国立劇場での文楽全段通し狂言「菅原伝授手習鑑」クライマックスを裏から支える技術室、表で魅せる人形遣い・吉田玉男に迫る (2/3)

「天拝山の段」での演出をチラリ。種も仕掛けもございません!

ところで、先ほど村尾さんが見せてくれた菅丞相のかしら、実は初段から二段目までは“孔明”といういかにも聡明そうなかしらが使われていた。しかし「天拝山の段」では、流刑後の苦労がにじむ、痩せこけた顔の“丞相”に変化する。村尾さんは「ネタバレになってしまいますが……」と小さなお面を取り出し、「『天拝山の段』での菅丞相は、最初お面をつけているんですよ。最初は優しげな顔をしていますが、後半、面を落として怒りの表情に変わるんです」と説明しつつ面を落として見せる。と、怒りで青白くなった菅丞相の顔が。「ここで後見さん(編集注:人形遣いが人形を遣う周辺の作業を手伝う場合の呼び方)によって、髪もグッと持ち上げられて、まさに怒髪天。目も寄って、見得を切ります」と表情も動かし、菅丞相の迫力ある様子を見せながら「種も仕掛けもございません(笑)」と村尾さんはニヤリと笑った。

お面を付けている“丞相”のかしら。

お面を付けている“丞相”のかしら。

“丞相”のかしらにお面を付ける様子。

“丞相”のかしらにお面を付ける様子。

お面を取ると、怒りの表情に。

お面を取ると、怒りの表情に。

かしらを作るのも仕事の1つ

そんなかしら部門の作業スペースは、いくつもの彫刻刀や平筆など、きちっとまとまって置いてあり、整理整頓が行き届いた、機能的でミニマルな空間だ。またかしら・床山部屋の一番目立つ壁には1人の男性の写真がかけられている。この方は……?と村尾さんに尋ねると「これは大江巳之助師匠です。現在、かしらは360個ほどありますが、その9割以上が巳之助師匠によって作られたものなんですよ」と回答が。たった1人で!? と驚きつつ、「360個もあれば、かしらを新しく作る必要はないのでしょうか」と質問すると、村尾さんは首を横に振る。「例えば、現在『夏祭浪花鑑』の三河屋義平次のかしらとして使われている“虎王”というかしらは、元々1つ、それも江戸末期ごろに作られたものしかなかったんです。長年使われて傷みが激しかったのですが、出番が多く剥ぎ塗り(大規模修理)をする時間もなかったので、技術室で新しく製作し、その新しいかしらが出演している間に、元々あったほうを剥ぎ塗りして。結果的に2つに増えました」。そう話しながら村尾さんは、丸太を切り出した木材を見せてくれた。「かしらの元となるのは、檜の原木です。これを長方形に切り取って、目指す顔に合わせて、ノミで彫り進めていきます。そのときに大事なのは正中線。正中線が曲がってしまうと人形遣いさんが持ったときに水平垂直が保てなくなってしまうんです。ただ目視で彫っていくと、目が勝手に歪みを補正してしまうので、ある程度掘り終えたら、しばらく見えないところに置いておいて、目がニュートラルな状態になったら再び彫る……ということを繰り返して、完成させます」。さらっと村尾さんは話すが、果てしない道のりに呆然とした。

かしら・床山部屋を見守る、大江巳之助師匠。

かしら・床山部屋を見守る、大江巳之助師匠。

かしらの元となる、檜の原木。

かしらの元となる、檜の原木。

檜の原木をかしらのサイズに切り出す。

檜の原木をかしらのサイズに切り出す。

“正中線”を大事に彫り進めていき、顔の形が完成。

“正中線”を大事に彫り進めていき、顔の形が完成。

そうしてようやく顔の形が完成したら、次は頭を鉈でパカンと前後2つに割り、内側を刳り貫きからくりを仕込む。見得を切ったり、怒った表情を作ったりと、人形遣いにより操られるからくりの動きを司るのは、黒い板ばねだ。「これは、クジラのヒゲなんです」と村尾さんは、棚の隙間から大きな黒い板を出してくれた。体長、体重、そして腸の長さが書かれたその板は、当時捕鯨船団におられた方が寄贈してくれたというセミクジラのヒゲ! 触らせてもらうと、ツルツルしつつも、しなやかな弾力がある。「(クジラのヒゲは)日本ではもう取引ができないので、いっときは材料不足でピンチでした。でも2016年に北海道・根室でクジラが打ち上げられたとき、全国の文楽ファンが根室の教育委員会に『ぜひ文楽に寄附を!』と連絡をしてくださって。おかげさまで、今は十分なストックがあります(笑)」と熱い話を聞かせてくれた。

