少年社中「クアンタム -TIMESLIP 黄金丸-」が8月に東京と大阪で上演される。毛利亘宏が脚本・演出を手がける本作は、劇団☆新感線の中島かずきによる戯曲「TIMESLIP 黄金丸」をもとにしたタイムリープもの。若手の頃から中島に憧れ続けた毛利が、中島の過去戯曲に新たな要素を追加し、自身の作品として立ち上げることは、自身の作家人生にとって大きなターニングポイントになるだろう。
ステージナタリーでは、劇団の座付き作家として活動しながら、特撮ものやアニメの脚本家としても活躍する毛利と中島に、作家としての矜持について聞いた。
※2022年7月28日追記:8月4日の公演は新型コロナウイルスの影響で中止になりました。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓
上演のたび生まれ変わる「TIMESLIP 黄金丸」
──毛利さんは、劇団☆新感線を牽引してきた演劇プロデューサーの細川展裕さんと、少年社中旗揚げ前の学生時代からお知り合いだったそうですが(参照:少年社中20周年 毛利亘宏×生駒里奈×松田凌 座談会 / 毛利亘宏×細川展裕 対談)、中島さんとの接点は?
中島かずき 2001年に細川さんのプロデュースで、僕が昔書いた「夢見る無法者」を原作に、毛利くんの脚本、東京オレンジの横山仁一さんの演出でやったことがあったんです。それが最初でしたね。
毛利亘宏 以来なかなかお話しする機会がなかったんですが、いつだったか京王線で突然声をかけていただいて。僕が書いた特撮ものを「観たよ」って。
中島 あと僕は、東映の近くを疲労困憊したあなたが歩いているのを遠くから見た記憶がありますよ。「ああ、『(宇宙戦隊)キュウレンジャー』の本打ち(合わせ)の帰りだろうな、メインライターは大変だよなあ」と思って見ていました。
毛利 あれは度を超した大変さでした(笑)。僕は高校生の頃に演劇を始めて、最初に衝撃を受けたのがいのうえ歌舞伎「スサノオ~武流転生」(1994年)でした。以来、中島さんは憧れの存在で、ずっと追いかけてきた感じです。
中島 僕は、ごめんなさい、少年社中を観たことはないんだけど、特撮もので毛利くんが書いたものはよく観ています。今放送中の「仮面ライダーリバイス」も“セカンドライター”をやってますよね?
毛利 はい。特撮ものはこの10年、コンスタントにやらせてもらっています。
中島 毛利くんの名前を見かけるたび、「小劇場上がりの意地を見せてやれ!」って陰ながら応援していました(笑)。
──今回上演される「クアンタム -TIMESLIP 黄金丸-」は、中島さんが1986年に新感線に書き下ろした「TIMESLIP 黄金丸」がベースになっています。なぜ「TIMESLIP 黄金丸」をベースにした作品を作ろうと思われたのですか?
毛利 コロナの前に細川さんと食事をする機会がありまして、そのときに「また中島さんの作品をリライトしてみたら?」とおっしゃっていただき、「黄金丸」を思い出したんです。すぐに実現はできなかったんですが、今やってみようということになり、中島さんにご相談したところ快諾いただいて。中島さんが「昔の作品だから大きく変えてしまっても良いよ」と言ってくださったので、リブートと言いますか、新たな作品として上演できたらと思っています。
──中島さんは1985年に座付き作家として新感線にジョインされ、翌年上演された「TIMESLIP 黄金丸」がすでに4作目。当時、かなりのハイペースで新作を書かれていたのですね。
中島 あははは! 当時は月1のペースで公演してましたね。
毛利 そんなに!?
中島 当時、僕は週刊マンガ誌の編集をしながら毎月新作を書いていたんですけど、さすがにこのペースでは無理だと思って、半年かけて書いたのが「阿修羅城の瞳~BLOOD GETS IN YOUR EYES」(1987年)。ちゃんと時間をかければクオリティが上がるんだ、ということを実感しました。
毛利 すごく当たり前の反省ですね(笑)。
中島 あははは! 初演は神戸ポートピアランドの水上ステージという、出入り自由で1000人くらいが座れるスペースでやりました。
──「TIMESLIP 黄金丸」はその後1993年に、当時人気絶頂だったアイドルグループ・ribbonの客演で、青山円形劇場で再演されました。初演と内容は違ったのですか?
中島 タイトルと、“黄金丸”という刀でタイムスリップする、という設定だけが一緒で、あとはまったく違います。初演のときは、当時はまっていたファミコンを意識して、ミッションを1つずつクリアして進む、面クリアを芝居でやってみようと思って書いた脚本でした。初演は、勝気な主人公の女の子と枯暮修さんがタイムスリップして戦国時代に行ってしまって、トンチンカンな戦国時代の人と知り合いながら戦うっていうストーリーだったんです。
毛利 確かに女子大生3人が主人公のribbon版とは全然違いますね。
中島 ribbonと「TIMESLIP 黄金丸」をやることになったのは、確かいのうえ(ひでのり)のアイデアだったんじゃないかな? 僕もいのうえも「TIMESLIP 黄金丸」っていうタイトルが気に入っていたのと、永作博美さんが佐藤愛子さん、松野有里巳さんより2つ年上だと聞いていたので、それをヒントに永作さんだけ10分早くタイムスリップするんだけど、行った先では2年過ぎていたという設定にした。今回の「クアンタム」にもその時間差が生まれるっていうニュアンスは残ってるんだっけ?
