ナタリー PowerPush - THE YELLOW MONKEY

徹底座談会で明かされる新事実とそれぞれの“1曲”

「ここまで行くと、次がしんどいだろうな」

──1997年には初のアリーナツアー「FIX THE SICKS」も行っているし、バンドの規模が大きくなると同時に新しい試みも多い時期ですよね。

結城 そうですね。宗清さんの前で言うのはアレなんですけど、それまでは宗清さんの保護下にいたと思うんですよね、ある意味。(レコード会社移籍後は)親元から自立するじゃないけど、「自分たちだけでやれるんだ」っていう気持ちもあったんじゃないかなって。

高橋 うん、たぶんそういう感じですよ。

結城 あと、「難しい曲でも、きっとみんなわかってくれるはず」っていう気持ちだったり。「球根」だって、難易度が高い曲じゃないですか。あのあたりもきっと「やったことがないことをやりたい」っていうことだったんじゃないかな。自信もあっただろうし。

──実際、「球根」で初のシングル週間ランキング1位を獲得するわけですからね。その後7枚目のオリジナルアルバム「PUNCH DRUNKARD」が1998年3月にリリースされます。いろいろな意味でターニングポイントになったアルバムだと思いますが、あの作品についてはどんなふうに捉えていますか?

宗清裕之

宗清 たまたまイギリスにいたときにサンプルCDをもらったんだけど、「すごいアルバムだな。極めちゃったな」と思いましたね。日本のロックバンドが目指してきたこと、洋楽との折り合いの付け方を含めて行くところまで行ったな、と。

高橋 よかったですか?

宗清 僕は大好き。とにかく完成度が高いですよね。

結城 キリキリに巻き上がってる感じというか。

宗清 うん。同時に「ここまで行くと、次がしんどいだろうな」と思いましたけどね。全然遊びが感じられないアルバムなんですよ。アマチュアっぽさがないというか。コロムビア時代はね、まだどこかにアマチュアっぽさが残ってるんです。「まあ、いいか」みたいな(笑)。

「PUNCH DRUNKARD」の頃はみんなヘコんでた

高橋 年齢的なこともあると思うんだけど、「PUNCH DRUNKARD」のあたりって、みんなでヘコんでた印象があるんですよ。僕も有賀さんも含めて、みんな揃って鬱になっちゃったっていうか。これもよく覚えてるんですけどね、ロンドンで「球根」のビデオ撮影をしてるとき、有賀さんが「自然体か、そうじゃないのかわからないんだけど、どう思う?」って「PUNCH DRUNKARD」のテープを持ってきたんですよね。それをホテルの部屋で聴いて。

有賀 突き詰めていくにしてもTHE YELLOW MONKEYのよさはここなのか?と思ってて。(1997年の)フジロックでの敗北感は、吉井さんもよく言ってるじゃないですか。

結城 そうですね。

有賀 「SICKS」で行くところまで行って、幸福な時間があって。そのあとのギアチェンジがなかなかうまくいかなかったのが、「PUNCH DRUNKARD」という気がする。トップに立ったと思ったら、RAGE AGAINST THE MACHINEみたいなガツン!とくるようなサウンドを意識するようになって、それが次に見えた風景だったんだけど、100%対応するのが難しかったのではないか、と。なおかつ「セールスも100万枚を目指す」みたいなことだったり、1つひとつの課題が大きすぎたのもあっただろうし。たぶん自然体でいるのは無理だったというか……うまく言えないんだけど。

宗清 有賀さんの言ってることはよくわかります。メンバーもいい年齢になってきて、あのまま続けるのは大変だったと思うんですよ。ポップスターであり続けることのしんどさというか。

幸福な記憶とキツかった印象が入り混じってる

──1998年の全国ツアー「PUNCH DRUNKARD TOUR」の影響も大きいですよね。

有賀 113本ね。

結城 どこで観てもだいたいいいライブだったんですよ。でも体力的にも精神的にも大変だったろうなとは思いますね、やっぱり。

宗清 後々メンバーが語ってるんだけど、プライベートな部分も含めてしんどくなってきてたのは確かですよね。だけど、行くしかないからね。「じゃあ、ちょっと休みますか」っていう選択はないわけで。

高橋栄樹

有賀 試練のときだったのは間違いないですよね。

高橋 幸福な記憶と「キツかったな」という印象が入り混じってるところもあるんですよ。「PUNCH DRUNKARD」には「LOVE LOVE SHOW」と「BURN」も入ってるし、結局一番よく聴いたアルバムなんですよね。

結城 私もすごく好き。

いろいろとトライした「8」期

──では「8」(2000年7月発売の8thアルバム)はどうですか?

