韓国の天才作家が遺した小説が、傑作ミュージカルになるまで
文 / 高原陽子(日韓ミュージカルコーディネーター)
国営組織の果敢なる挑戦
2018年9月4日火曜日、韓国・ソウルのプレスセンターで行われたとあるミュージカルの制作発表会。記者たちは一様に驚きに包まれていた。制作会社は韓国の文化体育観光省下で運営される芸術組織であるソウル芸術団。そして、新作として発表されたのが、2016年に夭折した小説家パク・チリの長編小説「ダーウィン・ヤング 悪の起源」(以下「ダーウィン~」)を舞台化したミュージカルだったからである。当時、文学に精通する者や芸術家たちには、すでにパク作家と「ダーウィン~」の素晴らしさは知られていたものの、約850ページものボリュームがある原作小説、そして最上の1区から最下層9区までの階級に分かれた架空の社会を舞台にしている点、親子三代にわたる壮大なドラマを3時間弱の舞台にすることを踏まえると、舞台化は不可能に近いと思われた。しかも、制作は舞踊作品や韓国の伝統的な素材をアレンジしたクラシックな作品作りをしてきたソウル芸術団だ。果たして原作が持つ、胸がえぐられるような現代ドラマを描き切れるのか?という疑問が、国営カンパニーの勇気ある挑戦への期待よりも上回っていたのが、正直なところだった。しかし、そんな不安は制作発表で歌われた主人公ダーウィンとその父ニースのナンバー「ウィンザー・ノット」で払拭された。美しいメロディー、温かい親子の関係をたった数行で見せる歌詞の魅力、そしてまるで小説から抜け出してきたように、一瞬にして役柄に入りきる俳優たちの姿がそこにあったからだ。
この制作発表から約1か月後、「ダーウィン~」の韓国初演は成功裏に幕を開け、批評家だけでなく観客からの熱狂的な支持は、ソウル芸術団の作品群の中でも類を見ないものとなった。観客が独自に解析した、作品や歌詞の解説文があっという間にインターネット上にあふれ、ファンアートはもちろん、主人公ダーウィンが学ぶ学校のプライムスクールの制服が“カッコ可愛すぎる”といった萌え要素まで議論され、マニアたちがどんどん増えていった。その人気は、韓国の演劇界でも異例の“たった1年後”という再演スピードで証明され、その年の優れたミュージカル作品を対象とした「第4回韓国ミュージカルアワーズ」では、主要部門(作品賞、脚本賞、作曲賞)にノミネート。数ある韓国オリジナルミュージカルの中でも、非常に評価が高い作品となった。舞台化は難しいと思われたにもかかわらず、優秀な原作を発掘し、果敢に新しい作品作りに取り組んだソウル芸術団の取り組みは、2018年初演、2019年再演、そして2021年には新キャストを迎えた三演が上演される過程で実を結び、作品の完成度は上演ごとに高くなっていった。そして何よりも、四演目を今か今かと切望している観客たちの、SNS上での叫びの多さは「ダーウィン~」がいかに韓国で愛されているかを物語っている。
彗星のごとく韓国文学界に現れた、天才作家
「ダーウィン~」のミュージカル初演の成果は、舞台周りだけではなく、原作となった小説と原作者のパク・チリ作家への若い観客たちの注目という形で現れた。舞台を観終わったあとすぐに書店に駆け込み、原作を購入したり、インターネットで検索する人々がいかに多かったことか。もちろん韓国の文壇では、2010年のデビューからたった6年間で7冊の書籍を残し、2016年の小説「ダーウィン・ヤング 悪の起源」出版直後に夭折した天才作家の名前は知られていた。しかし1985年生まれのパク作家が、ミュージカル「ダーウィン~」を愛する韓国の観客たちと近い年齢であったにもかかわらず、2018年の初演時にはすでにこの世におらず、ミュージカル版を観ることがなかったという事実は、切なさ、儚さとなって読者や観客の胸を締め付けた。
パク作家は、文学部を卒業したわけでも、小説を本格的に学んだこともなかったにも関わらず、2010年に発表したデビュー作「合体」で文壇にその名を轟かし、その後発表した作品群でも比類なき着眼点で作品を展開する力と天才的な表現力を発揮しており、もし存命で作品を執筆し続けていたら、多言語に訳され、世界的にも韓国文学を代表する作家になっていただろう。彼女を発掘した韓国の四季出版社の編集者キム・テヒ氏は作家に関するインタビューを受けるたびに、「その短かった人生に焦点が当たり作品が残るのではなく、作品自体の素晴らしさから後世に伝わってほしい」という姿勢を貫いてきた。これを完全に理解し、受け継いだのが舞台版で、制作からクリエイター、俳優1人ひとりに至るまで、原作に対するリスペクトや作品の世界観を守ることに尽力し、壮大な小説の大切な要素の1つ取りこぼすことなく、観る者に伝えている。
