笑福亭鶴瓶の「無学 鶴の間」|鶴瓶がシークレットゲストと共に送る生配信番組を徹底レポート。第23回ゲストは石原良純。 (3/24)

「無学 鶴の間」第2回レポート

笑福亭鶴瓶×原田伸郎(2022年6月4日配信)

今「ネコニャンニャンニャン」で“バズっている”原田伸郎を呼びたい

大阪の帝塚山にある「無学」を舞台に、笑福亭鶴瓶がU-NEXTで生配信する新番組「無学 鶴の間」。その第2回目が、6月4日に開催された。

会場の「無学」とは、鶴瓶の師匠・六代目笑福亭松鶴が住んでいた家を、松鶴が亡くなったあとに鶴瓶が買い取って寄席小屋として改装した場所のこと。鶴瓶は、この日、こんなことを話していた。

「ここを買うたけど、その人(師匠)のいろんなものを展示するのは嫌だった。ここをずっと使える方法はないかと考えたら、寄席とかホールにして、ゆかりのある人を呼んでライブするのがいいと思った」

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

その思いが、23年前にはじめた「無学の会」だった。毎回ゲストを招き、ここに足を運んでくれたからこそ味わえる面白さや感動を共有していきたい。それが、「ここ」を受け継ぎ、「ここ」が生き続ける方法だと鶴瓶は思ったのだ。

「無学の会は、1999年の6月26日から始まっているんです。その初回は2日間連続でやって、その2回目の会にこの方に来ていただいているんです。だから23年ぶりなんです。原田伸郎さんです」

「無学 鶴の間」の2回目のゲストに鶴瓶が招いたのは、「あのねのね」の原田伸郎だった。1973年、清水国明とのフォークユニット・あのねのねでデビューし、数々のヒット曲を出しながら、テレビ、ラジオで活躍してきた原田伸郎は、実は、鶴瓶とは京都産業大学の同級生。しかも、彼らが79年に発表した歌「ネコニャンニャンニャン」が、今、再び、TikTokを中心に若い世代の間で“バズっている”とあって、鶴瓶は「今、伸郎を呼びたい」と考えた。

「誰を呼ぼうと思った時に『あ、伸郎、バズっとるな』と。23年前もそうですよ、無学の会をやり始めて、右も左もわからんときに、であれば、伸郎を呼ぼう、と。おまえも、ようバズってくれたなあ!」と鶴瓶。それが奇しくも、「無学 鶴の間」としても2回目の配信となったのだ。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

鶴瓶 伸郎とは大学の連れなんですよ。芸能界同士で知り合った連れではないもんな。

伸郎 そう、最初に知り合ったのは、京都大学産業学部上賀茂分校。

観客 (笑)

鶴瓶 (観客に向かって)ちょっと何がおかしいんですか? おい、伸郎、もういっぺん言ったっれ!

伸郎 京都大学、産業学部、上賀茂分校。

鶴瓶 ぶんこ? うんこ?

伸郎 分校や。うんこやあらへん。あれは京都大学の分校や。みんな勘違いしてそう覚えていたんですよ。そう思ってないとやってられへん。

鶴瓶 ワハハ!


大学時代からの付き合いである2人の「間」は、友人同士の会話ならではの、阿吽の呼吸で進んでいく。自然と、話は、2人の出会いのときへとなっていった。

あのねのねのバックダンサーをやっていた鶴瓶

鶴瓶 オモロい大学やったで。こうやって知り合ったわけですから。

伸郎 僕は落語研究会に入りたかったんです。それで「説明会がどこどこの教室であります」って掲示板に出てたから、その教室に行ったら、落語している先輩がおった。その落語を聴いていたんですよ。面白いんです。ワーッてみんな笑ってるんですよ。そしたら、その落語をしてた人が降りてきて僕らが座ってる席につくんです。なんでこの人先輩なのにここに座ってるのかなと思いながらも、「1年生の原田と言います」と挨拶したら、この声で、「いや、俺も1年生」って。大学1年生のときから鶴瓶はこんな声だったんですよ。「え、1年生? 一緒!?」って。

鶴瓶 ワハハ!

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

伸郎 教室の先生の机の上に座って落語したんですよ。1年生がそんなことします? なんで1年生なのにそんなことしてたの?

