「EPAD」本谷有希子インタビュー|コロナ禍で人間がどう変化するのか、それを描きたい

2月23日に舞台公演映像の情報検索サイト「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」がスタートした。「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」を使えば、これまで各団体が独自に管理し、散逸していた舞台芸術作品の情報を誰でも簡単に知ることができるようになる。

ステージナタリーでは、「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」の公開を記念し、コロナ禍において変化せざるを得ない環境にありながら、自身の表現に真摯に向き合っているアーティストに注目した特集を展開。第2弾に登場するのは、舞台と小説、2つのフィールドで活動を続ける本谷有希子だ。なお現在「EPAD」に本谷作品はラインナップされていない。

取材・文 / 熊井玲

「EPAD」とは?

「EPAD」は、文化庁令和2年度戦略的芸術文化創造推進事業「文化芸術収益力強化事業」として採択された「緊急舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業」の総称。

「EPAD」

何かしなくちゃ、と思って演劇を始めた

──本谷さんは高校卒業と同時に石川県から上京し、演劇の専門学校に入学しました。大きなアクションだったと思いますが、何が原動力になったのでしょうか?

私の場合、“焦り”ですね。なんで18歳であんなに焦燥感に駆られていたのかはわからないんですけど、何かしなくちゃ、何か動かないと始まらないと思っていたし、人に認められたいという欲求がすごくあったので(笑)、そのことばかり考えていました。自分から演劇をしたいっていうのが恥ずかしいことだと思っていたから、友達に連れられて「そんなに興味はなかったけど演劇部に入った」という体まで装って(笑)。演劇を選んだのは、なんとなくですね。本当に何でもよかった。例えば絵画をやるにはデッサンの基礎、音楽は楽器を覚えなきゃいけない、とある中で、演劇はとりあえず言葉がしゃべれればできるし、準備がいらずに簡単に始められるんじゃないかと思ったのかな。だから「演劇が好きだった」という動機ではないです。

──最初は俳優志望だったんですよね。

そうですね。でもそこでも自意識との葛藤があったので、「出る人がいないから仕方なく出演する」というスタンスを常にキープしていた気がします。高校演劇の大会以外は、演出や音響、照明もやってましたし、脚本もみんなでですが、書いていた気がします。

──脚本以外に、例えば詩や小説を書いていたりはしましたか?

詩はないですね。小説らしきものは、なんとなく書いていた記憶があります。どこに発表するでもなく、友達に見てもらっていたような。

──上京し、本格的に演劇に関わるようになって、意識の変化はありましたか?

演劇部の先輩など、周囲に東京に出て芝居をするっていう子がわりと多かったので、それに影響されたのが大きかったと思います。小劇場というのがそもそもどんなものなのかもわからないまま、先輩に勧められてENBUゼミナールに入って、すぐに、やっぱり表に出るのがそんなに得意じゃないな、向かないなということを痛感しました。そこで知り合った俳優になりたい子たちは、オーディションに応募して、受けて、受かればその芝居に出られるということを繰り返していた。私はオーディションの結果を待ったり、そもそも誰かに選別される、ということに耐えられなくて、「それなら選ばれるんじゃなくて、自分が選ぶ側になればいいんだ」と考えを切り替えて、早々に書くほうにシフトしましたね。

焦りと自意識を原動力に

──劇団、本谷有希子の旗揚げが2000年。2002年には小説家デビューしているので、活動初期から演劇と小説の両輪で活動していらっしゃいました。今のお話ぶりとは裏腹に、書くことにものすごいエネルギーを費やされていたのではないかと思いますが、ご本人の意識としてはどうだったのでしょうか?

とにかく焦りに突き動かされていましたね。親からの仕送りが2年間だけだったので、その期間が終了するまでに、とにかく早く形にしなければ、と。当時は視野狭窄気味だったので(笑)、「才能がある人なら1年でなんとかなっているはず。ならないなら、才能がないんだ」と本気で考えていて。だから無為に時間が過ぎていくことが耐えられなくて、とにかくワープロで文字を書いて、「今日は5000字書いた」「今日は1万字だった」と文字数を数えることで安心していたんですよ。「表現をしたい」とかじゃなくて、「今日はこれだけ生産的なことをした」って思いたかっただけ。

