inseparable「変半身(かわりみ)」麿赤兒×松井周 対談│言葉は身体を裏切る、身体は言葉を裏切る

人間を物質的存在の1つと捉え、テクノロジーの進化にどう“適応”していくかをシャープかつフラットな目線で描き出す劇作・演出家の松井周。そんな松井にとって、「人間は全部マテリアルだ」と、その肉体を通して表現し続ける舞踏集団・大駱駝艦の麿赤兒は、ジャンルこそ違えど、同じ道行く大先輩に違いない。

共に新作を控えた10月下旬、ステージナタリーでは麿と松井の初対談を実施。2人は席に着くなり笑顔で言葉を交わし、話はぐっと深いところへと入り込んでいった。

取材・文 / 熊井玲 撮影 / 金井尭子

倫理や境界線を超えた先へ

麿赤兒

麿赤兒 「変半身(かわりみ)」の台本を読ませていただいて、上手なもんだなあと思いました。

松井周 いやいや、とんでもないです。僕も大駱駝艦さんの舞台映像を拝見して、特に「超人」「擬人」(2017年)がすごく面白かったです。

麿 あれはAIの将来性と言うか、人間とテクノロジーがどう折り合っていくのかということを問題にしたものだったんです。「変半身」はゲノムがテーマだから、生物学的な話ですよね。あなたはずっとゲノムに凝っているんですか?

松井 凝っているというか……そうですね(笑)。みんながゲノムをいじりだしたら価格も安くなって、もっとカジュアルに、例えばスターバックスでコーヒーを飲むような感じでゲノムを取り入れるようになるんじゃないか、そうなったらどんなふうに人間が変わっていくのかということを知りたいなと思っていて。

麿 まずは利権問題で高くつくでしょうから、庶民まで降りてくるには革命でも起こさないといけないかもしれませんね(笑)。また「そんなの人間じゃない」と言う人が出てきたり、いろいろ問題が起きてくるでしょうが……。でも、そういったことがあなたの台本には全部書かれていたから、題材としてとても面白いし、これからこういった問題がどんどん出てくるんじゃないかと思いました。今はDNA操作でなんでもできちゃいますから。

松井 そうですよね。人間がこれまで思ってきた“人間らしさ”とは違う領域に入ってきたと言うか。例えば動物と人間、虫と人間といった境目がどんどんあいまいになっていくような気がします。

麿 ミュータントみたいなものとかね。昔のホラー映画ですけど、ハエ男ってあったでしょう?

松井 あ、大好きです。「ザ・フライ」ですよね。

麿 そうそう。あれは面白いなと思っていて、ああやってハエのいいところばかり採れればいいですけどね(笑)。正直、姿形はどうでもいいと思うんですよ。あとは人間個人の自我がね、どこまで自分の中で折り合いをつけられるか。“自分”なんてものは薄っぺらなものですから、それはいくらでも改造されて別の世界が生まれればいいと思うんだけど。マッドかグッドか知りませんが、サイエンティストたちの好きにさせて徹底的にやってみたらと思っていて、僕はそういう派なんです。

松井周

松井 そうでしたか!

麿 うん。倫理とかそういうものをとっぱらって、欲望のままに人間どもがやってみればいい。それでパーになるなら、それはそれでもいいんじゃないのって。

松井 実は僕も似たようなところがありまして(笑)。男女の区別とかいろいろなことの境目が、どんどんなくなっていけばいいなって。最近読んだある記事で、性別が700くらいある生物がいると書かれていて、そんなに性別があったら楽しいだろうなって。

麿 700?(笑) 想像がつかないね。でも宇宙を理解しようと思えば、11次元までわからないといけないわけだけど、11次元なんて全然想像できない。

松井 確かに(笑)。せいぜい4次元までですね。

麿 そういった、テクノロジーを含めたサイエンスにどう斬り込んでいくか。あなたの台本で言うと、(登場人物の)秀明のように状況を“ただ見てるだけ”ってこともあるだろうし、逆にテクノロジーなんて関係なくギリシャ神話には馬と人間が一体化した存在が出てくるじゃないですか。あなたの台本の中にも、イルカと獣姦する人間が出てくるけれども、これからはもっとそういった存在が出てくるのかなと、台本を読みながらいろいろと考えました。

松井周
麿赤兒

人間はマテリアル、情は作用の違いに過ぎない

──大駱駝艦では身体を知るためのメソッドとして、野口体操(編集注:野口三千三によって創始された、身体を1つの原始生命体として捉える体操法)を基本にした“駱駝体操”をされています。麿さんはよく“身体を空っぽにすること”の大切さについてお話されますが、松井さんもサンプルの公式サイトで「私がサンプルでやりたいこと」について、「言語活動を行う“自我”のない動物として人間を捉えたいと考えて作品を作ろうと思いました」とおっしゃっていますね。

松井 僕は人間の偽物を作りたいとずっと考えていて、そもそも“自我”という考え方があまりしっくりこないんです。

麿 まあね。自我ってフロイトの時代の遺物ですし、人間には余計な知識があるものですから、「俺たちの記憶はどうなるの?」なんて思い始めると、なかなか思考がジャンプできなくなる。でも実は記憶も一種のフィクションと捉えられるし、なんでみんなが芝居に共感するかと言えば、誰もが皆、同じようなときに同じような体験をしているから「あの子は私みたいだ」「この話は私の話だ」と共感するわけです。でも、その記憶のつながりからすっと離れて、「あんた誰だっけ?」「あんた誰だっけ?」という関係からでも1つの世界は成り立つわけで……。

左から松井周、麿赤兒。

松井 そのお話、すごく面白いです。私たちは記憶とか思い出が大事だと思っているけれど、例えば認知症になった人が、毎日すごく新鮮に「あなた誰ですか?」って目の前の人に尋ね続けるのも、人間の1つの生き方だと思うんです。

麿 テクノロジーは、それをある意味ほとんど否定しようとしているわけでしょ。AIみたいに、“誰々の記憶”っていうチップを入れたりして。

松井 となると、「人間ってなんだろう」と思うんです。

麿 なんでもいいんですよ、もともと空っぽなんだから。僕は人間って全部マテリアルなものだと思ってるんです。心がどう、内面がどうってよく言われるけど、内面なんて一番面白くない言葉だと思う。内も外もあるものかですよ。

松井 本当におっしゃる通りですね。

麿 “情”だって化学反応の作用の違いに過ぎないと思っていて、(感情を構成する)物質同士の作用の違いによって、あるときは人に対して優しくなったり、別のときは「この野郎!」ってキツくなったりするだけで……。そういうロボットを、ソフトバンクなんかが開発してるでしょ。

松井 ああ、そうですね。だから、人間らしくなることがAIの最終目的なのか、それとも逆に人間とは別のところまでいっちゃって、人間を利用して、人間を血液のように使う段階にいくのかなと僕は思っていたりするんですけど……。たまに僕が話すのは、例えば、自動運転が当たり前になったときに、自分の車で荷物を10個北海道に運べば、カニ食べ放題が無料になる!って言われたら、喜んでやるかもしれないけど、それはAIによって荷物を運ばされているだけとも言えるし。そうなると、もう人間がAIを使うのか、AIが人間を使っているのかわからないし、人間はそこまでいくことを良しとするのか、悪しとするのか、ということになってきて……。

麿 歳を取ってくると正直どっちでもよくなってきて、「やってろやってろ、どうせ100年で終わる人生なんだから」と思えます。“虚無じいさん”ですね(笑)。