鶴瓶 みんながじーっと待ってるのが耐えられへんねん。誰か出て行ってしゃべったらええのに。耐えられへんの、そんなの。俺、そういう病気やねんて。“脱抑制”。あかんことしてまうっていう病気。聞いたらあかんことを聞いてしまうとか。今は抑えてますよ、薬で。

伸郎 薬飲んでんの?

鶴瓶 うそ、うそ(笑)。

伸郎 違うやろ。

鶴瓶 あかんということをやってしまうねん。そのときも、みんな待ってるだけだから、誰かなんかやればええのになと思って、それで俺が落語した、と。「出ろ、出ろ」って言う誰かが自分の中におんねん。「出なあかん」って。それが脱抑制やねん。

伸郎 我慢できんわって行ってしまうの?

鶴瓶 そうや。あそこが高座に見えたんや。お前もあるやろ、そういうの。

伸郎 あのねのねで学園祭にゲストに呼ばれるんですよ。校長先生がすごく厳しい人で、「絶対下ネタはやめてくださいね」と言われるんです。僕が作る曲は真面目な曲もあるけれど、下ネタも作ってしまうんです。周りの先生からも「下ネタは絶対やめてくださいね」って言われるんだけど、下ネタばかりをやってしまいたくなるんですよ。

鶴瓶 それが脱抑制や!

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

互いがまだ芸能界に入る前の、何者でもない時代のことを知っているということは、2人にとってかけがえのない宝のようなものなのだろう。鶴瓶はその後、大学中退し、六代目笑福亭松鶴の元へ弟子入り。鶴瓶がアルバイトをしていた旅館に伸郎が代わりに入り、その旅館で、同じく京都産業大学の1年先輩だった清水国明と出会ったことが、あのねのね結成のきっかけとなる。

「鶴瓶が清水さんとの出会いを作ってくれた」と伸郎。結成初期は、当時、鶴瓶がお付き合いしていて、のちに妻となる玲子さんも参加していたこともあり、「鶴瓶はバックダンサーやってた」と伸郎は笑う。その後、あのねのねはすぐに人気者となり、東京進出を果たし、テレビ、ラジオなどで大活躍。


鶴瓶 あのねのねに自分も一瞬おったということも、うれしかったね。

伸郎 あのねのねが先に売れたんですよ。

鶴瓶 めちゃくちゃ売れてた。

伸郎 鶴瓶はまだ修行中やったな。

鶴瓶 そうそう。

伸郎 それで、僕らが「うわさのチャンネル」という番組に出てて、プロデューサーに赤尾さんという方がいるんですけど、その人に「僕らの何倍も何十倍も何百倍もオモロい奴がおる。それは鶴瓶です!」と言ったんです。

鶴瓶 その頃ね、そんなこと言ったってわからへんやん。それで赤尾さんに呼ばれたんや。「あのねのねが言うてるけど、お前、どこがオモロいねん」て(笑)。

伸郎 (笑)

鶴瓶 自分のオモロさを証明するのって、でけへんやん。

伸郎 どうしたの? そのとき。

鶴瓶 そんでパンツ脱いだんや。

伸郎 それしかなかったん!?

原田伸郎が歌声を披露「鶴瓶との同窓会みたい」

大学時代のヤンチャな思い出話から、鶴瓶と玲子さんとの恋愛話まで、2人の話を聞いていると、そのエピソードに笑いながらも、誰もの中にあっただろう青春のひと時をふと思い出してしまう。それも、互いが、大学時代からの繋がりを今も大切にしていることが、話の節々から伝わってくるからだ。


伸郎 鶴瓶とずっと一緒につるんでたのは2年くらいでしょ。

鶴瓶 ほんま、それがこんなに濃いんやもの。なんの利害もない、若いからこその熱い出来事もあったし、すべて今に至っている。

伸郎 友達って、あるとき、グワーッと仲良くなっていくんだけど、あるとき、ピタッと止まってしまうことがある。でも鶴瓶はずっといつもいるんですよ。

鶴瓶 「縁は努力」って、俺はそう思うのよ。コロナなんて特にそうよ。コロナの時期に連絡しなかったら、一生連絡しなくなる。だから定期的に、「どないしてるねん」ってこちらから電話するもん。

