音へのこだわりと余白が導く「夜能」の朗読
──「夜能」で語りパートを声優が務めるという決まりを設けたのには、何か理由があるのでしょうか?
和英 実は、結果的にそうなってしまった、というだけなんです。僕はドラマCDが好きでよく聞くんですが、能楽のお客さんには歌舞伎のようにエンタテインメント性の立った表現ではない、“余白”を楽しむような方が多くて。もちろん和事全般をお好きな方もいらっしゃいますが、歌舞伎と能楽には江戸と室町の文化の違いみたいなものがある。それは、歌舞伎と能楽の提供する感情の種類が異なるからだと思うんですね。
津田 なるほど。
和英 能楽のような落ち着きのある“チル系”を好む人には、音にこだわりを持つ人が多い。となると声優さんとも相性が良いのではと。今まで「夜能」は年に1回しか公演がなかったので、朗読と芝居の技術を持ち合わせた方を優先した結果、声優さんになりました。また、能楽のシテ主義(編集注:シテが主役として演出家の役割も担い、奏演者のキャスティングなどすべてに決定権と責任を持つこと)が持つ緊張感を出したかったので、1人の朗読にしています。朗読ってやりすぎると子供の読み聞かせのようになってしまったり、やらなさすぎても伝わらなかったりと難しいので、並の人では務まらないと思うんですよね。
津田 僕はそんなに意識してはないんですけどね(笑)。
和英 それは津田さんだからですよ!(笑)
津田 僕の場合、朗読ではこの物語の何がどう面白いのか、どの言葉が素敵なのか、美しいのかということをまず探します。そこから自分の中でどう具体的に表現していくかを組み立てていくのが面白い。今回は映像配信でお客さんが目の前にいなかったので、ちょっとやりにくいかなと最初は思ったんですよ。でもまあ……全然関係なかったですね、正直(笑)。やることは変わらなかったですし、変えるべきでもないなと。
宝生会がアテンドする、能楽への新たな入り口
──「夜能」は、今年から1作品を3カ月にわたってフィーチャーし、月替わりで異なるキャストが朗読・能楽を披露します。さらに、「能楽Departure」として「夜能」の定期的な映像配信もスタート。「能楽Departure」というタイトルにはどんな思いを込めたのですか?
和英 映像配信公演は、「夜能」のブランドと差別化したいなと思っていて。津田さんの「生田敦盛」が配信専用公演の出発点だったんですけど、あの頃は初めての緊急事態宣言で先が読めなかった。「夜能」本編は役者と能楽師のサシのぶつかり合いで、結果的に普通の能楽よりは接しやすくなっていますが、僕は、初心者向けに作っているつもりはないんですね。そこで、劇場公演と映像配信公演は分けて考えたいなと思って、新たな“出発”の意味を込めて映像配信公演のほうを「Departure」にしました。
──「能楽Departure」第1弾では、森久保祥太郎さんによる朗読で「邯鄲」が2月に配信されます。
和英 これからは公演ベースのものと配信、両方を突き詰めていきたいと思っています。コロナによって世界が変わってしまった中、我々は自信を持って舞台をやっているけれど、映像をどうやるかはこれから。今のうちに勉強しておいて損はないだろうと。
──古典芸能において“変革”は難しいものなのかと思っていましたが、新しいことへの踏み出しには寛容なんですね。
和英 そうですね。それを“能楽でやる意味があるかどうか”が境界になるのかなと。僕にしてみればアンビエントカルチャー(微細さやその変化を表現するような文化)であり続けるという領域からはみ出さなければ良い。映像というと、特殊効果や演出に注目しがちですが、アンビエント系の映像演出にはどんな可能性があるのか、この企画を通して探っていきたいですね。
──「能楽Departure」では映像演出を宗家が務められますが、映像を通して能楽のどんな部分を伝えたいとお考えですか?
和英 これは、実は津田さんの公演でいろいろ実験させていただいたんですが(笑)。
津田 うんうん、いいですよ(笑)。
和英 象徴的なシーンを、手や足、あごに滴る汗だけなどで見せたいなと思っています。「ニュー・シネマ・パラダイス」とか、昔の映画って画の切り取り方でストーリーを見せるのがうまいんですよね。能楽師は舞台上でまったく動かないので、疲れていないと思われがちなんですが、実は汗だくで謡っています。そういう、役者にフォーカスして、客席からは見えにくい部分を伝えたいなと。
──津田さんは一昨年に監督デビューされ、最近はショートフィルムの脚本・監督をされました(参照:「アクターズ・ショート・フィルム」特集)。宗家のおっしゃることには共感されますか?
津田 今の映像作品は、とひとくくりにしてはいけないんですが、おっしゃる通り、メインストリームを見せすぎている感じがありますよね。でも、“魂は細部に宿る”じゃないですけど、別のところを見せることで、中心ラインが浮き立つことはあると思います。それは手の動きだったり、あえて顔を見せなかったり、大事なセリフほどしゃべらせなかったり。そういうバランスが大切だなと。
落語に似てる?“あえてしない”をする面白さ
──津田さんは能を現代語で、能舞台の上で読むという経験をされて、アーティストとしての新たな発見はありましたか。
津田 あえて“エンタメ”しないというのは、やっぱり面白いなって思いました(笑)。どうしてもアニメーションの場合はエンタメを要求されることが多くて、それは役の感情や状態の説明を含めて“乗っけていく”ことなんですが、そこではない何かを表現するというのかな。あと、1人で1つの物語を語るのは非常に醍醐味のある、責任の重い作業だなと思いました。最近、落語をよく聞くんですが、近いものがありましたね。
──どんな噺家さんをお聞きになるんですか?
津田 (柳家)小三治さんですね。平田広明さんが詳しくて、おすすめを教えていただいたんですが、まくらとかね、「あの人セリフ忘れてるの? それとも間なの?」って思わせるおかしみがめちゃくちゃ豊かに見えてくるんです。お笑いなどではある程度、それがなぜ面白いかという構造が見えてくるんですけど、小三治さんはなんで面白いのかわからない面白さ、構造やキャラクターの面白さだけではない豊かさがある。古典落語では当然そうなりますが、人によって言葉尻やアレンジが変わりますよね。そのへんが、宗家と話していても能に近いというか。能って保守的なイメージがあるけど、意外とアバンギャルドなことをやってるんですよ。キリスト教の話とか。
和英 そうですね(笑)。「復活のキリスト」は曽祖父が作ったものです。僕なんかは能楽のエンタメ要素の弱さにコンプレックスを持っていますが、枠を超えなければ、表現の仕方自体は実はいろいろあるんですよね。解釈も能楽師それぞれで、僕は鬼をやるときは鬼の中に人間の弱さを表現してみたり、女性をやるときは芯の強さを表してみたり、反対のベクトルにかけるということをよくやります。シンプルな能楽は装飾が少ないからこそ、それができると思っていて。今回、「夜能」で1つの演目を3人がやるのにも、そこに理由があります。千差万別のやり方から気付きを得る。見比べられることが、一番の幸せなのではないかなと思っているんです。
2021年2月15日更新