今年10月末に建て替えのため一旦閉場する国立劇場。1966年の開場以来、歌舞伎や文楽などの伝統芸能を年間を通して上演し、上演機会が少ない演目の復活や、人気作の通し上演を精力的に行うほか、解説付きの鑑賞教室を定期的に実施するなど、観客の裾野を広げる取り組みを続けてきた本劇場は、今や伝統芸能初心者から玄人まで、幅広い層から愛される劇場となった。
その国立劇場が、“初代国立劇場さよなら公演”として5月11日から小劇場で上演しているのが「令和5年5月文楽公演」だ。同公演は「菅原伝授手習鑑」を全段通しで上演する企画の第1弾で、5月は初段から二段目までを上演し、8・9月に残りの三段目から五段目までが披露される。「菅原伝授手習鑑」が文楽公演として全段通しで披露されるのは、なんと約50年ぶり。ステージナタリーはそんな大きな挑戦を前にした5月公演の舞台稽古に潜入し、義太夫を語る太夫、三味線弾き、そして人形を操る人形遣いの“三業”により繰り広げられる本公演の魅力を取材した。また特集後半では、二段目の切「丞相名残の段」に出演する竹本千歳太夫と三味線・豊澤富助が“通し狂言”ならではの見どころを語っている。
取材・文 / 櫻井美穂写真提供 / 国立劇場
「菅原伝授手習鑑」舞台稽古レポート
貴重な全段通しの機会を見逃すな
舞台稽古は、段ごとに区切られつつ、本番さながらに行われる。開幕前、舞台上ではスタッフや人形遣いたちが、大道具や小道具の最終確認を行う。板付きの人形が運び込まれ、定式幕で舞台が覆われると、緊張感が高まる中、舞台稽古はスタートした。
歌舞伎でも知られる「菅原伝授手習鑑」は、浄瑠璃の三大名作の1つ。時は平安時代、藤原時平の讒言により、太宰府流罪の刑に処された菅丞相(菅原道真)と、丞相に忠義を誓う三つ子、梅王丸、松王丸、桜丸の悲劇が、全五段にわたり展開するドラマティックな物語で、1746年に大坂・道頓堀の竹本座で初演されると大評判を呼び、約8カ月ものロングランを記録した。
歌舞伎では現在、三段目「車引」と四段目の切にあたる「寺子屋」が特によく上演されている。歌舞伎ファンには、片岡仁左衛門が丞相、中村梅玉が武部源蔵、そして坂東玉三郎が覚寿を勤め、初段「加茂堤」から二段目「道明寺」までが上演された2020年の公演が記憶に新しいだろう(参照:「菅原伝授手習鑑」仁左衛門が“親の情”で涙を誘い、玉三郎が壮絶な仇討ち魅せる)。
しかし、文楽であれ歌舞伎であれ、全段通しで上演されるのはかなりレアなこと。なお5月文楽公演は3部制で、第一部に初段、第二部に二段目が披露され、第三部は「夏祭浪花鑑」がラインナップされている。
人形のかしらから浮かび上がる、藤原時平の恐ろしい顔
まずは第一部初段の舞台稽古が行われた。初段は「大内の段」「加茂堤の段」「筆法伝授の段」「築地の段」と4つの段から成る。拍子木の音が高らかに鳴り定式幕が開くと、そこは平安時代。醍醐天皇が治める朝廷が舞台の、「大内の段」が幕を開ける。唐の皇帝の命により僧・天蘭敬が「日本の帝の絵を描かせてほしい」とやってくるが、醍醐天皇は病に伏しており僧と対面することがかなわない。左大臣・藤原時平は「自分が帝の装束を着て、代わりに対面しよう」と言うが、右大臣・菅丞相(菅原道真)は「人相で帝でないとわかるのでは」とたしなめ、醍醐天皇の弟・斎世親王を帝の代わりに立てることにし……。
「大内の段」で注目したいのは、丞相と時平の器量の違い。人形遣い・吉田玉翔が遣う丞相の動きは、極めて静かで優美なのだが、対する人形遣い・桐竹勘次郎が遣う時平は、立ち上がるにせよ、座るにせよ、1つひとつの動きが大きく、威圧的だ。帝の金色の冠を被り、帝に扮した斎世親王に視線を送る時平のかしら(文楽人形の頭)からは、恨めしげに親王をにらみつける恐ろしい表情が浮かび上がってくる。
三つ子のかしらに注目!