──初期の作品には、本谷さんご自身の体験や感情をきっかけとした作品が多いと思います。

書き方をそれ以外に知らなかった、というところはありますね。当時の小演劇界もそういう芝居が主流だったし、演劇って自分のことをベースにして書くものだという先入観があったから、ほかにどう書いたらいいのか単純にわからなかった。自分が歩んできた人生があまりにも凡庸なことにコンプレックスもあったんですけどね。作家には、鬱屈としたものや欠けている部分が当然あって、満たされていないところから作品を作るものだと思っていたので、自分にそういう要素が特にないのがコンプレックスだったんです。「じゃあ自分にあるものは何だろう」と考えてみたら、一番面白い題材は自分だった。当時、私は自意識に手足が生えた生き物みたいな状態だったので、それならこの滑稽さを徹底的に書いてやろう、とは思っていましたね。

──自意識過剰な人は「自分が自意識過剰だ」という客観性がないところが問題だと思うのですが、本谷さんは客観性をもって自分を捉えているのが面白いですね。

そうですかね? 自意識も突き抜けると、「『“自意識過剰だなって思ってる自分”を面白いって思ってる自分が、自意識過剰だなって思ってる自分』を自意識過剰だなって思ってる自分……という感じで、ループすると思うんですけど(笑)。自分には主観的にしかものを考えられない部分と、「この状況、面白いってわかってますよ、私」って客観的に思ってる部分が常に同時にありましたね。

──そのループは、初期作品の登場人物たちの関係性に重なる感じがしますね。誰かの自意識をほかの誰かが笑っていて、その笑った人の自意識をまた別の人が笑って……という。

外からの視点を忘れずに描こうとはしていました。初期の原動力は焦燥感と、自意識過剰さを持て余していたことに尽きる気がします。

舞台も小説も、次々と話題に

──2000年代には、映画化もされた「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」や、2007年に鶴屋南北戯曲賞を受賞した「遭難、」、2009年に岸田國士戯曲賞を受賞した「幸せ最高ありがとうマジで!」など、話題作が次々と生み出されていきました。また小説でも、2005年に小説「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」が三島由紀夫賞候補、小説「生きてるだけで、愛。」が2006年の芥川龍之介賞候補、小説「遭難、」が2008年に三島由紀夫賞候補になるなど、多くの作品が注目されます。続く2010年代には、舞台だと「甘え」や「クレイジーハニー」などエンタテインメントの要素が強い作風に傾いていった印象があります。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」より。 「遭難、」より。

それに関してはヴィレッヂ(編集注:劇団☆新感線が所属する事務所)に入ったのが大きかったのかなあって思います。そもそも商業演劇とそれ以外の演劇の区別もあまり明確に認識してなかった。でも気付いたら、なるべく多くのお客さんに観てもらいたいと意識するようになっていて。毎回「観客動員数をどうやって増やそうか」ということを考えていたので、何の疑いもなく商業演劇のほうに足を踏み入れていました。ただエンタテインメントっていう意味では、初期の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」も相当エンタテインメントしてるよなって自分では思っているんですけど。

──その時期、小説に関しても「より多くの人に読んでもらいたい」という意識があったんですか?

あー、それについてはない(笑)。小説って、書いたら本になって発売されて、部数を伝えられたときには「もうちょっと刷ってほしいな」って感覚になることもあるけど、ただそれだけ。小説は自分が1人で時間をかけてただ書いて、例えば全ボツになったとしても、演劇のように誰かにリスクを背負わせている感じがしないから楽なんですよね。そういう意味でも、演劇と小説の両方を続けていたのは良かったのかもしれない。自分は1つのものを極めていくタイプでもないし、なんとなく続けていく、くらいがちょうどいいと思ってるんですよ。それに一方の分野で煮詰まったときにもう一方で全力を出すとブレイクスルーになるということを何度か経験もしてきたし、演劇は集団作業で小説は個人作業、というのも明確に違っていて良かったんだと思います。

──過去のインタビューで、2000年代から2010年代にかけては小説と演劇で書くものの違いをあまり意識していなかったとお話しされていました。

演劇と同じく、小説のことも何もわからなかったからですね。意識のしようがなかったな。例えば小説を発表したときに「でもこれは演劇だよね、演劇っぽいね」と批評されることが多かったんですけど、バカにされている感じがして、けっこう腹が立って(笑)。でも“やって覚えていく”タイプなので、数年かかってようやく違いがわかってきたんです。その転機となったのが「嵐のピクニック」という作品で、それまでの「小説はこういうものだ」という先入観が取れて、「何をやってもいいんだ」と初めて思えた。「小説って自由なんだ」という感覚を得たんです。以来、小説にはその感覚を少しずつ持ち込めるようになってきたんですけど、演劇ではまだ答えが出てなくて。それで今、戯曲を描くということに対して、あまり食指が動かないというところが正直あります。