。
制作過程ではお互いのアイディアにインスパイアされあい、俺らのバイブスが共鳴してとんでもねえ爆弾ができちまったよ。
「Gorilla Attackとは何者か?」なんというか、人を食ったネーミングだな。「ゴリラに言葉は要らないから、分からなくていい」「ゴリラは多くを求めやしない」冒頭、宣言される彼らのマニフェストに全てが詰まっているような気がした。例えばだ。四肢の好奇を刺激し、肉体的悦楽、精神的恍惚の世界へ誘っていく消費的ポルノ・グラフィックが、時に(その欲望をぶちまける対象である)豊満な肉体の女性のみならず、愚鈍さを曝け出す自らの劣情を興奮の対象とするように、音楽史において「楽曲」は常々、自己陶酔、自己憐憫の絶好の種とされてきた。人々は物語の登場人物と自身を重ね、共鳴し、その命の持つ言葉にならない憤りや叫びをアートに任せることで、なんとか困難を生き長らえてきた。ポップ・アートの歴史は救済の歴史でもあった、ということだ。しかし、(彼らがユニット名に用い、そして詞中でも多用する)「ゴリラ」という単語は、楽曲をリスナーの自叙伝として解釈させることを巧みに拒絶する。否、寂しさを兎と準えたり、児童文学の代表「オズの魔法使い」において「臆病なライオン」の持つ役回りが屈強な肉体と怯える心といった二律背反、“人間そのもの”のメタファーであったように、動物の特質を人間と重ね合わせる、という手法自体は文学において普遍的なものだ。だが、我々はゴリラを「バナナ」「ウホウホ」「愉快」と言ったある種の滑稽さを持って捉えており、正直言うと「このサウンドでゴリラって何w」と最初聴いた時ウケてしまった。しかし、人間と距離のある単語が急に流麗なラップ / アーバンサウンドに放り込まれ続ける中、私の聴覚には奇妙な変化が訪れていた。「今まで音楽だと思って聴き、感動してきたものって、一体なんだったんだ?」「俺はただ自分と音楽を重ねていただけだったのか?」Gorilla Attackの魔法にかかると、自分が今、何を聴いているのか分からなくなる。代弁者としての役割を音楽が失った瞬間、アーバンな音世界、流麗なラップサウンド、そしてキャッチーな言葉たちは人と結ばれた意味を完全に失い、個々のマテリアルが一つに溶け合う。──甘美なゲシュタルト崩壊に戦慄した瞬間、私は、彼らの狙いをようやく理解した。ああ、そういうことか。ここで描かれているのは過去であり未来、そして我々が何も考えずに生く“東京”という街そのものだ。甘々しく何も感じないようインプットされたユートピア / ディストピアの中で109の消費を即す無機質な広告と、この詩世界で歌われている「ゴリラ」、そして我々に一体、どのような差異があるというのか? 思考停止した脳にドーパミンを垂れ流し、思い通りに大衆のマインドを動かす術に長けた広告 / TVショウ / YouTubeに侵食されながら同じ行動を繰り返す我々に、ゴリラという単語の滑稽さにプッと噴き出す資格があるか? 選ばされている側と、「自分で選んでいると勘違いさせられている側」に明確な違いなんてあるのか? 「Gorilla Attack」「それを聴くリスナー」は、そもそも違うものなのか。……疑念は「16ビットの音の渦」にマスキングされ、楽曲もいずれはフェードアウトし、我々は何も考えずにヘラヘラと生きる人生に再びフェードインするだろう。しかし、記憶に遺ろうと遺るまいとゴリラと魂は共鳴し続けるのだ。44.1kHzの単なる波形となっても、永遠に。「脳内 うごめくGorillaの群れ 倍増 まだまだ 覚醒 覚醒 体内 うずまくGorillaの軍団 倍増 ただただ めざめ めざめ」(著:ケンカイヨシ)
「Gorilla Attackとは何者か?」
何者なんだろう。
純粋で、前を向いていて、ナイーブで、強くて、優しくて、脆くて。
表に見えるものがすべてではないけど、
