松田正隆×長島確「フェスティバル/トーキョー18」|演劇は今、抵抗できているか

観客が作品に何を期待しているか

──先ほど松田さんは、長崎、広島、福島と被爆3都市を上演するイメージが当初からあったとお話されました。「福島を上演する」がスタートした16年当時、まだ震災から日が浅く、劇作家たちの間では福島を作品の中で取り上げること自体に躊躇のようなものがあったと記憶しています。松田さんが、広島より先に福島にフォーカスすることにされたのはなぜですか?

松田 うーん、どう言ったらいいかな……後回しにしたくない、という気がしましたね。「アンティゴネー」をやるときからずっと福島の取材をしていて、ちょうどあの頃、帰還困難区域が解除され始めたこともあり、今起こっていることを取り上げたいと。福島を広島より先に取り上げた理由はあまり考えていませんでしたが、2020年を過ぎてから福島のことを考えるのと16年から考えるのはちょっと違うと思ったし、資金という面でも「フェスティバル/トーキョー」と一緒にできるチャンスがあるならと思いました。また福島の問題は11年に突然起こったことではなく、20世紀の、核の時代の問題の1つとして考えなきゃいけないことで、原発事故はその1つの衝撃的な出来事だった。なので「福島を上演する」ができる機会があるならそちらをと、マレビトの会のメンバーと話しつつ、やることにしました。

長島確

長島 「長崎」に対して「福島」のほうは、まだいろいろな事態が進行中だったり生々しかったりという状況の中で作られ、こう言っていいかはわかりませんが観る側の期待みたいなものも付いて回りやすい状況だったと思います。そういうものから自由になれる距離がまだできにくいタイミングだったから、松田さんはどうするのかなと思っていました。1年目に行われた4日間の上演はすべて拝見したんですが、なんて言うんだろう、福島の今の状況を知りたいっていう欲求には、ある意味まったく答えてくれない作品なので、肩透かしを食らった人もいただろうし、でもそれが大事だったと思います。その一方で、「長崎」のとき同様、日常の時間みたいなものからいろいろ垣間見える部分もあり、そこがむしろ震災から5年経った福島のある種のリアリティなのかなとも思えたりして。いろいろ考えさせられる上演でした。なので、「長崎」のときは無対象のマイムとかスタイル自体の面白さにすごく惹かれてそこまでで精一杯だったんだけど、「福島」では何が捉えられているのか、そして例えば福島をテーマにした作品に観客が何を期待してしまうのかということを考えましたね。

松田 ほう。

長島 そこから繋がって考えたのは、「フェスティバル/トーキョー14」のときに「羅生門|藪の中」という作品に関わっていて(編集注:パレスチナのアルカサバ・シアターのディレクター、ジョージ・イブラヒムがアーティスティックディレクターを、坂田ゆかりが演出を手がけ、芥川龍之介の「羅生門」「藪の中」、黒澤明監督の映画版をもとに描かれた戯曲「Rashomon」を題材にした作品を上演した。長島はドラマトゥルクとして参加)、ガザ侵攻で空爆が激しかった年だったんですが、創作チームはそのことをそのまま作品の中で取り上げるのはやめようと話し合って決めました。でもおそらくその話題を期待したお客さんがけっこういて、がっかりされて。

松田 何ががっかりなんだろうねえ。

長島 そうなんですよ。だから何を期待されて、何を出せば満足されたのかなって、けっこう考えさせられました。そのことと同じかわかりませんが、あの時期に福島を取り上げて「福島を上演する」というタイトルで上演された作品に、我々観客がうっかり何を期待して観にいくのかということは、突きつけられましたね。

体験を言葉に変換、さらに上演

──参加する作家の顔ぶれは、若手の劇作家や映画監督など毎回異なります。松田さんは参加する作家さんたちにどのようなオーダーをされているんですか?

松田正隆

松田 オーダーするのは、さっきお話したように、福島に身を置いて描写するっていうこと。それ以外は特にないですね。その場に身を置いて、そこで得た経験をしゃべるんじゃなくて、その経験とか空気感をいったん戯曲にする、そのことが重要なんじゃないかなって。

長島 それが重要なのはわかるのですが、なんで重要なんですかね?(笑) というのも、2010年の「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」は俳優が現地に行って体で受け取ってきたものを体現する作品だったと思うんですが、「長崎」以降は戯曲が挟まっていて、それはかなり大きな違いだと思うんですが。

松田 ある体験を戯曲という言葉だけの空間に変換する必要があると思ったんですよね。そして戯曲として1回固まったものをまた上演し生まれた空間はどこにでもない空間で、ある種の“出来事”になるんじゃないかと思ったんです。つまり福島で俳優が得た体験を再現するのではなく、俳優とは別の人が言葉で書いた体験を、実際にはそこに行っていない、体験してない俳優がまるで体験したように語るっていう。そうすることでどこにもない経験を創出できる気がしたんです……って答えになっていますか?(笑)

長島 今、松田さんは出来事とおっしゃいましたが、そのことってまさに“出来事”の特性と結び付いてると思います。出来事はモノではないので、保存も持ち運びもできず、その都度“起こす”しかない。取材に行った先で得た経験に基づく出来事がもう1回劇場でも起こるんだけど、それはモノの現物を持ってくるのとは違ってて。

松田 そうそう、違う。

長島 その場に行って経験したその身体を(会場に)持ってくるので一度も変換が起こってない。経験した身体が物体として運ばれてきて展示されるだけなんです。でも「長崎」や「福島」では戯曲を通っていることで、物体を移動させて現物を展示するのではないやり方です。

