1969年にシングル「時には母のない子のように」でデビューして以来、日本の音楽界で唯一無比の存在感を放ち続けているカルメン・マキ。そんな彼女のライブを収めたBlu-ray作品「50th Anniversary Live~デラシネって半世紀~」がリリースされた。
本作には、彼女の音楽人生50周年を記念して、さまざまなジャンルのアーティストを迎えて2019年に行われた「デラシネライブ シリーズ」より5公演の模様を収録。歌と朗読がメインとなる即興ユニットでの演奏や、自身のバンド、カルメン・マキ&OZで活動を共にする盟友・春日博文との共演、インプロビゼーショントリオバンド・Altered Statesとの緊張感あふれるセッションなど、ジャンルの枠を超えたパフォーマンスを3時間半にわたり楽しむことができる。“孤高のボーカリスト”というイメージのままに、特定のシーンに属することなく常に理想の音楽表現を追い求めてきたカルメン・マキ。彼女を半世紀以上もの長きにわたり衝き動かしてきたものとは?
取材・文 / 村尾泰郎撮影 / 沼田学
取材協力 / BLUES and JAZZ add9th
誰もがいつなんどきデラシネになるかわからない世の中
──「50th Anniversary Live~デラシネって半世紀~」には、マキさんが音楽活動50周年を迎えた2019年に行われたさまざまなライブが収録されています。まさに現時点での集大成といった内容ですね。
45周年のときは時代別にミュージシャンをゲストに迎えて、いろんなバンド(OZ、5X、Charバンド)でライブをやったんです。今回は50周年を記念して何か特別なことをやるのではなく、今普通にやっていることを映像に残そうと思いました。
──マキさんの今を切り取った作品でもあるわけですね。マキさんは近年のライブを「デラシネライブ」と銘打っています。「根無し草」という意味を持つ「デラシネ」は、2017年にリリースしたシングルのタイトルでもありますね。
原発事故が起こる前に曲はできていたんですけど、“3.11”で大勢の人が故郷を失ったことを歌詞に結び付けたかったんです。直接そういうことを言ってはいませんが、それを暗示するような歌詞を書きました。私自身、「デラシネ」を作った頃に母を失って1人になったという背景もあるんです。今から思えば、この曲はいろんなことを予知していたような気がしますね。
──今、コロナで大勢の人が孤独や不安を感じています。それ以前から社会的な分断が深まっていましたが、それがコロナで明らかになった。そんな中で「デラシネ」を聴くと、「こういうときだからこそ、ちゃんと自分を見つめなきゃいけないんじゃないの?」とマキさんが言っているように思えるんです。
そういうふうに聴いてもらえるとうれしいですね。だから、あの曲では「どこにでもいるあなた、デラシネ」と歌っているんです。誰もがいつなんどきデラシネになるかわからない世の中ですから。
──1978年に発表したカルメン・マキ&OZの楽曲「私は風」で「風のように自由に生きるわ ひとりぼっちも気楽なものさ」と歌われていたように、マキさんは早い段階で1人で生きていくことを受け入れて音楽活動や人生で実践してきた。そういう人が今の時代に「デラシネ」という歌を歌うからこそ、今孤独を感じている人たちに届くんじゃないかと思います。
伝わればいいですけどね。歌手として、作詞家として、そういうことを伝えたいわけだから。話が逸れますけど、最近はライブをやっても、ちゃんとした感想を聞いたことがないですよね。「カッコよかった」「元気をもらった」「感動した」、これくらいなんですよ。もうちょっと自分が感じたことを言葉にしてもらえると、こちらもやった甲斐があるなって思うんですけどね(笑)。「元気をもらった」って言われても、私は誰かを癒したいと思って音楽をやってるわけじゃないし、私にも元気くださいよって話で(笑)。コールアンドレスポンスじゃないけど、こっちが歌ったことに対する反応があれば、これからもがんばろうって励みになるわけじゃないですか。
音楽の相棒を今もずっと探している
──感動した気持ちを言葉にするのが難しいときもありますが、気持ちを伝えるのは大切なことですね。話を作品に戻しますが、今回のライブ映像を拝見すると、マキさんはさまざまな表現を試みられています。ベテランになると自分のスタイルを貫くアーティストが多いですが、マキさんはそういうタイプではないのでしょうか。
1つのことを追及していくのは素晴らしいことですよね。私はそういうタイプのミュージシャンはいいなって思います。自分のやりたいことに確信と自信があって、しかも、それに共感してくれる相棒を持つ人もいる。でも私はそういうタイプではなくて。それと新しいことに挑戦したいとか、そういう気持ちで音楽やっているわけじゃないんです。
──そうなんですね。
私がやっていることなんて、何も新しいと思わない。自分の可能性を見出したいっていうのはありますけどね。ただ、一緒にやって満足できるミュージシャンになかなか出会わないんです。ある程度やると限界が見えてくる。バンドも何年かやってると解散したりするじゃないですか。そこには人間関係とかいろいろな問題があるんですよね。決してきれいごとじゃない。私は音楽の相棒を今もずっと探しています。
──本作に収録されたライブでも、いろんな相棒と演奏されていますね。桜座の公演ではジャズ畑の伊藤志宏さん(Piano)や永田利樹さん(Contrabass)と共演されていますが、この編成では歌だけではなく朗読も披露されています。
この編成でやるときは、むしろ朗読のほうが多いんです。「朗読と即興演奏と歌も少し」というタイトルでずっとやってきていて。ただ、朗読を映像化するのは難しいから、今回の作品にはあまり入れられませんでした。ライブハウスだとすごく狭い空間なので一体感があってお客さんもお話に没入できるんだけど、映像だと、どうしても観る人に距離感が生まれてしまうんですよね。なかなか集中して朗読を聴けない。
──朗読に合わせた演奏は即興なんですか?
そうです。ジャズミュージシャンの面白いところはそこですね。事前に何も決めないんですよ。だから朗読のときの演奏は毎回違います。その日の感じで、即興でやってくれと。本番で楽器と声と言葉が呼応するわけです。
私にとって歌と朗読は同じもの
──この公演では寺山修司さんの「波の音」という詩を朗読されていますが、マキさんは歌手としてデビューする前、寺山さんの劇団・天井桟敷に在籍していて、当時から詩の朗読をされていました。マキさんにとっては朗読も重要な表現方法なんですね。
朗読は演劇の一部だったし、昔から好きでした。2008年に朗読のCD(「白い月」)を出して、そのときも即興で弾いたピアノをバックに中原中也や萩原朔太郎といった詩人の詩を朗読したんです。そこから離れて違うものを読みたいと思ったときに、やっぱり寺山さんの詩だなと思ったんですよね。
──マキさんのライブでは気が付けば歌が朗読になり、それがまた歌になる。歌と朗読の間に境界がなく、ひとつながりになっているのが印象的です。
私にとって歌と朗読は同じものなんです。どちらも声と言葉のリズムから生まれる。今おっしゃっていただいたように、いつの間にか朗読が歌になったように聞こえるのが一番いいんですけど、なかなか難しくて。でも、最近はかなりできるようになってきました。
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金子マリは戦友、浅川マキはレジェンド