共同ディレクター・川崎陽子×塚原悠也×ジュリエット・礼子・ナップが語る「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN」|10年後、20年後に“舞台芸術”と言われるものは何か

京都を拠点にした国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」(以下「KEX」)の「2021 AUTUMN」シーズンが10月1日にスタートする。2010年から毎年開催されてきた「KEX」は、2020年にディレクター1名体制から3名体制へ変更され、新たなフェーズを迎えた。新ディレクターに就任したのは、舞台芸術プロデューサーの川崎陽子、パフォーマンス集団contact Gonzoのメンバー・塚原悠也、そして「KEX」に2017年から広報チームとして関わってきたジュリエット・礼子・ナップの3人。しかし新体制で迎えた初年度は、新型コロナウイルスの影響を受け、「2021 SPRING」として翌年2021年2・3月に延期に。「SPRING」で感じた手応えと課題をもとに挑む「AUTUMN」には、「もしもし?!」をキーワードに、“声と身体の関係性”に注目した、国内外のアーティストによる作品がラインナップされた。

ステージナタリーでは、コレクティブとして「KEX」を作り上げるディレクター3人に、オンラインでインタビューを実施。キーワード「もしもし?!」や、“京都”という土地が「KEX」にもたらすもの、さらに複数でディレクションを手がけることへの思いについて語ってもらった。

取材・文 / 鈴木理映子撮影 / 松見拓也

「SPRING」で感じた“意外性”と“変化”

──この3月末に「KEX2021 SPRING」を終えて、およそ半年で「AUTUMN」の会期が始まろうとしています。「SPRING」はコロナ禍のために、開催時期の延期や上演方法の変更を迫られつつの運営でしたが、その手応えはどんなものでしたか。

左から塚原悠也、川崎陽子、ジュリエット・礼子・ナップ。

ジュリエット・礼子・ナップ 3人でディレクションする最初のフェスティバルで、プログラムの構成も新しくなる中で、新型コロナの対応もしなくてはならなかったんですよね。だから「KEX」がどういうフェスティバルであるべきかを常に考えつつも、それを深める時間までは持てなかった気もします。ただ、アーティストが来日できないという事態に対しては、急遽プログラムを変更しつつも、作品はちゃんと紹介できた。それから、関西ローカルのアーティストにフォーカスした国内の演目にも手応えがありました。以前から“関西ベース”とか“ローカル”ってどういう意味なのかということには関心を持っていましたけど、コロナ禍でより重要なテーマになった気がします。

川崎陽子 私は、こういう状況の中でフェスティバルを開催すること自体にもっと抵抗があるかと思っていたんです。でも意外とチケットも買っていただけて。やはり皆さん、外に出ることも、何か観る機会も減ったぶん、待っていてくださったんだなというのが印象的でした。たとえ映像上映であっても、新しい作品に出会いたいっていう関心の高さを感じましたし、ディレクターが交代して、これからフェスティバルがどう変わっていくのかということにも興味を持って観てくださっているのかなと思いました。

塚原悠也 コロナ禍が本格化してから半年以上経っての開催になったこともあって、いちばん最初に劇場で垣尾(優)さんの「それから」を上演したときはすごい懐かしいような気持ちになりました。「そういえば僕らの仕事ってこういうことやったな」って思ったし、お客さんもちゃんと来ていただけていて、その懐かしさを共有できた気がしますね。

川崎陽子

川崎 あのときは同じ劇場、空間で集中して観るっていうことの、“懐かしい新鮮さ”を、演じ手も観ている人も感じていましたね。ただ、会期の終わりに上演したママリアン・ダイビング・リフレックス / ダレン・オドネルの「私がこれまでに体験したセックスのすべて」(参照:60歳以上のシニアが人生を語らう「私がこれまでに体験した~」京都公演が開幕)では、それとは違った手応えもありました。アーティストはカナダが拠点、出演者は日本の人たちだったので、劇場に大画面をおいて、オンラインでつないで上演するというハイブリッド形式をとったんですけど、「こういうやり方もあるんや」と好奇心を持って受け入れてくださっている感じがして。こういう実験はコロナ禍以前であればなかったでしょうし、観る方もそれを挑戦として受け入れてくださるようになったんだなと思いました。

