ママリアン・ダイビング・リフレックス / ダレン・オドネル「私がこれまでに体験したセックスのすべて」稽古場レポート|“性”を語らい、人生をシェアするドキュメンタリー演劇

そのときの情景、抱いた感情をトレースする

宣誓が終わり、キャストが着席すると、いよいよ通しの本読みが始まった。

「19XX年、私はどこで生まれた。体重は何g。そのときのお産の様子は……」

1人ひとりが「自分は何歳です」という語り出しで、その年の自身の人生を切り取ったセリフを述べていく。物語が始まる1946年は、第二次世界大戦終戦の翌年。かつての日本のノスタルジックな情景がセリフと共に浮かび上がると、まるで亡き祖父母から昔話を聞いているかのような切なさが胸を突き、本読みを聴いているだけでうっかり目が潤んだ。

しかし、物語で描かれるのは、センチメンタルなものだけではない。中には思わず笑ってしまうようなユーモアあふれるエピソードも。出演者には演技経験者もいるが、ほぼパフォーマンスは初めての一般人ばかり。年齢のせいか、聴衆を意識してなのか、ゆっくり、はっきりと放たれるセリフは耳に心地よく、真っすぐ届いた。

心に響く秘密は、脚本のうまさにもありそうだ。2・3行のセリフの中に必ず、行動と感情、情景をイメージさせる一言が添えられており、例えばあるセリフからは、“泣くのが仕事”と言われる幼い子の思いやりや我慢が思い起こされた。

しばらく稽古を続けると、オドネルが「みんなとってもうまくできている。今度は、最後のセリフを言い終わったあとに目を伏せないで、次の人が話し出すまで前にいる僕らを見つめてみて」と新たな演出を付けた。そのようにするとセリフにグッと威力が増し、出演者の自信が上乗せされたように感じられた。さらに彼らの声のトーンが強く、表情が生き生きとした。オドネルの演出は、舞台の見え方・伝え方だけでなく、演技に不慣れな出演者を本番の緊張に備えせる、心強いサポーターとしての役目も果たしているのだ。

“性体験”とはセックスの行為だけに非ず!

モノローグが進むとやがて、性的な興味の芽生えや気付きといった“性”にまつわるエピソードが展開される。セクシーな絵への興味、初めてのマスターベーション、女性の身体の変化……それらのエピソードには、観客それぞれの物差しで、体験を重ね合わせることができる題材がいくつもある。稽古場を訪れた日は、スタートから25年までの読み合わせだったため、最年長で25歳、最年少で14歳までのエピソードが披露された。つまり、描かれたことの多くは純粋無垢な“性”への興味で、10歳までに性を自覚し、その前後で性への興味が行動に移るさまだった。その中で、早くから同性愛者としての性指向や、内面と外面の性のズレに覚えた違和感、そのせいでいじめられた経験や絶望などが赤裸々に語られる。“性”にまつわる暗部にもきちんと触れられていることが、とてもリアルに感じられた。そうして、稽古場での25年の語りはあっという間に過ぎた。

稽古が終わるとオドネルがギャラリーに駆け寄る。稽古を観てどう思ったのか、興味津々な様子だ。披露されたシーンではタイトルの過激さから想像するような刺激的な描写はなく、5冊のアルバムを並べて、1枚1枚ページをめくって眺めていくかのような、心温まる雰囲気に満ちていた。親しい仲でも普段は話し合わないような“プライベート”がさらけ出されているからか、観るほうもむずがゆい気持ちがするかもしれない。ギャラリーの感想を1つひとつ丁寧に聞き取り、オドネルは満足そうな表情を浮かべた。

本番ではこのような調子で、5名の“性”との関わりを100年描くという。「100年も生きてない人もいるのでは?」と聞けば、「どう死にたいかまでを描いて“生(性)”だよ」との答えが返ってきた。人生の先輩たちが体を張って、でもこっそりと教えてくれる、恋愛、出産、病気、老い、死。この作品を通して、人知れず悩みを抱えていた過去の自分や「まさに今そのことで困っています!」という人が救われるかもしれない。本作は、1年前の稽古でほぼ完成形まで進んでいた。“性との体験のすべて”をありがたく享受できる公演が、コロナ禍での1年ぶんのエピソードが加わり、どんな姿で観客の目の前に現れるのか。今回、日本に来られない演出家のオドネルとママリアン・ダイビング・リフレックスのメンバーは、映像でリモート出演する。人や時代の変容をリアルに板の上に乗せる日本版「私がこれまでに体験したセックスのすべて」の姿を、ぜひ、心をオープンにして目撃してほしい。