平野友里「MusicBox」特集|ゆり丸の波乱万丈なアイドル人生を振り返る1万字インタビュー

ゆり丸こと平野友里のフルアルバム「MusicBox」がCDリリースされた。

2012年結成のTAKENOKO▲を皮切りに、グループやユニット、そしてソロなどさまざまな形態を経ながら10年超にわたりアイドル活動を続けているゆり丸。紆余曲折がありながらもライブ活動を欠かすことなく、活気にあふれていた2010年代のインディーアイドルシーンを駆け抜けた彼女は、2022年よりソロ活動第2期に入り、現在もハイペースに新曲をリリースしている。

「MusicBox」は約2年間におよぶソロ活動第2期の集大成となる作品で、10名のクリエイターを招いてロック、ヒップホップ、ポップス、テクノなどさまざまなジャンルの楽曲が制作された。

音楽ナタリーではアルバムの発売に合わせ、ゆり丸にインタビュー。自らも波乱万丈だったと振り返るこれまでのアイドル人生を総括しつつ、その中で得た人とのつながりが結実したアルバム「MusicBox」についてたっぷりと話を聞いた。

取材・文 / 南波一海撮影 / はぎひさこ

どんなときもファンの方や周りの人に恵まれていた

──フルアルバム「MusicBox」は、ゆり丸さんの歴史と結び付いている作品だと思うので、キャリアを振り返りながらお話をうかかがっていきます。今回のアルバムを「ソロ活動第2期の集大成」と謳っていますよね。

はい。後付けでそう言い出したんですけど(笑)。

──TAKENOKO▲解散後のソロ活動は第1期だったんだという(笑)。もともとはソロとして活動する予定もなかったんですよね。

そうなんです。TAKENOKO▲が解散したあと、仲のよかった子と2人で活動していくことになっていたんですけど、プロジェクトを進めていく中でその子が別の道に進みたいということで、活動できなくなっちゃったんです。その時点で曲も制作していたし、衣装も2人分できていたので、とりあえず1人で始めてメンバーを募集しながら活動していこうと決めたんですけど、結果的にソロでやることになりました。ソロは3年近くやりましたが、いろいろあって終止符を打つことになりまして。なので、改名前の篠原ゆり時代から第2期TAKENOKO▲までを一応、ソロ第1期ということにしています。第2期は、2年前の10周年ライブでソロとしてパフォーマンスすることになったのが始まりで、せっかくファンのみんなに観てもらうならオリジナル曲も作って披露しようと思ったんですね。その日限定で。

──あくまで1日限りのお祝いの企画だった。

そうです。ソロ第1期が終わった当時は、もうソロとしての活動はしないと思っていたんですよね。でも、10周年のときにいろんなクリエイターさんが関わってくれたし、丸推し(ゆり丸ファンの呼称)のみんなからも「ソロいいじゃん」という声をたくさんもらえたんです。私自身も本当に楽しかったので、もうちょっとやってみようかなと思ったのが続けるきっかけになりました。それで、10周年の日からこのアルバムまでを第2期と銘打ちました。

平野友里

──振り返ってみると、ここまでかなり波乱万丈でしたよね。TAKENOKO▲の第1期は1年半ほどで解散しました。もっと長く続けたかったのではないでしょうか?

はい。当時、事務所が私を女優にしたかったのもあって、大人同士で揉めたりもして続けられなかったんですけど、本音を言うと続けたかったし、今でも人生で一番後悔したことを聞かれたら、TAKENOKO▲の解散を選んでしまったことだと答えます。

──キャリア初期に今でも後悔するほどの挫折があったと。その後、半ばなし崩し的にソロ第1期に突入するものの、紆余曲折あって、オリジナル曲を封印することになりました。当時の曲の中では「だから言ったでしょ変えられるって」は今でも歌っていますね。

