千葉広樹|数々のシーンを往来して見えた“故郷”と“夜の景色”

千葉広樹が9月18日にアナログ盤「Eine Phantasie im Morgen」「Nokto」を同時リリースした。

Kinetic、サンガツ、スガダイロートリオ、蓮沼執太フィル、古川麦トリオのメンバーとして活動する傍ら、優河、王舟、LUCAといったシンガーソングライターのサポートメンバー、吉澤嘉代子、YUKI、THE BEATNIKSらアーティストのレコーディングメンバーとして携わり、ベーシストとしてもジャズシーン、インディシーンの垣根にとらわれずに活躍する千葉。CD-Rとデジタル作品としてリリースされた「Eine Phantasie im Morgen」(2018)、「Nokto」(2019)がアナログレコード化されるこのタイミングで、千葉のこれまでの活動や音楽を作る姿勢について話を聞いた。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 星野耕作

ジャズシーンに飛び込むきっかけ

──まずは千葉さんのこれまでの活動についてお聞かせください。

ぶっちゃけ僕以外に自分の履歴をちゃんと把握してる人は誰もいないと思うんです(笑)。歌モノのバンドに出ている僕を知っていても、例えばKineticでの活動を知らない人も多いし。「蓮沼執太フィルでバイオリン弾いてます」って言うと、「え? そうなんですか?」と驚かれます。僕、結成からずっといるのに(笑)。

──そもそも、ポップス方面での最初のキャリアはRiddim Saunterのベースですもんね。

Riddimにいたのは相当前なんです。TA-1くん(Riddim Saunterのリーダーでありドラマー。現在はKONCOSやLEARNERSなどで活動)が僕の通ってた音大の後輩なんですが、すごく仲良くなって、僕はそれまでほぼベースを弾いたことなかったのにベーシストとして誘われたんです。

──そうなんですか? ということは、それまでメインの楽器は?

音大ではクラシック・バイオリン科でした。ウッドベースを始めたのはすごく遅くて22、23歳くらいからで。Riddimに誘われたときも、エレキベースをバンド活動のために買ったんです。Riddimのベースは2年くらいで辞めたのですが、その後も解散するまでストリングスのアレンジや大編成ライブのときにバイオリンで参加していました。2010年に彼らが「FUJI ROCK FESTIVAL」のWHITE STAGEに出演したときも一緒に出ましたし。ついでにこのときはBelle and Sebastianのストリングスとしても出演しましたね。

千葉広樹

──音大でクラシック・バイオリン専攻ということは、子供の頃から弾いていたんですか?

6歳からガチでやってました。でも、僕はすごく下手だったんですよ(笑)。1日10時間練習してたのに、第1志望の大学に落ちて。落胆してもうバイオリンはあきらめてたんですけど、たまたま縁があって尚美学園大学に入学したんです。その選択が逆によかったですね。TA-1くんとの出会いも大きかったし、ジャズピアニストの坪口昌恭さんに出会って、ジャズの道を志すきっかけになりました。

──リスナーとしてもクラシック中心ですか?

そうですね。当時僕はクラシックのオタクでFMラジオのクラシック番組をチェックしたテープが実家に1000本くらいあります。中でも現代音楽が大好きでした。高校に入ってからはもう少し聴く範囲が広がりましたけど、やっぱり電子系の音が好きでしたね。ロックのほか、テクノやエレクトロニカを聴いてました。そもそも僕はバイオリンにそんなに興味がなかったというか、聴くのは好きなんですけど弾くのが好きじゃなかった。あんまりバイオリンに執着がなくて、それよりもっといろんなものを見たかったのかもしれない。大学でも、僕はクラシック科に入ったんですけど、ちょうどその頃にジャズ科ができて、なぜか僕はそっちの連中とすごく仲良くなったんです。あと、坪口さんはたまたま僕の入試の実技を教官として見てくれていて、あとで知り合っていろいろ話していて、気が付いたらローディを約8年くらいやらせてもらいました。

──8年間!

搬入搬出、セッティングはおおむねやってました。いろんな現場を手伝わさせていただきましたね。東京ザヴィヌルバッハのときは配線が多すぎて大変でしたけど(笑)。その頃、TA-1くんはDate Course Pentagon Royal Garden(現:DC/PRG)のローディーをやっていて、2人で分業していましたね。

何もできないミュージシャンになってしまうという危機感

──ベースの演奏はどうやって身に付けたんですか?

ベースの師匠である菊地雅晃さんに教わったり、大学でジャズ科の理論の授業も受けてたんですけど、ベースはほぼ独学でしたし、実際にはよくわからないまま弾いてましたね。めちゃくちゃだったと思います。

──とはいえ、自分はベーシストとしてやっていくと決めたわけですよね。そのきっかけになるような出来事はあったんですか?

