“ミクらしさ”が失われないために
初音ミク発売から10年を迎えて、いろんな方に「初音ミクのこれからはどうなりますか?」「今後の展望は?」みたいなことを聞かれるのですが、僕からすると初音ミクで実現したい具体的なことって、実はそれほどないんです。と言うのも、初音ミクを取り巻くいろいろな出来事って、ユーザーさんが主体となって実現してきたものがすごく多いので。クリプトンは「初音ミク」というソフトウェアを開発したわけですが、決して僕らが作品を作るわけではないんです。あくまで作品を作り上げるのはユーザーの皆さんであり、僕らは作品を作るきっかけや雰囲気、表現するためのツールや場を提供しているという認識が強い。だからこれから先も何を生み出すかを考えるのではなく、皆さんが自発的に作品を作り上げていけるようなオープンな空気感を、どうすれば維持できるかということを重要視していこうと思います。
ソフトウェアを開発する会社として、もちろん初音ミクを進化させることも日々考えています。ただ例えば、技術の発展によって初音ミクがものすごく美声になって、人間と遜色ない声が出るようになると、「それってそもそも初音ミクなんだろうか」という問題も発生してくると思います。性能を上げることで、“初音ミクらしさ”が拡張することはあるかもしれません。だから皆さんが持つ初音ミク像を維持しつつ、どのようにソフトウェアを進化させていくのか。僕らにとって重要なポイントはここにあると考えています。性能だけがすべてではないと示す“人工人格”的なものが、初音ミクにはいつの間にか備わっていたんです。
DTMの文化に物語性を付けた
昔はDTMはインストが主流だったんですが、Vocaloidが定着することで歌モノのDTMが登場した。その点は、このソフトが成し遂げた大きな成果だと思っています。ドラムやシンセサイザー、ギターの音などはソフトウェアで充分なクオリティのサウンドが出せるのですが、ボーカルはどうしても録音する必要がありました。歌に関しては電子楽器のように直接パソコンにつなげられないですから、一度空気を経由した音を取り込む必要があるわけなんです。そうすると今度は歌を録音する環境が気になって、スタジオに行かなければならない……そういったジレンマが生まれる。そんな中Vocaloidが登場したことで、ボーカル録りも含めてコンピュータの中で楽曲制作が完結できるようになりました。そして歌モノが作れるようになったということは、そこに歌詞を付けるような作業も生じてくる。そして歌詞が乗ることによって、楽曲に物語性やメッセージ性が備わってくるんですね。DTMの文化に物語性を持たせられるようになったのは、Vocaloidがもたらした大きな賜物なのではないでしょうか。
初音ミクに関わるプロジェクトは、最初から現在に至るまで常に壁があったと思うんです。と言うのも、みんながみんな初音ミクのことが大好きで肯定してる、という状況ではなく、やっぱりVocaloidというものに抵抗感を持つ人もいたし、いまだにどういうものか理解されていない部分もある。しかも同じ意見ばかりが集まるようなプロジェクトやコミュニティは、時間が経つにつれて疲弊していくものです。多様な意見はあればあるほど変化の余地があるわけで、その点、Vocaloidカルチャーに関して言えば、携わる人々の年代、性別、趣味嗜好に幅があり、その結果、長く続くカルチャーになったように感じます。またニコニコ動画やYouTubeといった発表の場に、いろんなものが集まる懐の深さがあったのも初音ミクが広まる1つの要因でした。単に歌を歌わせるだけではなくて、踊らせたり、絵のモデルにしたり、“ネタ動画”のような作品で変なことを言われてみたり。初音ミクに仕事は選べないですから(笑)。そういう多様なコンテンツの中心に初音ミクが介在したのは非常にありがたいことだと考えています。
初音ミクだったら
どんな国の文化にも入っていける
インターネットには国境がありませんから、初音ミクに関する問い合わせは、日本だけでなく世界中からいただきます。最初の頃は初音ミクのキャラクターが好きで問い合わせてくる方がほとんどだったと思いますが、最近ではネットで巻き起こったこのムーブメントに注目した研究者や、未来をテーマにしたドキュメンタリー制作のために問い合わせをいただくケースもあります。コンサートに対する問い合わせはいまだに多いですね。2014年から始めたイベント「HATSUNE MIKU EXPO」では、昨年北米3カ国10都市をツアー形式で回りました。今年12月のマレーシア公演は、6000席が1時間足らずで売り切れました。コンサートに合わせて展示イベントを併催して、初音ミクの創作文化を伝える機会にもしています。
初音ミクを世界中の人にもっと知ってもらうための海外展開には力を入れています。海外に新しい文化や技術を紹介するときは、その土地にローカライズすることが必要になります。ソフトウェアで言うと、例えば言語をその土地に合わせたり、もしかしたらキャラクターのビジュアルも土地に合わせたカスタマイズが必要だったりするかもしれない。一方で初音ミクは、人間のクリエイティブを刺激する存在だと思っています。作曲家や作詞家だけでなく、イラストレーターや動画制作者、それからそういった肩書を持たない一般の人々にとっても。人の根本的な部分にある「何かを作りたい」という欲求は、人種や国などに関係なく備わっているものだと思うんです。だから、初音ミクが多くの国の文化にも入っていけたらいいなという、そんな思いがあります。
初音ミクの進化のプロセスは
まだ始まったばかり
初音ミクは今年で発売から10年経ったわけですが、10年と言えば人間でもまだ子供。成熟するにはまだ早いです。ましてや初音ミクは人間以上に手がかかる存在です。初音ミクが自ら歌ったり踊ったり、笑ったりすることはなくて、その後ろには必ずクリエイターがいます。初音ミクには人の創造力が必要なのです。今後の初音ミクの方向性を考えるとき、初音ミクがむしろ人の創造力をアシストする側にあると言うか、人に寄り添って人と創造する未来もありえるかなと思っています。そう考えると、初音ミクの進化のプロセスはテクノロジーを含めてまだ始まったばかりで、初音ミクとどんな未来を描くかは、当社だけでなく、きっと皆さんのあらゆる力にかかっているのだと思います。
- 伊藤博之(イトウヒロユキ)
- 1995年にクリプトン・フューチャー・メディアを設立。同社の代表取締役を務める。初音ミクをはじめとした歌声合成ソフト、DTMソフトウェア、サウンド配信サービスなど、音を発想源としたサービス構築・技術開発を牽引している。2013年には公衆の利益を興した者に贈られる藍綬褒章を受賞した。