ナタリー PowerPush - 角松敏生
リメイクベストが生まれた理由
角松敏生がデビュー30周年を記念して初のリメイクベストアルバム「REBIRTH 1~re-make best~」をリリースした。この作品は、ファンに人気の高い楽曲、ライブの定番曲などから角松自身がセレクトした10曲を収めた新録ベストアルバム。このアルバムの成り立ちや音楽に向かう姿勢について、角松本人に話を訊いた。
取材・文 / 唐木元 インタビュー撮影 / 佐藤類
自分の歌に自信が持てなかった
──「REBIRTH 1~re-make best~」と題したベストアルバムが先日リリースされました。なぜこういった形で過去、それも1980年代の初期楽曲をリメイクしようと思われたんでしょうか?
動機を一言で言うと、「悔いのあった古いナンバーを今のスキルで演奏して、華を持たせてあげたかった」ってことです。そのあたりはセルフライナーにたっぷり書いてあるので(笑)。
──拝読してきました(笑)。今日はそのあたりをもう少し突っ込んで伺えればと思っているのですが、悔いというのは具体的には、どこに。
とにかく歌ですね。シンガーとしてのスキル。自分で自分の歌を認められない、って状態がデビューからおよそ10年続いたんです。1991年の「ALL IS VANITY」くらいまで。
──アマチュアの頃から、歌に自信が持てないという感覚はあったんですか?
いやいや、アマチュアのときなんて「あいつギターも弾けて歌もうまいんだぜ」とかもてはやされて、俺もそこそこのもんなんだろうなって自分は思ってたわけですよ。
──それがプロデビューして……。
スタジオに入ってちゃんとした機材で録ると、ものすごく細密に聞こえちゃうんです。しかも凄腕のミュージシャンに集まってもらってね、その上にポンと自分の歌が乗ったのを聴いたら「なんて貧弱な歌なんだ!」って。こんなんで自分はいい気になってたのか、ってショックを受けたわけです。
あの頃なりによくやってたなと思う
──納得いくまで録り直すことはできなかったんですか。
そのとき僕21歳だったんですけど、いきなり「はい、そのヘッドホン着けて、そのツマミ上げると自分の歌が聞こえてくるからね」とか言われて、今ならヘッドホン片耳ずらしてピッチ良くしようとかもできるけど、スタジオでの振る舞いなんて全然わからないわけ。当時はレコード会社のディレクターが今で言うプロデューサーみたいな感じでいて、その人が「もう1回」「ここはこう歌って」とか言うから、言われるがままに録って「はいオッケー!」って。
──自分では「なんだかなあ」って思ってるうちに。
「これでいいのかな?」って思ってるのに。そんな状態で1年2年やったんだけど、こんなんじゃ自分の目指すところも目指せないんじゃないかって、結局デビューした事務所の社長とケンカになって、プロダクションを移るんです。
──事務所の移籍で状況は好転しましたか?
新しい事務所の社長は「音楽のことはお前に任せる」って言ってくれて、3枚目のアルバム(「ON THE CITY SHORE」)からはセルフプロデュースにしてもらった。そしたら初めてチャートインしたんだよね。それでようやく、自分がほんとにやりたいようにやればウケるんだ、って自信が付いたんです。アレンジだったりサウンドプロダクション、もしくはどんな最新技術を取り入れたとか、そういうアプローチで聴くなら、あの頃なりによくやってたなって思う。
──トラック面においては、3枚目からは悔いのない仕上がりになったと。
そう。ところが一方で、プロデューサーとしての自分にとって、ボーカリストとしての自分はほんとに認められたもんじゃなかった。ずいぶん試行錯誤したんだけど、結局納得できるものにはならなくて、最終的にダブルボイス(※複数回の録音を重ねて、声に厚みを出すこと)ってやり方で、なんとか自分のボーカルコンプレックスをごまかしたんです。
歌のうまい人が歌うべきメロディを書いていた
──ただ、2枚目まではメーカーの言いなりだったということですが、ソングライティングは全部角松さん自身が手がけていたんですよね。
それはね、僕がデビューしたRVCってレコード会社は当時、第3制作っていう部署から山下達郎さんとか竹内まりやさんが売れてて、新進気鋭のニューミュージックなんて言われて勢いがあったんだよ。それで第1制作は演歌、第2制作は歌謡曲の部署なんだけど、その第2制作が「うちも第3みたいなことやろうぜ」って担ぎ出したのが、僕なんです(笑)。
──芸能の人たちが、ニューミュージックみたいなものをやってみたい、と。
だから曲は僕の曲を使うことになった。けど歌謡曲の部署の人たちだからさ、アーティストが表現として作曲し演奏するっていう本質的なところはあんまりわかってないというか、第3制作的な手法ではなかったんだ。僕に実力があろうがなかろうが、こうすればよく見えるもんだ、みたいなやり方で売り出されてしまって。
──シンガーソングライター風に見せかけたアイドルなんじゃないかと。
そういうムードを自分でも薄々肌で感じてたんだと思う。
──ソングライティングについてはどうですか、今聴き返すと。
歌唱力ない奴にこんなメロディ歌わせるなよって感じ。これ歌のうまい人が歌わなきゃいけないメロディでしょ、みたいなのを書いていて、無理があると思う。当時はよく、インストみたいな曲書くねって言われたんだよね。
──それは音飛び(離れた音階への移動)が多いとかそういうことですか?
全体的なストラクチャとして、かな。まあ音飛びも1オクターブとか普通にありましたし。でもそれが1オクターブなのか5度なのか適当だったりするんですよ。そういうのもちゃんとまとめて、本当はどうしたかったんだお前、っていうね。
──決着を。
決着をつけるっていう。「この少年は本当はどうしたかったんだろう」って、当時まとめ切れなかったものを、もう一度さかのぼってやってあげる、そういうアルバムです。
CD収録曲
- Do You Wanna Dance
- Tokyo Tower
- Girl in the Box ~22時までの君は…
- RUSH HOUR
- A Widow on the Shore
- SUMMER EMOTIONS
- Wave
- No End Summer
- After 5 Crash
- あるがままに
※初回生産分にはプレミア特典応募券封入
角松敏生(かどまつとしき)
1960年生まれの男性ミュージシャン/音楽プロデューサー。1981年に歌手デビューを果たし、シティポップ的な心地よいサウンドが多くの音楽ファンから高く評価される。また、他アーティストのプロデュースも積極的に行っており、杏里「悲しみがとまらない」や中山美穂「You're My Only Shinin' Star」など、数々のヒット作を生み出している。90年代前半までは年間100本近いコンサートを積極的に敢行。しかし、1993年1月に自らのアーティスト活動を凍結してしまう。その後はプロデューサー業をメインとして活動。1997年にNHK「みんなのうた」のために制作した「ILE AIYE(イレアイエ)~WAになっておどろう」が大ヒットを記録し、翌1998年の長野冬季オリンピック閉会式でも披露されている。この年の5月には音楽活動の凍結を解き、以後ライブやリリースなど精力的な活動を続けている。