中山美穂 with 高田漣|20年ぶりのアルバムに込めた歌手としての覚悟

中山美穂が12月4日に約20年ぶりとなるニューアルバム「Neuf Neuf」をリリースした。

1985年にシングル「C」でアイドル歌手としてデビューしたのち、女優として大成する一方で、バラード「ただ泣きたくなるの」やWANDSとのコラボ曲「世界中の誰よりきっと」などアーティストとしても数多くのヒット曲を残してきた中山。1990年代にはセルフプロデュースでアルバムを制作するなど意欲的に音楽活動を続けていたが、1999年発表のシングル「Adore」およびアルバム「manifesto」を最後にアーティストとしての活動は途絶えていた。しかし、この20年の間にも彼女の中で「音楽を届けたい」という思いが消えていたわけではなかった。

音楽ナタリーではメジャーデビュー35周年を機にリリースされた「Neuf Neuf」の特集を展開。中山のほか、収録曲のアレンジをすべて手がけた高田漣にも同席してもらい、本作で2人がタッグを組むこととなった経緯や中山の音楽活動に対する並々ならぬ覚悟についてじっくりと語ってもらった。

取材 / 臼杵成晃 文 / 寺島咲菜 撮影 / 塚原孝顕

レコーディングは浦島太郎みたいな気分

──約20年ぶりにアルバムを出すことになった経緯はなんだったのでしょう。やはりデビュー35周年がきっかけに?

中山美穂 そうですね。何から話したらいいか……ファンの方々に歌声を届けたいという気持ちはずっとあったんですけど、なかなか環境が整わなくて。個人的には曲を作ったり自分のバンドを集めて定期的にリハーサルをしたり、地味に活動はしていたんです。そんな中で私が音楽が好きということを知ってくれていた浜崎貴司さんから「今度ライブをやるからゲストで出ない?」と誘われて出演して(参照:浜崎貴司弾き語り対バンツアーに中山美穂、和田唱、LOVE PSYCHEDELICO)。そのライブを観てくださったレコード会社の方から新作を出そうと声をかけてもらいました。

──高田さんは中山さんのこれまでの活動についてどんな印象を持っていましたか?

高田漣 小学校高学年くらいの頃からテレビ番組を通じてその活躍を存じていたんですけど、美穂さんが女優とアーティスト活動を両立なさっていた1990年代に、僕は音楽業界に出入りするようになって。ただその頃はフリージャズばっかり聴いていたので、当時のポップスがまったくわからないんですよ。レコーディングにあたって美穂さんからいろいろお話を聞いて勉強し直しました。

──高田さんにアレンジを依頼した狙いはなんですか?

中山 今回ご一緒するまで高田さんの音楽は存じ上げなかったんです。アルバムの打ち合わせで「例えば高田さんはいかがですか?」とレコード会社の方に提案いただき、高田さんの作品を聴いたら「もう絶対そう!」とピーンときちゃったんですね。私が次に音楽をやるならこういうイメージ、というのをそのまま音で聴いちゃった感覚で。新しさの中にどこか懐かしさがあるというか。

高田 僕としては意外でしたね。自分の音楽性と思い描いていた中山美穂像が全然つながらなかったので、間違えてオファーが来たんじゃないかと(笑)。でも美穂さんの過去の作品をいろいろ聴かせていただく中でようやく少しずつ合点がいきました。最終的には制作過程での美穂さんとのコミュニケーションを通じてようやく腑に落ちたというか、自分がやるべきことが明確になった気がします。

──90年代に発売された中山さんのアルバムは、当時クラブで局地的に人気の高かったソウル / R&Bの最先端を取り入れていて、今聴くとクオリティの高さに驚きます。のちに宇多田ヒカルさんやMISIAさんの活躍で全国的に広まったシーンを思い切り先取りしていたとも言えますけど、しかもそれがセルフプロデュースだったという。国民的ヒットの裏側で好き放題やってるなという印象なんですよ。

左から中山美穂、高田漣。

中山 あはは(笑)。自由に作らせていただいていました。

──新作「Neuf Neuf」もご自身が中心になりつつ、サウンドプロデューサーとして高田さんを迎えた格好ですよね。ひさびさのアルバム制作はいかがでしたか?