毛利 はい。踏襲しています。だからある程度骨子はいただきつつ、新たな展開の作品になっていると思います。
中島 最初にもらった「クアンタム」のプロットは、もうちょっと僕が書いたものに近かったんだよね。でもやり取りの中で「変えるならもっと変えて良いよ」という話をしたら本当に全然違うものになって、まさか数学オリンピックの話になるとは(笑)。
毛利 もともとそういう世界観が大好きでしたので(笑)。ただ、過去にタイムスリップするお話は、「刀剣乱舞」然り、今は以前よりもあふれている感じがしたので、せっかくなら未来に行く話にしようと。また細川さんとのお話の中で“量子コンピューター”というキーワードが生まれて、確率の世界で決められた未来と、自分がチョイスして切り拓いていく未来を描いた冒険ものをやろうという初期衝動が起こりました。それで、未来というステージで、それぞれの因縁と立ち向かっていく話ができたらなと考えたんです。
──「クアンタム」には少年社中劇団員のほか、染谷俊之さん、
毛利 ちょっと登場人物の年代を上げようかなと思ったんです。初演もribbon版も、当時の劇団員の方ってまだ……。
中島 二十代後半くらいでしたかね。
毛利 ですよね。少年社中の劇団員は今、平均年齢40歳を超えていますし、メインの3人に当たる客演陣も30歳くらいにすることで、“改めて自分の夢を問う”というお話にしたいと思ったんです。
中島 なるほど。今回、MARiAさんも出るんだね! 彼女、お芝居やるんだ?
毛利 昔やられたことがあるみたいで。
中島 彼女が歌った「キルラキル」の主題歌「ambiguous」は僕も好きな曲なんですよね。
毛利 良いですよね! せっかくなので今回、舞台でも何か歌ってもらおうと思っています。
作家としてのプロ意識はどこから?
──中島さんは、ペンネーム・かずき悠大のお名前で活動されていましたが、29歳のとき、作品で言うと1988年「星の忍者─風雲乱世篇─」から中島かずき名義で作品を発表されるようになりました。一方、毛利さんは22歳に劇団を旗揚げし、29歳の頃、当時若手の登竜門的場所だった、青山円形劇場で作品を発表するようになります。
中島 最初にペンネームを使ったのは、会社員だったから。でもなんとなく座りが悪かったのと、新感線が東京に進出することになって、知り合いが観に来るのにこのペンネームはちょっと恥ずかしいなと思って、今の名前にしました。
毛利 僕にとって青山円形劇場は、「いつか」と考えていた夢の劇場でした。だから円形劇場で上演できたのは本当にうれしかったですね。
──書き手としてのプロ意識は、いつ頃からお持ちになっていましたか?
中島 それは答えるのが難しいな。新感線で言うと、さっき言った通り東京に出てきたタイミングが大きかった。それこそ小劇場劇団にとって憧れの円形劇場で「スサノオ」を上演できたのは大きかったし、あの公演で動員も伸びたので。僕個人としては、ペン1本になったのは会社を辞めた50歳のときです。ただそれ以前にプロ意識がなかったかというと、作品を出すときはアマチュアだからといって逃げる意識はまったくなかったし、でも自分はプロのマンガ家さんたちを相手に仕事していたので、僕もプロの編集者でないといけないと思ってもいたんですよね。そういう意味で、「いわゆるプロ意識の芽生えがどこか」と言われると、答えにくい。
毛利 僕は学生時代から演劇を続けて、32・3歳のころにずっと世話になっていた会社がつぶれてしまったんですね。それでどうしようかと思っていたときに、以前劇団でやった芝居をプロデュース公演として青山劇場でやらせていただく機会があり、「これで軌道に乗れる!」と思ったんですが、全然そんなことはなく(笑)。そこで、「この世界では本当に良いものを書き続けないと生きていけないんだ」と覚悟を持って書いたのが「ネバーランド」という作品でした。それを、脚本家の小林靖子さんが観てくださって、「仮面ライダー」の仕事を紹介してくださったんです。
中島 靖子さんなんだ!
毛利 そうなんです。また2.5次元ミュージカルの仕事に携わるようになったのもその頃でした。
中島 そのあたりから筆1本で食えるようになったんだね。という意味では、僕も新感線は40歳の頃までずっとノーギャラだった。新感線にとって東京進出の次の転機になったのは2000年に新橋演舞場でやった「阿修羅城の瞳」で、市川染五郎(現・松本幸四郎)さんらが出演してくれ、実際に高い評価をもらえたので、そのあと大劇場にシフトするようになっていきました。
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特撮ものに感じる責任と喜び