松田 そうですね。物ではなく言葉、出来事になると思ったんです。そのときの俳優は、俳優自身のキャラクター性とかはなんでもよく、その人たちが触媒となって何を起こすかのほうが重要じゃないかと。

「アトミック・サバイバー」と「福島を上演する」

──リサーチという点では、長島さんも「アトミック・サバイバー」や、「フェスティバル/トーキョー17」で上演された中野成樹+フランケンズ「半七半八(はんしちきどり)」など、実際の場所を取材し作品を立ち上げるというクリエーションに携わられてきました。

長島確

長島 福島のことで言えば、演出家の阿部初美さんと共同で07年に作った「アトミック・サバイバー」は、福島をはじめ核燃料サイクル全体をテーマにした作品で、05年から準備を始めて福島第一原発や福井、青森、茨城にもリサーチに行きました。でもそのときのアプローチと「福島を上演する」はアプローチがずいぶん違うと思っています。「アトミック」のときはある意味で、情報の伝達こそがポイントだと思っていて、と言うのも、核燃料サイクルの問題って個人やコミュニティのスケールを完全に超えているんですね。ウランの原料を輸入してきて、燃料として精製加工されたものが各地の原発に運ばれ、使用済みとなったらリサイクルのための処理はイギリスとフランスに外注して、でも最終処分場はまだない、というようなことが個人の体験をはるかに超えたところで起こっていること。時間という意味でも半減期が2万4000年なんて、個人の仕事の任期や人生の中でとても責任を負いきれない、もっと大きな時間の流れの中で起こっている。その全体像をどう捉えるかということを考えていたので、例えばローカルな、原発立地に住んでいる誰かの話を演じるということでは絶対に捉えられないスケールの問題だというところから取り組み始めたんです。それと、絶対に当事者にはなれない、当事者の振りをすることは許されないと言う前提も考えました。クリエーションメンバーは主に東京の人間で、つまり福島や新潟など遠くにリスクのある原発を置き、そこから電気だけを集めて消費している人間たち。そういう“東京の人間”である私たちはとにかくまず“知る”ことが必要だと考えたんです。それである種のドキュメンタリー演劇を作りました。逆に言うと、「アトミック」では福島のことをドラマ演劇的に描くことは無理だろうと思ったんですが、マレビトの会ではまったく違う形でできてしまっていて……。

松田 そうですね。

長島 全然違う形でできてるのが不思議だなと思いました。

「フェスティバル/トーキョー18」
「映画作品タイトル」

同時代の舞台作品の魅力を多角的に紹介し、舞台芸術の新たな可能性を追求する舞台芸術祭。2009年のスタート以来、11回目の開催となる今回は、18年10月13日から11月18日に東京・東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほかにて37日間にわたり開催される。

マレビトの会「福島を上演する」
マレビトの会「福島を上演する」

2018年10月25日(木)~28日(日)
東京都 東京芸術劇場 シアターイースト

作:アイダミツル、神谷圭介、草野なつか、島崇、高橋知由、松田正隆、三宅一平、山田咲

演出:関田育子、寺内七瀬、松尾元、松田正隆、三宅一平、山田咲

出演:アイダミツル、生実慧、石渡愛、加藤幹人、上村梓、桐澤千晶、酒井和哉、佐藤小実季、島崇、田中夢、西山真来、三間旭浩、山科圭太、弓井茉那、吉澤慎吾(※「吉」の字は土に口が正式表記)、米倉若葉

松田正隆(マツダマサタカ)
1962長崎県出身。マレビトの会代表。立命館大学在学中に演劇活動を始め、1990年に京都で劇団「時空劇場」を結成。97年の解散まで全作品の作・演出を手がける。96年に「海と日傘」で岸田國士戯曲賞、97年に「月の岬」で読売演劇大賞作品賞、98年に「夏の砂の上」で読売文学賞を受賞。2003年より拠点を京都に移し、演劇の可能性を模索する集団・マレビトの会を結成。12年に再び拠点を東京に移した。主な作品に「cryptograph」、「声紋都市—父への手紙」、写真家・笹岡啓子との共同作品「PARK CITY」、「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」、「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」など。また13年から16年に「長崎を上演する」、16年から「福島を上演する」と、それぞれ3年がかりのプロジェクトを実施している。
長島確(ナガシマカク)
1969年東京生まれ。立教大学文学部フランス文学科卒。同大学院在学中、サミュエル・ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇に関わる。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、さまざまな演出家や振付家の作品に参加。近年はアートプロジェクトにも積極的に関わる。参加した主な劇場作品に「アトミック・サバイバー」(阿部初美演出、TIF2007)、「4.48 サイコシス」(飴屋法水演出、F/T09秋)、オペラ「フィガロの結婚」(菅尾友演出、日生オペラ2012)、「効率学のススメ」(新国立劇場、ジョン・マグラー演出)、演劇集団 円「DOUBLE TOMORROW」(ファビアン・プリオヴィル演出)ほか。主な劇場外での作品・プロジェクトに「アトレウス家」シリーズ、「長島確のつくりかた研究所」(共に東京アートポイント計画)、「ザ・ワールド」(大橋可也&ダンサーズ)、「←(やじるし)」(さいたまトリエンナーレ2016)など。訳書にベケット「いざ最悪の方へ」、「新訳ベケット戯曲全集」(監修・共訳)。東京藝術大学音楽環境創造科特別招聘教授。中野成樹+フランケンズのメンバーでもある。18年度よりF/Tディレクター。