続く「加茂堤の段」では、太夫と三味線が出語り床に姿を見せ、4人の太夫と1人の三味線弾きがずらりと並んだ。
「加茂堤の段」は、丞相の養女・苅屋姫と斎世親王の逢瀬と駆け落ちという、丞相の身に降りかかる悲劇の発端を描いた段だが、全体に流れるムードはコミカルだ。それぞれ丞相、時平、斎世親王に牛飼舎人として仕えている三つ子の梅王丸・松王丸・桜丸は、加茂堤で居合わせ、主人の帰りを待っていた。桜丸は、兄2人を言いくるめ追い払い、斎世親王と苅屋姫の逢瀬を、自身の女房・八重と共に手伝う。照れてまともに目も合わせられない若いカップルに、じれったさを隠せない夫婦は、苅屋姫を斎世親王の乗る牛車の中に押し込めるが……。
この段の三つ子たちは同じ服を着ていて“三つ子”感が強いのだが、よく見ると顔の造形はそれぞれ異なる。文楽人形のかしらは約80種類あり、かしらによりその役のキャラクターが表現されているのだが、梅王丸はきりりと凛々しくも、意志の強そうな顔つきの“検非遺使”というかしら、松王丸は力強さのある、男性的な顔つきの“文七”というかしら、そして桜丸は線が細く、優しげな顔つきの“若男”というかしらが用いられている。かしらに注目し、それぞれのキャラクター像に想像を膨らませるのも、文楽を楽しむ方法の1つだ。
愛されキャラな左中弁希世
タイトルの由来ともなる「筆法伝授の段」では、四段目の「寺子屋」のメインキャラクターである、武部源蔵夫婦が登場する。帝から「書道の奥義を、才能のある弟子に伝授せよ」との命を受けた丞相は、書道の才がある元弟子・源蔵を自身の館に呼び出す。源蔵は、丞相に仕えていた頃、同じ館に腰元として仕えていた戸浪と深い仲となり、不義の罪から戸浪もろとも勘当されていた。現在は寺子屋の師匠として貧乏暮らしの源蔵だが、丞相への忠義の気持ちは変わらない。「勘当を許してもらえるのでは」と淡い期待を抱く源蔵だが、丞相を前に、緊張で顔もまともに上げられない。しかし、丞相から詩歌を写すよう求められると、源蔵はそれまでの恐縮した様子から打って変わって、夢中で筆を走らせ、見事な筆跡で詩歌を書き上げた。
この段以降、丞相を遣うのは人形遣い・吉田玉男。玉男は、丞相のすっと伸びた姿勢や柔らかく雅やかな動作により、佇まいそのものから公家としての気品を漂わせる。相対する源蔵は、人形遣い・吉田玉志が遣う。源蔵は均整の取れた知的な顔立ちだが、この場ではうつむきがちのため、思いつめた表情に見える。
源蔵の才能を見極めたい丞相と、再び丞相に仕えたい源蔵の緊張感のあるやり取りが続くこの段だが、その空気を明るく壊すのが、人形遣い・吉田勘市が遣う、丞相の弟子の1人・左中弁希世だ。口が大きく、カエルのような顔をした希世には、時平のような威圧感は皆無で、ガサツで幼稚。源蔵への嫉妬から、文字を書く源蔵の机を揺らしたり、机の下に潜り込んだり、源蔵をつついたりと、弟弟子である源蔵の邪魔をしまくる様子は、どこか愛らしい。源蔵が丞相から授けられた筆法伝授の一巻を、希世が「ちょっと触るだけ」と嘘をつき奪って逃げようとするも、ポイッと源蔵に投げられ、結局は机を背中にくくりつけられて子供のように折檻されてしまうおかしさなどは、人形ならでは。丞相の気高さ、源蔵の誠実さ、そして希世の憎めない愚かさを、巧みに語り分ける竹本織太夫は、「筆法伝授の段」に初役で挑んでいる。演じ分けの際の、太夫の表情の変化にも注目したい。
初段ラスト、源蔵夫婦が悪者たちをやっつける!
