桑原裕子が語る「ぷらっと文化祭『Art Platter』」KAKUTA「或る、ノライヌ」を筆頭に、多才な“獣たち”が集う4日間

9月17日から20日までの4日間、穂の国とよはし芸術劇場PLATで“文化祭”が繰り広げられる。総合企画を務めるのは、芸術文化アドバイザーの桑原裕子。演劇・落語・音楽・美術などさまざまなアートを載せた大皿(platter)のメインを、KAKUTAの新作「或る、ノライヌ」が飾る。

「文化祭は準備しているときが一番楽しい」と言う桑原。本特集では、そんな桑原の思いが詰まった「ぷらっと文化祭『Art Platter』」と「或る、ノライヌ」について、桑原自身の言葉で語ってもらった。

取材・文 / 熊井玲

「ぷらっと文化祭」が新たな出会いの場となれるように

──桑原さんは、「ぷらっと文化祭『Art Platter』」の“総合企画”を務められます。芸術祭や演劇祭ではなく、“文化祭”という言葉が、桑原さんらしいと感じました。

桑原裕子

これは数年がかりの企画になるんですけど、芸術文化アドバイザーにとお声がけいただいたときから、私は「文化祭がやりたいです」と(劇場に)希望を伝えていました。これまで、ミュージカルや落語、ダンスなどさまざまなジャンルのものを観て、また実際に関わらせていただく中で、才能がある方たちと知り合い、刺激を受けてきました。でも同じ芸術というジャンルにいながら、やっぱりパートが違うとなかなか関わりを持つ機会が持てずにいて、そういったいろいろな文化の方たちと一緒にできることがないかと考えていたんです。また、私は子供時代、絵画やピアノなどいろいろな習い事をさせてもらったんですけど何1つものにならなくて(笑)、たまたまたどり着いたのが演劇でした。でもそうやって自分が好きになれるものを自由に探す機会をもらえたことは、両親に感謝しているんです。そのように、“何が好きかはわからないけど、面白そうなものに触れてみたいな”と思っている人たちに、いろいろなものに触れてもらう機会が持てないかなと思ってもいました。それで、文化祭をやってみたいなと。

文化祭って準備しているときが一番楽しいと思うんですよね。普段関わり合いがない人と触れ合えたり、よく知っている場所がいつもと違う使い方をされていたり、そういうことが新鮮で、お互いを新たに知る機会になったりします。今はなかなか難しい状況ではありますが、本当は街の人と一緒に準備をするところから文化を楽しむお祭りにしたいと考えていました。

──4日の間に、KAKUTAの演劇公演をはじめ、落語や読み聞かせ、ライブやワークショップなど複数の演目がラインナップされました。桑原さんやKAKUTAとこれまでにつながりのある方がそろいましたね。

柳家喬太郎 左から中村中、中尾諭介、アルケミスト。玉田多紀

知り合ったのは演劇だけど、実はそれぞれ別のジャンルで活躍されている方たちに、真骨頂を見せていただこうと。その人たちの得意ジャンルを生かした企画にできればと思いました。柳家喬太郎師匠は舞台で2回ご一緒していて、「愚図」(参照:KAKUTAの新作「愚図」が開幕、桑原裕子「“異色作”と呼ばれるような作品に」)に出演してくださった林家正蔵師匠にKAKUTAを紹介してくださったのも喬太郎師匠なんですけど、今回は独演会をしていただきます。またPLATでも上演された「荒れ野」に俳優として出演してくれたミュージシャンの中尾諭介さん(参照:「荒れ野」桑原裕子&キャスト 座談会)、KAKUTA「らぶゆ」に出演していただいた中村中ちゃん(参照:KAKUTAが“愛”をテーマにした「らぶゆ」で再始動、みのすけ・中村中ら出演)、KAKUTAの音楽劇や朗読劇で何度もご一緒しているアルケミストには、音楽ライブで絶対に入ってもらいたいなと。

「往転」(参照:つまずき転んでも“生きて往く”、KAKUTA桑原裕子が時代映す「往転」)でご一緒した小島聖さんは、コロナ禍の中、Instagramで絵本の読み聞かせをされていて、普段と少し違うジャンルに挑戦されているのがすごく良いなと思っていました。そして、KAKUTAに何度も出ていただいているペテカンの添野豪さんや四篠久美子さん、私を芸術文化アドバイザーに推してくださった前芸術文化アドバイザーの平田満さんと井上加奈子さんにも読み聞かせをお願いしました。アートに関しては、私がまだ知らない人と出会いたいと思い、プロデューサーの矢作さんに、ダンボールアートの玉田多紀さんを紹介していただきました。玉田さんの作品、すごく素敵なんです!