伸郎 よう電話してくれるんですよ。

鶴瓶 高校の連れもそうですし、幼馴染もそうですし。だから全然途切れてない。

伸郎 やっぱり大事にしてるよな。

鶴瓶 俺自身が自分を大事にしているからそうなんやろうと思うよ。兄弟もそうやし、繋がりっていうのはすごく大事やね。


そして、こう話す。

「この世界に入って、ずっとお互い現役を続けている。70歳やで。古希ですよ。古希で、ここでこうしてやれるっていうことは、これほど幸せなことないですよ」

まだまだ何時間でもしゃべれそうな2人だったが、あっという間に1時間以上が経っている。「じゃあ、今日は『ネコニャン』を実際にやってもらいます」と鶴瓶。伸郎はギターを持ち出し、デビュー曲であり、大ヒットした「赤とんぼの唄」や、「さんぽの唄」「ツルツルのうどんの唄」「歯医者さんの唄」など、コミックソングを立て続けに披露。横に座って笑いながら聴いていた鶴瓶もカウベルを持ってリズムで参加し、「魚屋のおっさんの唄」「氷屋のおっさんの唄」「時計屋のおっさんの唄」を盛り上げていく。

原田伸郎

原田伸郎

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

そして、バズった「ネコニャンニャンニャン」。

「TikTokでは短いですが、その前にちゃんと歌詞があるんです。この歌詞がね、ひょっとして今のご時世に合ってるんじゃないの、という歌詞なんです。『こんな地球にゃ住み飽きた』というところから始まるんです」

軽快なテンポで言葉を重ねていく伸郎。ネコ、イヌ、カエル、アヒルと、動物たちが力を合わせて現状を突破していこうとする歌詞に、動物たちの鳴き声がリズミカルに乗り、あらためて、この曲が当時、子供から大人までウケた理由がよくわかった。

「これ、いい歌よ、ほんまに」と鶴瓶。

「この頃はちょっとテンポが速いなと思ってたんですよ。でも今の歌のテンポに遅れてないの。43年前の歌なんやけど。だからこの頃に、この速さでやっておいてよかったなと思った」と伸郎。

大きな拍手に、これにて大円団かと思いきや、「鶴瓶、まだ時間あるの?」と切り出した伸郎が続けて話し出したのは、2001年に亡くなったシンガーソングライター・河島英五のことだった。あのねのねにとっても、鶴瓶にとっても、一緒に活動をともにし、ツアーをともにまわった、公私ともに特別な存在だったのが、「酒と泪と男と女」や「時代おくれ」など多くの名曲を残した河島英五だった。

「まさかあんな若くして死ぬとは思わなかった。48歳で亡くなった」と伸郎。

「すごい泣いたな」と鶴瓶。

「最後に」と伸郎は、河島が「あのねのね」のためにつくった歌「青春旅情」を用意していた。河島がレコーディング用に1人で歌っている「青春旅情」の音源が残っていたといい、その音源に合わせて、「英五と僕と鶴瓶と3人で歌ってみたいと思います」と伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

河島英五の歌声が無学に響き、そこに伸郎と鶴瓶がそれぞれの歌声を重ねる。「青春旅情」のメロディと歌詞が、若い頃の思い出とともに、3人の声を通して、今に甦った。

温かい拍手に会場が包まれた。「鶴瓶との同窓会みたいやったな」と伸郎が心からうれしそうな顔をすると、鶴瓶もまた同じようにうれしさに溢れる顔をしてうなづいた。互いに、ともに重ねてきた時間を慈しむようだった。出会って52年、「無学 鶴の間」2回目のゲストは、鶴瓶の大学時代の同級生であり、互いに芸能の場で様々な活躍を続けながら、「あのねのね」として、ソロとして、音楽活動を続ける、原田伸郎──。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。

笑福亭鶴瓶と原田伸郎。


原田伸郎

原田伸郎

第2回(2022年6月4日配信)
笑福亭鶴瓶×原田伸郎

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プロフィール

笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)

1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。

原田伸郎(ハラダノブロウ)

1951年10月1日生まれ。京都府出身。大学在学中に清水国明と「あのねのね」を結成。1973年「赤とんぼの唄」でデビューし、テレビ、ラジオなどで活躍。2004年からは「原田頌朗」名義で、書道家としても活動を始める。令和に入り、TikTokで1979年発表の「ネコニャンニャンニャン」のフレーズが若者の間でバズり、原田自身もTikTokで短いセンテンスで笑いをつくるギャグソングを1日1曲投稿している。

2024年4月22日更新