そして初段の最後の場面となる「築地の段」へ。時平の「丞相は、斎世親王を皇位につけて、自身の養女をその后にするつもりだ」という讒言により、丞相は官位を剥奪されたうえ、太宰府に流罪となる。梅王丸は丞相を助けようと立ち上がるが、丞相自身に制され、「言うことを聞かないのであれば勘当する」と言われてしまう。「筆法伝授の段」と雰囲気ががらりと変わり、劇的に物語が動いていくこの場では、すでに勘当された身である源蔵が梅王丸に代わり、丞相のために大立廻りを披露する。前の場では思いつめた表情にも見えた源蔵は、この場では非常に頼もしく、全身で忠心に厚い様子を見せる。戸浪も小刀を携え参戦し、時平側の悪党たちを、時平側に寝返った希世もろともやっつける様は、胸がすく。お家存続のため、梅王丸と源蔵夫婦が一丸となり、菅秀才を館から連れ出そうとするシーンは、大きな見せ場の1つ。見つかってはいけない、そして大事な菅秀才に怪我をさせてはならないというスリリングな状況は、豊竹靖太夫の激しい語り、鶴澤清馗の場の緊迫感を助長する三味線の音色からも伝わってくる。
愛し合う若いカップル…しかし状況は一転
第二部は、二段目「道行詞の甘替」でスタート。二段目は「道行詞の甘替」「安井汐待の段」「杖折檻の段」「東天紅の段」「宿禰太郎詮議の段」「丞相名残の段」の6つから成る。浅葱幕がぱっと落とされると、そこには路上で子供相手に飴を売る桜丸の姿が。この段では、飴売りに身をやつした桜丸と、苅屋姫と斎世親王が、苅屋姫の生家がある河内国・土師の里へ向かう道行きが描かれる。人形遣い・吉田玉佳が遣う桜丸が、小さな子供の人形に囲まれ、飴を手にした両手を上げ下げしながら踊るように飴を売る姿は、楽しげに見える。苅屋姫と斎世親王は愛し合うのに夢中で、苅屋姫が披露する、笠を鏡に見立て化粧をする舞は愛らしく、まさに恋する少女といった情感がある。しかし丞相の配流を耳にした3人は、動揺を隠せない。苅屋姫と斎世親王を荷台に隠し、桜丸は丞相がいるという摂津国・安井の浜に急ぐ。
涙し、平伏し…苅屋姫と斎世親王の必死の訴え
「安井汐待の段」は、なかなか上演される機会のない段。東京で上演されるのは、51年ぶりのこととなる。ここでは、丞相を護送する判官代輝国と、苅屋姫の実の姉・立田前が登場する。安井の浜で船の汐待ち(編集注:天候が変わるのを待つ)をしている輝国一行の前に、桜丸に伴われ苅屋姫と斎世親王が現れる。苅屋姫は両手でワッと顔を覆い、斎世親王は右袖であふれる涙を拭い、それぞれ小さく肩を上下させながら悲しみを表現。2人は身体を小さくして平伏し、輝国に丞相の無罪を訴える。
そこに立田前がやってくると、それまで悲しみに暮れていた苅屋姫は「姉さま!」と大喜び。立田前の元へぴょんぴょんと跳ねながら駆け、身体いっぱいでうれしさを表現する苅屋姫を、立田前は冷たく一蹴する。そして2人の母で、丞相の伯母である覚寿の悲しみを語り、「老いた母のためにも、どうか汐待ちの間、自分たちの館で休息してほしい」と輝国に乞う。輝国は堅物風の男だが、苅屋姫と斎世親王を諭したり、立田前の願いを受け入れるなど、情に厚い男だ。人形遣い・豊松清十郎は、足をかっ開き、どっかと座る動作で輝国の大きさを強調しつつ、しっかりと相手の顔を見て話を聞く様子で、輝国の誠実さを表した。