人形遣い・吉田一輔が語る 父・桐竹一暢と吉⽥簑助、2人の師匠から受け継いだもの

10月末に再整備のため閉場した、初代国立劇場。しかし、東京都内のさまざまな劇場で国立劇場の主催公演は継続して上演される。閉場後第1弾となる文楽公演の会場は、北千住駅から直結の劇場、シアター1010(センジュ)。「令和5年12月文楽公演」と「令和5年12月文楽鑑賞教室」が同時期に同会場で開催され、前者では、「平家物語」を題材にした「源平布引滝」より「竹生島遊覧の段」「九郎助住家の段」、後者では解説に加え、舞踊「団子売」と、忠兵衛とその恋人・遊女梅川の悲恋を描いた「傾城恋飛脚」より「新口村の段」が上演される。

ステージナタリーでは、鑑賞教室の「新口村」Aプロで、老人役の大役・孫右衛門を初役で遣う人形遣い・吉田一輔のインタビューを実施。女方の人形を遣うことが多い一輔は、リアルな息遣いを感じさせる繊細さ、役の持つ魅力を最大限引き出す表現力で、観客を物語世界に没入させる。世襲制ではない文楽界で、祖父・桐竹亀松、父・桐竹一暢、そして自分と、三代にわたり人形遣いを務める一家に生まれた一輔が、13歳で入門してから今に至るまでの“文楽人生”も明かす。

取材・文 / 櫻井美穂

史上初の四代にわたる人形遣い一家に

──お祖父様・桐竹亀松さん、お父様・桐竹一暢さん、ご自身と三代にわたる人形遣いでいらっしゃいますが、長男の吉⽥簑悠さんが人形遣いとしての道を選ばれたことで、史上初の四代にわたる人形遣い一家となられました。お母様のお腹の中にいる頃から、文楽に触れている……という生活は、想像がつきません。

物心がつく前から、義太夫が耳に入ってくる環境で育ちましたが、自分の家が特殊だという自覚はあまりなかったですね。人形遣いは、家では人形を持った稽古ができないので、音を聞きながら振りをつけたり、イメージを膨らませる作業をしています。祖父や父が、家でそういった仕事に集中している最中、子供だった僕はうるさくして、よく母親に怒られていました(笑)。

吉田一輔

吉田一輔

──歌舞伎の家のお子さんは、歌舞伎の憧れの役を芝居ごっこで演じる……といったエピソードがありますが、一輔さんはいかがでしたか。

自分が小さい頃のことはあまり覚えていませんが、うちの息子は、よく僕の真似をしていましたよ。僕たちが舞踊作品に出演する際は、実際に自分の身体でも振りを覚えないといけません。なので、人形を持たずに踊りの稽古をやるのですが、僕が扇を持って稽古をしていると、息子もどこからか見つけて来た扇子を持って、遊びで三番叟を踊っていました。

──義太夫が耳になじんでいて、踊りの振りも体得している、というのは、人形遣いを志すうえで、かなりのアドバンテージのように感じます。

でもそれが今、人形遣いとして役に立っているかどうかはわかりません(笑)。それに、ほかの伝統芸能と違って、文楽の世界は世襲制ではありませんので、僕は息子に対して「人形遣いになってほしい」と思ったことはありませんでしたし、父からも一切言われませんでしたね。

──お父様の一暢さんは、女方を中心に立役も多く遣われ、「新口村」では亀屋忠兵衛も梅川も経験があります。お父様の舞台で、記憶に残っている演目はありますか?

一番覚えているのは、「勧進帳」の弁慶です。僕が幼稚園生か小学校低学年の頃に、道頓堀にあった劇場・朝⽇座で観たのですが、父が遣う弁慶が飛び六方で花道を引っ込んでいくところに「カッコいい!」と魅了されました。どうやらその公演は本興行ではなく、勉強会として数日限りでやっていたもののようで、また父も女方の人形を遣うことが多かったので、弁慶を遣うこと自体がすごく珍しかったんですけど、その公演を観てすごく感動して。子供心に、父に対して「すごいことをやってるんだな」と思いましたね。

──人形遣いへの道を志したのは、一暢さんの弁慶がきっかけでしょうか?