からくりが仕込まれたかしらの内部。

からくりが仕込まれたかしらの内部。

最後にかしらを作るときに意識していることを聞くと、「目指すのは、“我”が取れた人形です。というのも、人形に魂を込めるのは人形遣いさんで、我々は魂を入れちゃいけない。むしろ魂を取り除かないといけないんです」と、村尾さんはかしらたちに目をやった。技術員としてのテクニックはもちろんだが、黒衣に徹する村尾さんたちのプロフェッショナルな姿勢がとても印象的だった。

村尾さんが見せてくれた、セミクジラのヒゲ。

村尾さんが見せてくれた、セミクジラのヒゲ。

布・布・布!衣裳部屋に潜入

次にやってきたのは衣裳部屋。入ってすぐ気になったのは、着付けされた状態でぶら下がっている人形サイズの衣裳たち。「カワイイ!」と声を上げながら奥に入ると、右手には引き出しの付いたタンス、左手には衣裳が所狭しと収納された棚がずらりと並んでいる。いずれも布・布・布でぎっしり。「基本的に、文楽の衣裳用として生地は売っていないので、白生地を買って染めてもらうことが多いんです」と説明してくれたのは、衣裳担当の木下幸子さん。タンスの引き出しには、同系色でまとめられた端切れや、人形のサイズに模様がつけられた布、まだ反物の状態のものなど、宝の山のようにどっさりと鮮やかな布が詰まっている。「刺繍が入るものは、京都の職人さんに依頼をかけます」と、赤姫の衣裳を取り出して見せてくれた。鮮やかな赤に色とりどりの紅葉が金銀の糸と共に刺繍された、精巧なミニ赤姫の衣裳に思わずため息が漏れる。一方、左の棚には既に衣裳の形になっているものが分類され積み重ねられていて、中には人間用の古着で仕立てた庶民の衣裳に使えそうなものも。また役のイメージに合わせて同じ緑でも明るいトーンのものからくすんだ色までさまざまなバリエーションが並べられていた。

赤姫の衣裳に施された刺繍。

赤姫の衣裳に施された刺繍。

人間と人形の衣裳の違いを聞くと「人間の着物は、身頃と呼ばれる胴体の部分に二幅の布が必要ですが、人形の身頃は一幅。人間の着物とは、バランスが違うんです」と説明してくれた。「そして一番の特徴は、背穴が開いていること。人形遣いさんは、ここから手を入れて、かしらの胴串を持って操作されます」と、背中の穴を見せてくれ、「人形に、実際に糸針を使って、衣裳を着せていくのは主遣いさんの仕事なんです。公演が終わると、その糸を切ってばらした状態でお戻しいただきます」と話してくれた。

また、かしらの振り分けは人形遣いが行うが、衣裳はどうなのだろう。「演目が決まったら衣裳部で衣裳を用意し、アイロンをかけて、人形遣いさんにお渡しします。準備する過程で、例えば最適な衣裳がなかったときや、傷んでいたときは新しく作ったり、修理することもあります。役に合った柄をこの布の中から選び、仕立てていくのですが、大体普通の着付けだと2・3日あれば完成しますね」と木下さん。さすが職人技ですね、と言うと「人形の衣裳は人間の着物と違って、粗く縫わないと表に響いてしまいます。元々和裁の勉強をしていて、人間の着物しか仕立てたことがなかったので、最初はそこが難しかったですね。今では、細かく縫うほうが難しいくらい(笑)」と笑う。さらに「衣裳は消耗品なので、衣裳係としては傷んできたら新調したいのですが、人形遣いさんとしては使い込んだもののほうが馴染んで使いやすいみたいで(笑)。新しいものより古いもののほうを好まれることもありますね」と現場ならではのエピソードも教えてくれた。

赤姫の衣裳。

赤姫の衣裳。

衣裳部屋に入ってすぐに目に飛び込んでくる、衣裳たち。

衣裳部屋に入ってすぐに目に飛び込んでくる、衣裳たち。

人形を肉感的に見せるために…

タンスの前には、これから使用される予定の衣裳が小さなメモと一緒に紐で括られていた。そこには、8・9月公演の衣裳も。木下さんはその1つを広げながら「滅多に上演されない『北嵯峨の段』の松王丸の衣裳は用意がなかったので、今回新調しました。山伏の格好で、袴と法衣を着ます。文楽人形は、胴の部分は空洞なので、衣裳には“ワキ入れ布”(編集注:布幅にゆとりを持たせるために補い添える布・襠のようなもの)を付けて、立体感を作っています。あとは、女性の着物には、人間で言う長襦袢に綿を入れることで、女性らしい形にしています。男性の着物には半襦袢にも着物にも綿が入って、大きく見せています」と、肉体がない文楽人形ならではの見せ方も教えてくれた。母親役の人形の温かい包容力ある肉感や、若衆のエネルギー満ちる肉体の秘密はそこにあったのだ。