その表に見えるものだけでさえ多くの感情を見せて、与えてくれる。
答えを与えてくれる存在なんかじゃなくて、
見つからない答えに寄り添って、出た答えをともに見つめて、
「今」が「今」以外の何者でもないと理解させてくれる
絶えず、水のように柔らかく、寄り添って染み込む。
僕にとってのゴリラアタックは、そんな存在です。
そして、「あなたにとってのゴリラアタック」もまた存在します。
あなたにとってのゴリラアタックは「何者」なんだろう。
「ああんなとごに2っつ山なんてあっだっげがなあーっつって思よってがいつも通り山道さ下っとったんださ、したらわしの回転式電動かんぴょう巻き機さうんともすんとも言わんがっきゃろ? んでおっかすなーおっかすなー思よったら、さこ! 目の前にどおーでかいあれさ! なあに花火みてえな毛ぇでおおわれよる、黒黒おおしたありあ、なんだ」
ビジュアル面の表現を担当するにあたり、Gorilla Attackとは?という問いについて長い時間向き合いました。その中で私が辿り着いた結論は、「拡張性」です。
Gorilla Attackの音楽はしがらみや苦しみに囚われない強さと、自由を求める願いの様なものだと感じており、
それはストレス過多な現代社会において、誰もが持ち得るものだと思います。
音に乗ってそれは人々に伝播し、様々な形へ変化しながら拡がり、アップデートされていく。
私から見たGorilla Attackは、まさに「拡張性の獣」です。
あれは確かまだ寒い冬の頃、東ローランド(以下東くん)から相談を受けた。「自分たちがこの世界に存在を証明するためにはどうすればいいか?」その問いに対して私は「ヴァーチャルからリアルに存在を引っ張ってこよう」と提案した。「気が合いますね。」などと会話を交わした。
それから数カ月がたち、東くんと電話する機会があった。ちょうどオンライン飲みが流行り出した頃に、斜に構えながらオンライン飲みというものを東くんとやってみたのだ。しばらくして私は酔っ払ってしまい、気が大きくなっていたのだろう「Gorilla Attackのアートディレクションは絶対俺がやったほうがいい」などと言い放ち、東くんは「じゃあやりますか。」と彼らしい軽快で頑丈な返答に私はとても大きな事に首を突っ込んでしまったなと覚悟をしたのを覚えている。それがすべての始まりであった。
「Gorilla Attack」とはゴリラへの愛とリスペクトを表したアート活動であると私は認識している。またはゴリラを拡張することで多角的なアプローチを行うアートユニットがGorilla Attackだ。時に音楽へ、時にファッションへ。ゴリラが目的によって変幻自在に変容し、縦横無尽にカテゴリーを横断する様は自らのテリトリーを拡張し、新たな住処を獲得するための戦闘行為のようにも見える。私はそんな彼らの存在をヴァーチャルとリアルの交差点に置き、大暴れをしてもらった。(「隔世 gorilla」MV参照)
彼らのキャラクターを具現化し、現実世界にも衣装を存在させて、リアルの世界とヴァーチャルを行き来するMVを作った。結果として2人はヴァーチャルにもリアルにも存在するゴリラとなった。ゴリラがこの世界に具現化されたのだ。彼らのGorilla Attackは今始まったばかりだ。今後ともこの極上のアート活動に加勢して行きたいと考えている。
ご縁があり、以前「Gorilla Anthem」にてMVを制作させて頂きました。楽曲の世界観に引っ張られ一度聴いた時点で映像のイメージが湧いたのを覚えています。
彼らが何者なのかは、この1st EPを聴いて頂ければわかります。そしてこの楽曲に出会った人たちは是非拡めてください。なぜなら彼らはきっとポップも売れ方もニシもヒガシもわからない音楽が好きなゴリラたちだからです。
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