いや、それがそうではなく(笑)。目指すようになったのは、ご近所さんや学校の先生といった、周囲の大人たちからの影響かもしれません。みんな、文楽のことをよくわかっていなくて、でも伝統芸能だから代々継いでいくものだと思いこんでいたみたいで。だからどこに行っても「てっちゃん(一輔の本名・哲志)は、大人になったら人形遣いになるんやろ?」と言われて、それでなんとなく「俺は人形遣いになるんや」と思うようになったんです。

──外堀を埋められていったんですね。

でも具体的にいつ、どうやって人形遣いになるかは考えていなくて、中学までは野球に打ち込んでいましたね。入門するきっかけは、先代の(吉田)玉男師匠のお孫さんです。そのお孫さんは僕と同い年なんですけど、中学1年生のときに玉男師匠に入門していて。それを知ったとき「入門するんやったら、もう今の時期から考えなあかんねや」「確かにやるんやったら、絶対早いほうがええな」と。それで、両親に「やりたい」と訴えたんですけど、「あかん、お前には絶対に無理や」と反対されました。両親は、文楽の世界の厳しさを知っていたので、むしろ文楽から僕を遠ざけようとしていたんです。でも当時の僕は、その子に負けたくない、一歩でも遅れを取りたくないという気持ちがあまりに強くて(笑)。「それでもやりたい!」と主張したら、母親が「まあ本人の意志やないか」と味方になってくれました。それで、中学2年生のときに父に入門し、中学卒業と同時に人形遣いとしての本格的な修業が始まりました。もし入門していなければ、きっと高校野球で甲子園に行って、プロ野球選手になっていたんだろうなと思います(笑)。

父・⼀暢と吉⽥簑助、2人の師匠から受け継いだもの

──1983年に⼀暢さんに師事し、その2年後には、桐⽵一輔として大阪・国立文楽劇場の「伊賀越道中双六」より「岡崎の段」の倅・巳之助役で初舞台を踏みます。しかし、2004年に⼀暢さんが亡くなってからは、吉⽥簑助さんの⾨下となり、吉⽥姓に変わりました。

僕の初舞台の年に撮った写真が、家で見つかったので持ってきました。1985年の夏ですね、祖父の亀松と僕の写真です。楽屋での、父・⼀暢との写真も出てきました。

左から桐竹亀松、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

左から桐竹亀松、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

左から桐竹⼀暢、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

左から桐竹⼀暢、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

左から桐竹⼀暢、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

左から桐竹⼀暢、吉田一輔(当時は桐竹一輔)。(提供:吉田一輔)

──⼀暢さんとのお写真、笑顔が眩しいです。

朝⽇座があった頃は、簑助師匠、祖父・亀松、父・⼀暢、それぞれのお弟子さんで、狭い楽屋をぎゅうぎゅうになりながら一緒に使っていました。だから、簑助師匠には、僕も子供の頃から可愛がってもらっていたんです。簑助師匠は、僕にとっても、父にとっても憧れの存在でした。実は父は僕を、自分にではなく簑助師匠に弟子入りさせたかったんです。簑助師匠にお願いしに行ったら、「立場的にも、お前もそろそろ弟子を取らなあかんやろ」と説得されて、嫌々僕を弟子にしたんです(笑)。こうして最終的に僕が簑助師匠にお世話になったのは、そういうご縁だったんだな、と思います。

──⼀暢さんと簑助さん、それぞれ一輔さんにとってどのような師匠でしたか?

父は、作法に始まり、人形遣いとしての基本的なところを教えてくれた師匠でした。人形遣いの修業は、“足遣い10年、左遣い10年”と言われていて、入門すると、まずは人形の両足を担当する“足遣い”、そのあと、人形の左手を遣う“左遣い”とステップアップして、最後はメインで人形を遣う“主遣い”を目指します。父には、足遣いとしてたくさんの経験を積ませてもらいました。父が亡くなったのは、ようやく左を遣わせてもらえるようになったタイミング。そのときは、僕もまだ若かったので、この先どうしたら良いか途方に暮れました。

簑助師匠のもとに入門させていただきたい、という思いはあったものの、師匠の元には僕と同世代のお弟子さんがすでにたくさんいらっしゃったので、果たして引き受けてくださるかどうかわからなかった。ドキドキしながらあいさつに伺いました。師匠が一門の人たちに「一輔を引き取っていいか」と話をつけてくださいました。まあ、師匠がそう言ったらみんな嫌とも言われへんし(笑)、無事入れていただけて、ほっとしました。

──簑助さんの元に入門後、周囲は同世代の、いわゆるライバルだらけ。すぐに左を遣える、という状況ではなかったのではないでしょうか。

「本朝廿四孝」「十種香の段」(2005年、国立文楽劇場)より、八重垣姫を遣う吉田簑助。(提供:国立文楽劇場)