原作×台本×音楽が最高値に達するカタルシス、「青い瞳の目撃者」
壮大な原作を脚色し、ミュージカル戯曲に落とし込んだのが、韓国オリジナルミュージカル界の大御所、イ・ヒジュン。韓国の芸大と呼ばれる韓国芸術総合学校卒業後に名門ニューヨーク州立大学で劇作を学び、「ママ・ドント・クライ」を始め「海賊」「最終陳述」「天使について」「ミア・ファミリア」など、大学路の有名作品を手がけてきた“超”がつく売れっ子であり、人気の秘密は、一にも二にも、歌詞が抜群に良いことにある。韓国ミュージカルが抱える弱点として、説明過剰で、全くもって練り上げられていないセリフのような歌詞のナンバーが延々と繰り返されることが多々あるのだが、ヒジュン作家の作品に関しては、その心配は無用。耳にすっと入ってくるキャッチーな歌詞と、観客に余白と余韻を感じさせるドラマティックさが共存しているのだ。
その美しい言葉の数々にメロディーをつけたのは、メジャー作品ではこれがほぼデビュー作だった作曲家のパク・チョンフィ。実は彼、作曲家として歩む前は、何と韓国の海外ライセンス作品の翻訳家として非常に有名だった人で、あの「スリル・ミー」や、日本からも多くの観客が観に来たであろうEMKカンパニーの「エクスカリバー」「レベッカ」「ファントム」「皇太子ルドルフ」など、数々の韓国歌詞の名訳を生み出してきた大物。つまり、作曲家デビュー前からすでにプロとして業界で活躍していたため、作家の気持ちも作曲家としての思いもすべて理解している稀有なクリエーターなのである。そんな彼が「ダーウィン~」のために作り出したのは、バイオリンを中心とした弦楽器をアクセントに、原作が持つスケールの大きさと登場人物たちの細かい感情を繊細に描き出した音楽。まるでパズルのように楽曲の中に隠されたリプライズや転調、観客の予想の上を行く高音の連続は難解に聞こえるかもしれないが、そのために「もう1回あの音を聴きに行かなければ!」と、観客をリピーターにしてしまう、魔性の美しさにあふれている。
劇中、心を動かすイ・ヒジュンの歌詞とパク・チョンフィ作曲家の音楽の美学がさく裂し、原作が持つ親子三代に渡るドラマの力が三つ巴となって観客席に押し寄せるナンバーが、2幕ハイライトで歌われる「青い瞳の目撃者」。
上記オリジナル版を聴いてもわかる通り、この曲は「ダーウィン~」のすべてを1曲で表現していると言っても過言ではない。ビッグナンバーなのに、どこか切なく、美しいのに残酷で、救済と赦されない罪とを同時に描き出している名曲だ。実際に劇場で聴くと、映像の数十倍もの力で感情を揺さぶられるので、放心状態になってしまうこと間違いなし。実際に韓国では、この1曲が終わった後、楽曲が持つ圧倒的な迫力に押され、観客の拍手がワンテンポ遅れて起こるという現象があったほど。
ダーウィン・ヤングは、あなたの期待を裏切らない
この10年の間で韓国オリジナル・ミュージカルは飛躍的に成長し、今や年間250本以上のミュージカルが制作され、若いクリエーターたちがしのぎを削っている。そんな中、再演まで進む作品は、ほんのひと握りであり、台本と音楽のクオリティが高くなければ、瞬く間に淘汰されてしまう厳しい世界だ。再演だけでなく、3度目の上演を成功させ、YouTubeに残された映像や実際に観た観客たちの口コミにより、ファンが増え続けている「ダーウィン~」は、鋭い審美眼を持つ韓国の観客たちの検証を通過し、今後もステディセラーとして愛され続けていくだろう。
韓国の天才作家が生み出した16歳の無垢な少年ダーウィンは、今年海を越え日本へと旅に出る。実際の十代である日本のダーウィンたちは、どのように物語を紡ぐのか。原作の設定年齢と限りなく近い彼らが、今この瞬間にだけ見せるきらめきを舞台で目撃できる日本の観客の皆さんが、心底うらやましい。若いダーウィンだからこその演技、歌、そして奮闘は、必ずや観た者の心に残る。そしてその思いは、実際にしゃべって動く彼らを誰よりも客席から観たかったであろう、パク・チリ作家へとつながっていくのだ。
プロフィール
高原陽子(タカハラヨウコ)
1979年、東京都生まれ。青山学院大学英米文学部在籍中に、韓国・梨花女子大学へ交換留学。その後、日本の一般企業で経験を積み、再び渡韓し、現在はミュージカル・コーディネーターとして活動。主なコーディネート事例に、日本では2014年に「Music Museum」のパク・ウンテ、2015、2017年に「レ・ミゼラブル」のヤン・ジュンモ、2016年に「ミス・サイゴン」のキム・スハ、韓国では2018年に「Seoul Musical Festival」の中川晃教など。また韓国政府が手がけるK-Musical Marketなどのプロジェクトで、韓国のオリジナルミュージカル作品を海外市場に紹介した。