──そうした経験を経て、2回目の開催を目前にしているわけですが、先日行われた記者発表会(参照:2年目の“実験”を見届けて、KEX2021秋のキーワードは「もしもし?!」)では、冒頭に「ライブで上演します」と発言されていたのが印象的でした。

ナップ オンラインというツールを使うこと自体は良いと思うんです。でも、「KEX」で紹介するような舞台芸術作品をパソコンの中だけで成立させるのは難しいんじゃないかな。お客さんと時間と場所を共有することが結局大事なんじゃないかってことはもう、昨年の夏くらいには話していましたね。

川崎 今はオンラインを使った試み、プロジェクトもたくさんありますよね。だから、できるだけこの3人でも体験してみたんです。画面と自分との間に何かしらの親密性を生み出すタイプの作品では、確かにこれは機能しているなと思うこともありました。でも、私たちがやりたいのは、それとは違うんじゃないかと。ただ、例えば今回やる「Moshimoshi City」というプログラムは、その経験を応用したものでもあるんです。

ナップ アーティストたちが構想した架空のパフォーマンスを、舞台になっている場所で、音声を通して、1人で体験するんです。何十人ものお客さんが一気に1つの場所に集まるというのではないけど、ライブ性、演劇性とは何かを考えさせるものになっていると思います。

どこか別の次元に問いかけるような、「もしもし?!」

──今回のフェスティバルは「もしもし?!」というキーワードを軸に展開されるそうですね。日常生活ではつい通り過ぎてしまう“かそけき声”に耳を傾けること、あるいは、通信について、発声や発語に伴う身体性について、など、さまざまな方向に思考が広がる言葉です。

塚原悠也

塚原 3人で、「今、こういうアーティストこういうことしてるね」というような情報共有をし、話し合いながら時間をかけてプログラムを構成していくんですけど、できあがったものを見渡して「あれ、ちょっと声に関する作品が多くない?」と。さっきも話に出たオンラインを使った作品での体験や、打ち合わせや取材もZoomが中心になってきたこと、そういう積み重ねもあったうえで、声とか通信に関係する言葉が出てきた感じです。

川崎 そこまで意図はしていなかったけど、われわれなりの今が、プログラミングにも映し出されているんですね。それに合致した言葉が「もしもし?!」だった。

ナップ 難しいこともポップに表現できて、わかりやすいキーワードになりました。でも、「もしもし?!」に決まるまでにはけっこう時間がかかりましたよね。哲学の本を読んだりもしたけど、「これじゃない」って感じで(笑)。

川崎 日常的に使う言葉のほうが良いなと思ったんですよね。わりと追い詰められた会議のときに、塚原さんがGoogle Docsに書き込んでたのを見つけました。

──「?!」に込められた意味はありますか。

塚原 やっぱり今って、誰もが不明な状況の中に突っ込んでいってるような状況じゃないですか。だから、「もしもし」と問いかける先も明確ではないのかもしれない。むしろ「どうなってる?!」というような。楳図かずおのマンガで、どこか別の次元に問いかけたりする場面があるじゃないですか。その「もしもし?!」のイメージです。