有賀 「8」は最高。「あれは吉井さんのソロアルバムだ」って嫌う人もいるみたいだけど、演奏はTHE YELLOW MONKEYらしさが詰まってると思う。ホットかクールか、と聞かれたらどこかクールなアルバムだけど。

高橋 僕も最高だと思う。

有賀 あとね、吉井さんはいまだに「『SPRING TOUR』(2000年春、アルバム『8』のリリース前に行われたアリーナツアー)はよかったでしょ?」って言うんですよ。「PUNCH DRUNKARD」でもがいてもがいて、その結果新しいTHE YELLOW MONKEY像を作れたのがあのツアーだったんじゃないかなって。それ以上続かなかったのはなぜだろう?というのは、まだ答えが見つかってないんだけど。

──朝本浩文さん、森俊之さん、笹路正徳さんなど、外部プロデューサーとのコラボレーションを重ねた時期ですよね。

結城 いろいろとトライしてみるけど、思ったほどの変化が生まれてなくて「もっと何かあるはず」って感じてたんじゃないかな。なんていうか、ちょっとずつ空回りしてる印象はありましたね。

宗清 たぶん意識の変化もあったと思うよ。「FOUR SEASONS」までは見えてる景色が新鮮なんだけど、売れてくるとそれが日常になるじゃない? そうなると感覚がおかしくなっていくんですよね、いい意味でも悪い意味でも。世界のどんなバンドもそうだと思うけど。

高橋 そんなに変わるもんですか?

宗清 性根は変わらないですよ。でも周りが変わってくるじゃないですか。コンサートの規模とか、使われるお金とか、周囲の期待とか。あと、一流のスタッフと仕事したりね。ビジネスの規模だって違うでしょ。

結城 うまくいってるときは全部がカチッと合うんですよ。自分たちがやりたいことをやって、それをみんなが聴きたいと思って、ライブでもウケて。スタッフもその曲を好きだって思って、雑誌とかもクオリティが高いって評して。でもどこかが1個でも外れると、それをどうやって戻せばいいかわからなくなるっていう。バンドって、そういう難しいところがありますよね。

ベストアルバム「タイトル未定」 / 2013年7月31日発売 / 日本コロムビア
初回限定盤 [CD+DVD] / 3675円 / COZP-786~7
初回限定盤 [CD+DVD] / 3675円 / COZP-786~7
通常盤 [CD] / 1890円 / COCP-38162
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THE YELLOW MONKEY(いえろーもんきー)

1989年12月に吉井和哉(Vo)、菊地英昭(G)、広瀬洋一(B)、菊地英二(Dr)の4人で本格始動。グラマラスなビジュアル&サウンドと歌謡曲にも通じるキャッチーなメロディを武器に、渋谷La.mamaを拠点に精力的なライブ活動を行う。1991年にはインディーズから初のアルバム「Bunched Birth」をリリース。翌1992年5月にはシングル「Romantist Taste」でメジャーデビューを果たす。その後も着実に知名度を高め、1995年4月には日本武道館で初のワンマンライブを実現。「太陽が燃えている」「JAM」「SPARK」といったヒットシングルを連発し、5thアルバム「FOUR SEASONS」は初のオリコン週間ランキング1位を獲得する。その後レーベル移籍を挟み、6thアルバム「SICKS」、ヒットシングル「楽園」「LOVE LOVE SHOW」「BURN」のリリース、「FUJI ROCK FESTIVAL '97」への出演や海外公演、野外スタジアムツアーなどを実施。1998年から1999年には、アルバム「PUNCH DRUNKARD」リリースにまつわる計113本、延べ50万人以上を動員した史上最大のロングツアーを1年間にわたり敢行。トップバンドの名を欲しいままにする。2000年には8枚目のアルバム「8」をリリース。新進気鋭のプロデューサー陣を立て、新機軸を打ち出す。しかし、同年11月に活動休止を突如発表。翌2001年1月の大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)&東京ドームでのライブをもって、長期間の充電に突入する。多くのファンから復活を熱望されていたが、2004年7月に正式に解散を発表。現在もなお、伝説のバンドとして多くのロックファン、アーティストからリスペクトされている。