「本朝廿四孝」「十種香の段」(2005年、国立文楽劇場)より、八重垣姫を遣う吉田簑助。(提供:国立文楽劇場)

そうですね。でも、逆に「やってやるぞ」という気持ちもありました。入門してからは、とにかく師匠の舞台を、毎日舞台袖からじっと観て、勉強していました。「いつか、この演目の左を遣いたい」という気持ちで、左の振りを覚えていたんです。転機は、入門して1年ほど経った頃です。師匠が「本朝廿四孝」より「十種香の段」の八重垣姫を遣っていたのですが、初日から数日経ったあと、突然「明日から左に来い」って僕に言ってくださったんです。当時の僕はまだ、主役級の役の左を遣ったことがありませんでした。でも師匠は、僕が毎日舞台袖から師匠の演技を観ていることを知っていたので、きっと「こんだけ観てるんやったら、手数ぐらいは覚えてるやろ」と、思い切って抜擢してくださったんだと思います。「十種香」の八重垣姫の左は特別難しいので、今考えると、よく「やります」と言ったな、と恐ろしくなりますが(笑)、そのときは千載一遇のチャンスに、無我夢中になって取り組みました。そうしたら師匠も認めてくださって、次の公演から師匠の左を遣わせてもらえるようになりました。師匠には、左遣いとして一番近い位置で勉強させてもらって、演技というものを教えてもらいました。

師匠って、本当に実力主義なんですよ。チャンスは、みんなに均等に与えるんですけど、「こいつはもうあかん」と思ったらばっさり切り捨てる。だからこそ、期待に応えないとあかん、と必死でした。外から入ってきた弟子をここまで育ててくれたので、本当にありがたかったですね。

──熱心に勉強する一輔さんの姿に、「育てないと」と思われたんでしょうね。

こんなことを言ったらあかんのかもしれませんが、当時、僕みたいに袖から毎日観ているような人は、ほとんどいませんでした。父も、簑助師匠も、手取り足取り教えてくれたわけではありません。だからとにかく芝居を観て、真似て、芸を盗むように務めていました。甘えようと思えば、なんぼでも甘えられる環境ではあるので、だからこそ自分に厳しくしないといけないと常々思っています。

長男・簑悠は真面目で熱心「良い刺激を受けています」

──長男の簑悠さんは、2013年に17歳で簑助さんに入門し、一輔さんの弟弟子として人形遣いの道を進まれました。父として、簑悠さんにアドバイスをすることはありますか?

簑悠は弟子ではなく、弟弟子なので、僕からはあまり口を出さないようにしています。簑悠が入門したときに、彼に伝えたのは「どうしてもわからないことがあれば、いくらでも教えるけど、できるだけほかの兄弟子に教えてもらいなさい」ということ。本人は、とても真面目で熱心で、先輩たちにも可愛がってもらっているみたいです。息子家族とは別居しているので、家で話すことはもうあまりないんですけど、巡業公演で一緒になったとき、お酒を飲みに行ったりすると、いろんなことを考えているんだな、と感心しますね。基本的にはふざけたやつなんですけど(笑)。

──2023年9月には、若手による自主公演「ワカテdeワカル フェニーチェ文楽 vol.4」で、簑悠さんは「新口村」の梅川に初役で挑まれました。

息子にとって初めての主役級の役です。本人の希望で僕が彼に教えることになったのですが、もう熱量がすごくて。連日、「今日も稽古してほしい」と言われて、僕のほうが「今日1日は休ませてくれよ」となっていました(笑)。一番最初の稽古では「大丈夫かな」と不安な出来でしたが、最後には非常に高いレベルまで仕上げてきて。僕自身、彼からは良い刺激を受けています。

──簑悠さんを始め、文楽界の若い世代は、SNSを使った情報発信にも積極的ですね。

文楽には、研修生がなかなか入ってこないという課題があります。その原因の1つに、「修業が厳しいのでは」「しんどいのでは」といった固定観念があると思うんですけど、簑悠たちがインスタライブなんかで、「こんな感じですよ」と一門の雰囲気を見せることで、厳しかったりつらそうだったりする修業のイメージを変えるきっかけになるんじゃないかなと。「誰もが時間をかけて成長していくし、何もわからないところからのスタートだから大丈夫」と発信してくれているのは、ありがたいですね。

一昔前だったら、「そんなことしている時間があったら勉強せい」という考えを押し付ける人もいたかもしれませんが、彼らは勉強もしっかりしているうえで、文楽の未来のためを考えて行動してくれている。良いことだと思います。