──Webサイトなどで公開されているプログラムの概要を見ていくと、「他者への眼差し」、それから「近代」という言葉がたびたび登場します。

ナップ それは、“テーマ”というより、例えばジェンダーバランスと同じように、常に気にしないといけないものだと思うんです。

塚原 なぜ日本で国際的な舞台芸術祭を開催するのか。なぜ京都なのか、近隣のアジア諸国はそれをどう捉えるのかといったことは、よく考えます。また、日本の芸術教育のおおもとはヨーロッパから輸入されたもので、われわれはそれを学ばせてもらってアートをやり、その中で、どう地域的な特色を出していくかを考え続けてきた側面がある。でも、そのフェーズはそろそろ終わらせたい。ならば、アーティストの拠点地だって、ヨーロッパだけじゃなく幅広くバランスを取っていきたいし、何よりインターネットの発展で、情報も上流から下流へという流れ方ではなくなっている今なら、これまでの芸術の価値観、ルールも相対化できるんじゃないか。このチームでは、そんな話もけっこうしています。またそこで、近代、特に戦後の日本の発展が大きな関心事になっていることも確かです。ただ、あんまりこのことを啓蒙主義的に、深刻にやりたくはないんです。こういったテーマにも、面白く軽やかに取り組める作家はたくさんいますから、そういった人たちにフェスティバルに参加してもらいたいと考えています。

「KEX」の3つの柱、「Shows」「Kansai Studies」「Super Knowledge for the Future」

──「KEX」は、上演作品の「Shows」、地元の関西に足場をおいたリサーチプログラムの「Kansai Studies」、そして作品と社会とをつなぎ、対話を深めるプログラム「Super Knowledge for the Future[SKF]」の、3つの柱で構成されています。特に今回のSKFでは、天台仏教や西田哲学、京都三山と芸術についてなど、作品との関係を保ちつつも、それだけに収斂しないよう、これまで以上に企画の視線を高くしていると感じました。また、そこには、個別の作品を読み解くというよりは、フェスティバルのプログラム全体を、1つのカルチャーとして届けようという意図が感じられます。

川崎 そうなんです。それがやりたいことの1つで。

ジュリエット・礼子・ナップ

ナップ だから、「SKF」も“関連トーク”ではないんですよね。この作品がテーマにしていることについて語りましょう、ではなくて、もう少し広い視点で、そこで扱われていることが、どんなふうに社会とつながるのかを考えてもらう機会になったら面白いなと思います。

──作品が生み出された背景にある歴史、社会環境、技術、同時代の作品などを知ることは、観劇体験を豊かにしますが、一方で“答え合わせ”的な要素をもってしまったり、“教養主義”と見られたりすることもありますね。

塚原 そういった文脈に基づいて作品を読み解き、作品に内包された答えにたどり着くというようなある種の文脈やインテリジェンスを必要とされるゲームのような状況は、舞台芸術だけでなく、現代美術の分野でもよく見られます。それが一種の分断を生み、本来はそういったことを楽しめたはずの人までも疎外しているんではないか。「私、それ、わかれへんし」って言っちゃってるけど、それは違うんじゃないか……というか、「お互いもったいないな」という気がします。だからその仕組みを解除しなきゃいけない。「SKF」が“関連トーク”ではないっていうのもその1つで、どういうふうに正解を導き出せるかといったプログラムの作り方ではなく、僕らの場合はむしろ「答えはないんだ」ということをどう伝えていけるかということが大事になるのかなと思っています。

──プログラムの中には、いわゆる“演劇”“舞踊”のスタイルにハマらない作品もたくさんあります。どこまでが“舞台芸術”か、ということについて、「KEX」ではどんな考えを持っていますか。

ナップ 10年後20年後に何が舞台芸術と名乗られるのか、どこまでがその境界線なのか。「KEX」はエクスペリメント=実験を大前提としていて、エッジを標榜しているので、そこを広げたり、ひっくり返したりしながら新しい表現に挑戦しているアーティストに注目しているということはあると思います。

塚原 「KEX」は、実験を推し進めようとするフェスティバルで、その対象が舞台芸術という概念です。ただ、必ずしもそれは、オーセンティックな演劇、ダンスといった舞台芸術のあり方との二律背反的に分けられるものでもないはずです。例えば、「SPRING」で上演された垣尾さんの「それから」は、あえてすごく正面性の強い舞台を作ろうとしていて、“一周回った実験”みたいになっていましたし、一方で中間アヤカさんの「フリーウェイ・ダンス」みたいに「客席なんてない」っていう発想で作られた作品もありました。そういう多彩な実験ができる場であるってことは大事かなと思います。