目まぐるしく変化していく日々、ふと非日常の時間や空間に浸りたくなったら、“ゆるりと歌舞伎座で会いましょう”。2023年に新開場10周年を迎える歌舞伎座は、新年を寿ぐ演目がずらりとそろった「壽 初春大歌舞伎」で幕を開けた。ステージナタリーでは第三部の「十六夜清心」で初役に挑戦する松本幸四郎、中村七之助にインタビュー。片岡仁左衛門、坂東玉三郎からの“教え”や、お互いに対する思い、そして2023年の抱負などを和やかに語った。なお今年は、「弁天小僧」「髪結新三」「三人吉三」など多彩な演目で知られる歌舞伎狂言作者・河竹黙阿弥の没後130年でもある。特集の後半では、「今月の黙阿弥」と題し、ミニコラムも掲載している。
取材・文 / 川添史子撮影 / 藤記美帆
清元に乗りつつも、芯を持つ
──歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」第三部は「十六夜清心」。美しい修行僧清心を幸四郎さん、その恋人である遊女十六夜を七之助さんが、片岡仁左衛門さん、坂東玉三郎さんのご指導のもと初役で勤められます。
松本幸四郎 音楽的にも視覚的にも大変に美しいお芝居ですよね。物語、ドラマとしてしっかり成立するお芝居を目指したいと考えています。
中村七之助 今回は稲瀬川から百本杭の三場だけではなく、あまり上演されない後の場面も出ますし、お客さまにたっぷりと楽しんでいただければと思います。
──見どころを順に伺います。まずは序幕。女犯の罪で追放になった清心と、廓を抜けてやってきた十六夜の二人が、心中する場面で始まります。朧月が照らす中、道行で使われる清元「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)」に乗せて2人が覚悟を決めるくだりはしっとりとした情緒があり、有名な見どころ聴きどころです。
幸四郎 ここで、どれだけ好き合っている2人なのかがしっかりと伝わらないと、全体が成立しません。(振りや決まりは)あくまで芝居の中のアクセントで、「踊りになってはいけない」と教えていただきました。
七之助 清元に乗って動いていくわけですが、そこには心、芯がないといけないんです。でも実(写実)でもいけない。ここがまず難しくて。玉三郎さんからは、「理屈で考えず、お客さまがあれよあれよと思っているうちに、運ぶところは運び、聞かせるところでは聞かせて緩急をつけなさい。ただ流れに乗ってしまったらとても退屈で窮屈な作品になってしまうから」と教えていただきました。
幸四郎 耳に心地よい、河竹黙阿弥さんらしい七五調のセリフは修飾語も多く、つい気持ちよく歌いたくなりますが、ただ音楽のようにセリフを言っているだけだとドラマにならない。つまりメリハリですよね。
七之助 玉三郎さんは「清元をちゃんと聴いて使いなさい」ともおっしゃっていて、切れた鼻緒を直す十六夜が、ふっと上手を見る動きについて質問したら「あれは音楽を聴いているのよ」と教えていただきました。〽縋る袂もほころびて色香こぼるる梅の花、さすがこなたも憎からで……ふと耳に入ってきた音楽や詞章(歌詞)が、だんだんと十六夜の心情に重なっていくような感覚、だんだんと清元と一体となるような空気を作れたらと思います。
──確かに「他所事浄瑠璃(よそごとじょうるり=別の場所から聴こえてくる音楽)」として清元を効果的に用いる演出は黙阿弥の得意技ですから、その解釈はとってもステキです……。そうして手を取り合って身を投げた2人ですが、十六夜は俳諧師白蓮に助けられて妾となり、清心も岸に上がって、2人とも命が助かってしまいます。
幸四郎 心中がクライマックスのお芝居はたくさんありますが、これは、心中から始まる物語。しかも“心中の失敗”なわけで、ある意味、珍しいお芝居ですよね(笑)。
意外な展開の連続…“まるで芝居のよう”
──“意外な展開”はまだまだ続きます。命が惜しくなった清心は、若衆求女から金を奪い……悪への転身の瞬間も見どころです。
幸四郎 偶然、癪を起こして苦しむ求女の胸をさすってあげていたら、懐に金を見つけて「これも互いの因果だから、貸してちょうだい」なんて、清心はかなりすごいことを言い出します(笑)。そもそも最初「十六夜と死ぬしかない」と思い詰めていたのに、助かってみたら命が惜しくなり、介抱していた人の金を奪い、あやまって殺してしまう。その後、殺したことを悔やんで自害を試みるも「痛い」と断念……と思えば、遊山船の騒ぎが耳に入って「しかし待てよ」となる。短い人生なんだから金さえあれば楽しく暮らせる……とコロコロ気持ちが変化し、心の動き1つひとつが生々しいんです。でもこうした弱さを持った完璧ではない人間も、黙阿弥さんの手にかかると、面白く見えたり、かわいらしく見えたり、カッコよく見えたり、芝居として心躍るものとなります。ある意味とても人間らしい部分でもあり、僕はとても好きですね。
──揺れる心の動きを細かく追っていくと、1人の中に善悪が同居している感じがリアルですし、とても人間くさいですね。人の心に“魔がさす”のは実際こんな瞬間かもしれませんし。
幸四郎 そう思いますね。真剣に生きれば生きるほど人って滑稽に見えるし、共感も生まれます。考えてみれば、何かに集中していても、3分後には真逆のこと考えていたりするのが人間ですから。
──その後の展開もジェットコースターです。後半、清心は鬼薊(おにあざみ)の清吉、十六夜はおさよとなって2人は再会し、一緒に悪事を働くように。どんでん返しが用意された強請の場面(雪の下白蓮本宅の場)もワクワクします。
幸四郎 突然一緒に仲良く出てきますので、前半と後半でまったく違うキャラクターになった2人を見て「え、こんなになっちゃった」とお客さまはびっくりされると思いますが(笑)、ここでも“変化”を楽しんでいただければと思います。
七之助 冷静に考えたら十六夜もちょっとダメな人間なんですよ(笑)。でもそこには廓で流されて生きてきた人の哀しさも感じますし、うまいことお芝居のウソでお見せできればと思います。今回は2人の再会の場面(箱根山中地獄谷の場)は出ませんが、むしろ、このガラッと変化してしまった人間性を、面白く感じていただけたら成功です。なんせ劇中、「まるで芝居のようだ」なんてセリフもあるぐらいですから(笑)。
──優美な男女の情話がだんだんと退廃的な白浪物になっていく……この変化を作者側は織込み済みってことですよね。洒落てます。
七之助 本当に。玉三郎のおじさまからは、六代目(尾上)梅幸のおじさまのおさよの「毎晩のんだ旦那の煙管、わたしゃ昔を思い出すよ」というセリフがとってもステキだったらしい……なんて、貴重なお話も聞かせていただきました。
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“二人歩きができる”“全幅の信頼を寄せている”関係性