中山 作業にはごく自然に向き合えましたね。ただレコーディングに関してはかなり戸惑ってしまい、1人で悪戦苦闘していました(笑)。まず私の知っているスタジオ環境とまったく違っていたので。

高田 ここ20年で特に録音スタジオの環境が変わったと思うんですね。美穂さんが最後にレコーディングした頃はまだテープというメディアが主流で、スタジオには大きな卓があっていろんなエンジニアがいて、いざ録音した歌を聴くときにはテープを巻き戻す時間があった。それが今の環境になると、卓もないわ、すべてダイレクトで音源を聴けちゃうわっていう。このギャップは美穂さんの中ですごく大きかったのかなと。

中山 肌触りや温もりが違うというか、初めての感覚でした。レコーディングの終盤でやっと慣れてきましたね。

高田 僕は最初その美穂さんの戸惑いに気付かなくて。浦島太郎みたいな気分だとおっしゃってたけどその通りだと思います。作業については、できあがったアレンジを美穂さんに共有してその都度作り変えたり、美穂さんから歌詞の原型みたいなものをいただいてそこに曲をつけたり、いろんなプロセスがありました。

左から中山美穂、高田漣。

柴田くんの曲で涙が出ちゃった

中山美穂 中山美穂

──1曲目の「時計草」はヒップホップのようなトラックで冒頭1分ほど中山さんの声が出てこないので「間違って別の音源が届いたのかな……」とハラハラしました(笑)。

中山 そうそう(笑)。

──この曲は中山さんが歌詞、高田さんが曲を担当されていますが、どのように作り上げていったんですか?

高田 まず美穂さんから歌詞のもとになるような言葉をいただいて。その定型詩になっていないような言葉が面白くて、なんとなく自分でギターを弾いて作り始めました。そのときに美穂さんから追伸で「歌詞を大幅に書き換えたい」という連絡があったんですけど、このままで絶対いいものができるという確信があったから「ちょっと待ってくれ」とお願いして。翌日にできあがったデモテープを送ったら美穂さんに気に入ってもらえました。そのあとに歌詞は調整しましたが、基本的にはイノセントな要素が肝になっています。

──歌詞のイメージは中山さんの中に明確にあったんですか?

中山 時計草の花が気になっていて、いつか時計草を題材にした歌詞を書いてみたいと思っていました。作詞をすること自体は好きなんですけど、昔に比べると言葉が出てこなくなったと感じます。音楽では明確なメッセージを示したくないというか、言葉に意味を持たせたくなくて、歌詞が書けなくなってきたのかなと。この歌詞に関しては時計草のイメージのみをとにかく表現しようとしました。

──3曲目の「君のこと」は柴田隆浩(忘れらんねえよ)さんの提供曲です。この人選には驚きました。

中山 柴田くんとはたまたまご縁があって。「今度、曲書いてくれる?」とお願いしたら「いいですよ」と言ってくれていたんです。それは社交辞令ではなく、すぐに書いてきてくれたんですよ。すごくいい曲で涙が出ちゃいました。リリースする予定もなく書いていただいたので、いつか日の目を浴びさせてあげたいなと思っていて、今年の浜ちゃん(浜崎貴司)のライブで弾き語りしたんですね。それを聴いたレコード会社の方から「アルバムに入れましょう」とご提案いただきました。

──中山さんと柴田さんという足し算にアレンジで正解を出すのは難しそうですよね。

高田 打ち合わせの段階で美穂さんが「ザクザクした音」とおっしゃったので、フォークロックみたいなものを求めているんだろうなと。アコースティックギターがベーシックにあるロックをひさしくやっていなかったので、楽しんでアレンジしました。この曲は比較的すぐに完成してしまったというか、美穂さんが近年ずっと歌っていたことが功を奏したのかなと思います。

──4曲目「カーテンコール」は高田さんが作編曲のみならず作詞も手がけています。高田さんが思う中山美穂像ということでしょうか。

高田 せっかく美穂さんが歌うなら、お芝居をイメージした歌詞がいいなと思って。どちらかと言うと歌詞に重きを置いて作りました。自分が歌う前提で作詞作曲していると、ちょっと恥ずかしいなと思う言葉は避けてしまうんですけど、他人だったらある意味無責任になれるというか(笑)、自分のための曲よりも表現が自由になるんですよね。美穂さんがこういうのを歌ったらいいんじゃないかと思う歌詞にしてみました。

中山 いい意味で力が抜けていてすごく意外ではあったんですけど、歌うとしっくりきましたね。