あの曲は例外で、作ってくださった三浦太郎さんが「好きに歌っていいよ」と言ってくれたんです。振り返ってみると確かに波乱万丈だと思うんですけど、どんなときもファンの方や周りの人に恵まれていたなと思いますね。運営さんとはちょっとうまくいかないこともありましたが(笑)。

いろんな経験をさせてもらったからこそ、あきらめきれない

──ソロを始めた2015年頃はインディーズのアイドルシーンも活発で、ゆり丸さんはとんでもない本数のライブをこなしていたし、コラボユニットもたくさんありましたよね。

エムトピ(みきちゅ、泉茉里、平野友里)とかシャオチャイポン(KOTOと平野友里)とか。あの頃の活動で得たものは大きいです。ソロになったばかりの私には何もなかったから数で勝負しようと思って、年間200本ライブをやってたんですよ。あの武者修行期間があったからこそ今の自分があると思ってます。すべての経験がなかったら今の自分はないなと、10周年を迎えたときに心から思いました。

平野友里

──しかし、武者修行にもほどがある数ですよね。

大変でした(笑)。1日3本ライブした翌日に茨城に行ってミュージックビデオを撮影するとか。体力的にもそうですし、例えばクラウドファンディングの内容とか、運営的な面もいろいろと教えてもらいながら考えて動いていたので、そこも勉強でしたね。でも、当時はアイドルシーンがそれだけ活気付いていて、どのライブに出てもお客さんがたくさんいました。スカスカのライブはほとんどなかったです。やっぱりオタさんの数はあの頃から減ってますよね?

──2010年代後半は徐々に減っているなという印象はありましたけど、やっぱりコロナ以降は激変しましよね。以前はフリーライブとかワンコインライブも毎日のようにあって、それにも大勢が集まっていたわけで。

あったあった! 私のお客さんもだいたい他界しちゃいました(笑)。推し変よりもオタクをやめちゃった人が多いです。

──いい時代を知っていて、その状況が変わっていく中でも続けてこれたのはタフだと思います。

TAKENOKO▲でいろんな経験をさせてもらったからこそ、正直、あきらめきれない部分もあるんですよね。どこかで報われることを期待しちゃっているし、また大きいステージに立ちたいという思いが消えないんです。長く活動していると、卒業していったアイドルさんも周りにたくさんいるけど、自分は過去の経験があるからこそずっとあきらめられないままなのかもと思ったりします(笑)。

──ああ、それはあるのかもしれないですね。逆に、大舞台を経験していない下の世代ほど、見切るのが早いというか。

若い人は判断が早いですよね。私は逆に、自分がどうしたら納得いくのかなって考えていました(笑)。私は大学も行ってないので、歌って踊ることしかできないんですよ。誰かの人生でちょっと悲しいことがあったときに、忘れられる瞬間があるといいなと心から思うし、だからこそずっとライブをしていたいんです。自分のためにも、みんなのためにもライブをしたいという思いが強い。でも、最近はただライブがしたいと考えるだけではダメだと思っていて。ソロアイドルにとって厳しい時代だからこそ、ソロが輝ける場所を作れたらいいなという目標ができたんです。

平野友里

──そういう指針があるのはいいことですよね。

このイベントに出たいと思って営業してみても、「うちはソロやってないんで」ってハナから言われちゃうこともあるんですよ。

──ゆり丸さんがどうとかでなかく、ソロは集客がないとみなされていると。

たぶん、イベンターさん的にメリットがないと思われているんですよね。そういう壁にぶち当たって、なんで最初から拒否されなきゃいけないんだろうと思ってしまって。こっちからしたら、オープニングアクトでもいいから出させてほしいという気持ちなのに。

──10年以上やってきてもなおオープニングアクトで。

全然やりますよ! 今のソロ不遇の状況を変えたいのと、ソロアイドルを集めたユニットを自分で手がけられたらいいなという目標もあります。要はエムトピなんですけど(笑)。当時は2人のお姉ちゃんにおんぶに抱っこでついていく感じでしたが、自分で改めてやってみたいなと思ってます。