──チラシには桑原さんから来場者に向けてのメッセージが寄せられていました(参照:総合企画は桑原裕子、演劇・落語・音楽・美術など盛り込んだ「ぷらっと文化祭」)。PLATという場所に対する、桑原さんの思いを感じます。

自分がPLATにどう貢献できているかはまだ客観的に見られていないんですけど、ただ2018年に芸術文化アドバイザーになったとき、20年間劇団をやってきたことが生かせるんじゃないかと思ったんですね。劇団を始めた頃は、お互いよく知らないところから集まって、創作しながらつながりを深めていきましたし、現在は地域の方とワークショップを通じて関係を深めていっています。PLATでも、ただ一緒に作品を作るだけじゃなくて、それが生涯の出会いになるような、そんなつながりが持てたら良いなと思っているんです。また、PLATではよく学生さんたちが交流スクエアに集まっていて、思い思いに時間を過ごしているんですけど、そんなふうに自由に、好きな居方でいられる場をPLATに作れたらと思います。

書きたいものを書いた、あとは“演出家の桑原さん”に任せる

──「ぷらっと文化祭」の初日を、KAKUTAの新作「或る、ノライヌ」が飾ります。台本を拝読して、登場人物も場面展開も多く、非常に内容が盛りだくさんで、力のこもった作品だなと思いました。

「或る、ノライヌ」ビジュアル(撮影:相川博昭)

最初は「のけもの」というタイトルを考えていましたが、KAKUTAの制作からの意見もあって、「或る、ノライヌ」になりました。このタイトルに決めたのは、アウトキャストというか、世間からちょっとドロップアウトした、こぼれ落ちそうな人を捕らえたいという思いがあったからなんです。というのも、この数カ月間、すごく真面目に一生懸命がんばっていた知人が、ふと連絡が取れなくなったり、SNSにあまり顔を出さなくなったり、自分の目の前からいなくなってしまうことが続いていて。私自身、この1年半は毎日矛盾したことにまみれ、何が正しくて正しくないかもよくわからず、必死に“間違ってないこと”を選択し続けるんだけど、それを考えすぎてギブアップする……みたいな状態が続いていて。そんな人たちの、肩の荷を下ろすようなことが書けないかなと思いました。

──それは多くの人が実感していることだと思います。また、本作には昔のKAKUTA作品の、“ヤクザもの”シリーズやロードムービー的な匂いもあります。

昨年「ひとよ」(参照:“KAKUTAにしかできないこと”を詰め込み出発、渡辺えり主演「ひとよ」幕開け)の上演が終わったあとで、もともとやろうと思っていた流れをやめて劇団員だけで新作をやることにし、成功を求めない作り方にしてみたいと思ったんです。いつもはお客さんがどう思うだろうかとか、客演さんにはどういう役を演じてもらおうとかすごく考えるんですけど、劇団員だけなら多少無茶ができるかなと思い、自分たちが今本当に面白いと感じるものを書いてみました。ただできあがった台本のキャスト表を見て、みんなが「ええー! 30役もあるけど!」って驚いてましたけど、演出でどう見せるかは“演出家の桑原さん”に任せようと思います(笑)。

常に正しく生きなくても良い、そんな居場所となる作品を

──タイトル通り、犬が主要な役どころを演じる作品です。

犬たちは、けっこう哲学的なことを言ったりします。俗世にまみれた私たちが言いたくても言えないことを言える存在にしたいと思って。でもお客さんには、犬たちが抱えている問題は人間と何が違うのか、人間の話なのか犬の話なのか、わからない曖昧さで観てもらいたいです。またこの都会の中でさまよいながら孤独に生きている登場人物たちこそ、実はノラなんじゃないかとも思うので、人間も犬も、一緒くたの存在として見せられたら良いなと思います。

──桑原さんの作品には毎回、さまざまな関係性に潜む差別が描かれますが、今回は犬の目線を通すことで、それらがより際立つように感じます。

そうですね。今回私は“自分なんかいてもいなくても良い”と思っている人たち、つまりどこにも属することができなくて、自分で自分の価値を見出すことができず、周囲から同情もされにくい人たち……例えば不倫していたり、仕事ができないバイトだったり、そういう人たちを主人公にしたいと思ったんです。ちょうどこれを書いているとき、小山田圭吾さんの過去の問題発言や、メンタリストDaiGoさんの優生思想のことが話題になっていて、同じ頃、ラジオで公正世界信念のことが語られているのを聞きました。それによると“人は自分が安全な世界に住んでいて、正しい行いをすれば良いことが返ってくる、その逆なら相応の報いがあると思って生きているけど、必ずしもそうではなかったと感じたときに、ものすごい苦痛や歪みを感じるものだ”と。この1年半、真面目に一生懸命生きていた人たちが、がんばっていても報われないという思いを感じていて、それでも希望を持って生きたいという思いと、それがちっとも報われない虚しさとの両方を、この作品の中で描きたいと思いました。

──桑原さんのコロナ以降の世界に対する目線が描かれているのですね。

ええ。また、コロナ禍では“不要不急”という言葉がたくさん言われて、あまりに言われるので、私自身、自分は不要不急な存在なんじゃないかと感じてしまうこともあって。コロナの恐怖そのものもありますが、自分が必要とされなくなる社会にいる不安のほうが私にとっては恐怖だなと。同じように感じている人たちに「常に正しく生きなくても良いんだよ」と言える場所を作りたいと思っています。