うーん。Riddim Saunterを辞めたのが大学4年の頃なんですけど、ちゃんとジャズについて勉強しないとこのままでは何もできないミュージシャンになってしまうと思い、ウッドベースを買いました。今もそれをずっと使ってるんですけど。

──初めて買ったウッドベースをずっとですか!

千葉広樹

はい。毎日練習しました。就活もまるで考えてなかったですね。

──それと並行して、エレクトロニクスによる作曲も続けていたんですか?

実は僕、高3くらいでサンプラーとか電子音楽のための機材は買っていたんです。DJプレミアに憧れてビートを作ってみたり。それで大学で上京してから、なぜかいきなりノイズシーンに飛び込んでいって、ノイズやインプロのライブ活動をしていました。GROUND ZEROが終わったくらいの時期の大友良英さん、キャプテン(秋山徹次)や広瀬淳二さんともその頃に知り合っていて。それこそ2005、06年のONJOとかには参加させてもらってました。杉本拓さん、大蔵雅彦さん、宇波拓さんとも大学を出た頃くらいに知り合ってますね。

ジャズ、エレクトロニクス、ノイズシーンを行き来

──Riddim Saunterに参加したり、ジャズを学んだりしつつも、電子音楽やノイズシーンとの関わりも並行して続いていたんですね。

ノイズ系というよりインプロ系に横滑りして向かった感じでしたね。ウッドベースを満足に弾けないうちにベースとエレクトロニクスでインプロのソロライブをやってました。当時の僕のライブは悲惨でしたけど(笑)。

──違うシーンを行き来することで、たまには「あれ? どうして千葉くんがここにいるの?」みたいに言われる現場もあると思うんですが。

いまだにありますね。でも自分では全然矛盾していないので。「頭の切り替えはどうしてるんですか?」と言われるんですけど、あんまり考えたことはないですね。僕の中では全部一緒です。

──面白いですね。一本道でクネクネしてる音楽履歴というより、直線が何本も並行して走ってる感じ。

まさにそうなんですよ。「あ、こういう音楽もやってるんだ」っていまだに言われるから。仲がよくても、僕がソロでやるような音楽のことを知らない人もいっぱいいるんで。

初のベースソロライブはジャニス

──ご自身の活動がもう少し進み始めた頃の話を聞かせてください。

ノイズユニットとしては2000年くらいからeffective doseという名義でやっていたんですけど、音源もほぼ作ってなかったんです。実は、2008年に初のソロアルバム「Hiroki Chiba+Saidrum」をTelemetryレーベルから出してるんです。ベースソロとエレクトロニクスというスタイルで、そのうちの1曲はSaidrumと作っていて、ミックスがnumbさんですごくカッコいいんですよ。今思うと本当に度胸があったなと思うんですが、それがやりたかった。僕の師匠の菊地さんがベースをモジュラーシンセにつないで弾いてるのを見て、それを面白いなと思って自分なりに取り入れてやってたんです。

──その頃はどこでよくライブをしていました?

僕のベースソロでの初ライブは御茶ノ水のジャニスでした。

──あの伝説的なレンタルCDショップの?

当時はジャニスがやってるライブスペースがあったんです。あとは八丁堀の七針、千駄ヶ谷のループラインにもよく出てました。そこで知り合った人は多いかも。ライブは大なり小なりたくさんやってましたね。多い年は年間200、300本やってました。全然お金にはなんなかったけど(笑)。ただ、僕は演奏が下手すぎて、いくつもバンドをクビになっていました。だから2010年くらいまではバイトしながら食いつないでいましたし、人生で一番金がなかった(笑)。

──それって「下手」というより、伝統的なジャズマインドのミュージシャンの方々とのスタイルの違いが明確に出ていたということでは?

それは圧倒的にそうでしたね。全然悪いことではないんですが、価値観が違いすぎて、30歳直前くらいはそのことを本当によく考えました。

千葉広樹

蓮沼執太との出会い

──一方で、2000年代の終わりには10年代にどんどん頭角を現していく東京のインディバンドやアーティストがすでに活動を始めていますよね。そのあたりで千葉さんもジャズ、インプロ以外のシーンと交わっていったのではないですか?

いくつか今につながる出会いはあるんですけど、やっぱり蓮沼執太に出会ったことは大きかったですね。蓮沼くんもそうですけど、ASUNA、木下美紗都、HOSEなど当時HEADZから出していたアーティストの8割くらい僕がサポートしていたので、そこでいろんなミュージシャンと知り合って人脈が広がったんです。□□□のサポートをするようになったのもその流れでしたし。

──なおかつ、そういう現場では千葉さんも違和感を感じることがなかったし、サポートされる側からもどんどん声がかかったということですもんね。

わりと使いやすかったんだと思います(笑)。バイオリンとベースの両方を弾けたというのも大きかったでしょうし。(HEADZ周辺は)好きなアーティストばかりでしたし。もちろん現在一緒に演奏してる、素晴らしくて大好きなミュージシャンたちや、今まで関わってきたミュージシャンも僕にとってはみんな大切な存在です。