愛知県芸術劇場が主催するAAF戯曲賞は、「戯曲とは何か?」をテーマに掲げ、上演を前提とした作品を募集する戯曲賞。11月には、第20回AAF戯曲賞で大賞を受賞した羽鳥ヨダ嘉郎の「リンチ(戯曲)」が、余越保子の演出・振付で上演される。
現代詩のような独特な文体でつづられる「リンチ(戯曲)」が、ダンスを軸にした演出によってどのように立ち上げられるのか。演出・振付を手がけ、自身も出演する余越と、振付コラボレーターで出演者の1人である垣尾優に、「リンチ(戯曲)」とダンスの親和性や、7月に行われた試演会から11月の本公演までの道のりについて話を聞いた。
取材・文 / 興野汐里
ダンサーの頭の中を言語化すると…
──第20回AAF戯曲賞で大賞を受賞した羽鳥ヨダ嘉郎さんの「リンチ(戯曲)」は、戦前から戦後にかけての日本とアジアの関係を扱った幅広い文献・報道資料の引用や、介護のシーンなどがコラージュされた戯曲です。お二方は本作を読んだ際にどのような印象を受けましたか?
余越保子 愛知県芸術劇場の方から、「身体的なアプローチで『リンチ(戯曲)』を演出してほしい」とご依頼いただいて戯曲を読んでみたのですが、「ああ、これはダンスになるね」と感じました。そのあとしっかり内容を読み込んで、すごく難しいなという印象を受けたんですけど……(笑)。私は演劇畑の人間ではないから、戯曲を読んだ経験があまりなくて。今回「リンチ(戯曲)」に触れて、言葉が脳へ入ってくるときに宇宙旅行をしているような感覚になるのが新鮮だなと感じました。作家の脳に入って行って、同じ景色を一緒に観ようとする行為はすごく楽しいと思います。
垣尾優 僕も余越さんと近い感想を抱いて、「確かにこれはダンスだね」と思いました。簡単ではないけど、なんとかアプローチできそうだなと。
──AAF戯曲賞の担当プロデューサーである山本麦子さんも、「日本の近現代史における植民地、天皇制、差別などの問題と、“介護する / 介護される”という関係性が重層的、多義的に重なるこの戯曲を、どうすれば上演することができるのか」について熟考した結果、身体を軸にした演出でアプローチすることを決め、余越さんに依頼したそうです。「リンチ(戯曲)」は現代詩のような形式で書かれており、例えば戯曲冒頭に「耳の頭の上が平面につく」「手袋が粘膜に触れる」といった特殊なト書きが登場しますが、お二人はテキストから身体的なイメージを強く感じたのでしょうか?
余越 ダンスが好きな人って、もともと“「リンチ(戯曲)」のような構造をした頭”を持っているんだと思います。ロジックから入らない、と言えばいいのかな。垣尾さんも同じように受け取ったんじゃないかと想像しているのですが、どうですか?
垣尾 そうですね。踊っているときに頭の中に浮かんだイメージをあえて言語化するなら、「リンチ(戯曲)」のようになるんじゃないかなと思います。
レイヤーの違いがハブになる
──4月にリサーチが始まり、滞在制作を経て、7月に兵庫・ArtTheater dB KOBEで試演会が行われました。試演会を拝見して、小松菜々子さんのスローでしなやかなソロダンスや、余越さん、垣尾さん、Alain Sinandjaさんの三者が互いに作用し反発し合うようなパフォーマンス、ダンサーの方々がマイクを通してセリフを発する場面などが印象に残りました。試演会に臨むにあたり、余越さんはどのように戯曲を読み解いていったのでしょう?
余越 どの作品を作るときでも、リサーチの段階でイメージをどれだけ遠くに飛ばせるかを大切にしていて、その作業をインベントリー(棚卸し)と呼んでいます。例えば、店を出すときにどんな商品を棚に並べるかを考えますよね。「リンチ(戯曲)」という店を構えるにあたって、商品が足りていないのか、商品が多すぎるのか、まだまだつかめない部分が多いんです。作品自体がまるで生き物みたいに変容していくような。
中でも、戯曲に描かれている歴史や身体の感覚が、誰の目線で語られているのかわからないところが一番難しかったですね。羽鳥ヨダ嘉郎さんの目線を必死に探そうとするんですけど、つかめない構造になっている。つかめたと思った矢先にこぼれていってしまうから、このままだとひたすら踊っているだけになってしまうと感じて。演出家として、戯曲の世界観とお客さんをコミュニケートするために、何かをフックにして橋渡しできないかと考えました。そこで、自分がアメリカに移住して30年以上移民として暮らしている経験をもとに、“日本人とは何なのか”をヒントにしてみようと思ったんです。
本作には、Alain Sinandjaというトーゴ共和国出身のダンサーが参加しているのですが、日本の文化圏に住んでいるアーティストという意味では、日本で生まれ育った垣尾さんや小松さんと同様に“日本人”だと言える。一方で、私のように人生の大半を海外で過ごした“日本人”もいて。そういったレイヤーの違いが、この作品を立ち上げていくうえでハブになっていると思います。
──アメリカへ移住し、ニューヨークで活動されてきた余越さんならではの視点で戯曲と対峙されたのですね。垣尾さんは、実際に試演会でパフォーマンスを披露してみてどのようなことを感じましたか?
垣尾 リハーサルでは、「リンチ(戯曲)」という作品に対してどのように応答するか、余越さんやほかのダンサーと一緒にディスカッションをしました。即興的に“身体で考えながら”踊っていると、「これだ」と納得する瞬間があるんですよ。そういう経験を積み重ねて、納得した部分をデッサンしながら全体を形作っていった感じです。大変でしたけど、すごく楽しかったですね。
──垣尾さんは普段、振付家・ダンサーとして活動されていますが、今回の公演では、出演者の中でもセリフを発するシーンが多く割り振られています。
垣尾 セリフを言うことも身体を動かすことの一種ですから、ダンスと近しい部分があると思います。ただ、自分はあくまでも役者ではなくダンサーなので、セリフの言い方に関してあまりこだわりはないというか、どんな声を出したら良いか、どんな感情を芝居に乗せたら良いかというところは、余越さんの演出に則ってやっていこうと思っています(笑)。
エキサイティングなダンサーが集結
──お二人は、余越さんが統括ディレクターを務める「国内ダンス留学@神戸7期」で垣尾さんの作品「たん、たん、魂」が上演された際に対談をされていました(参照:国内ダンス留学@神戸7期が始動、垣尾優・井手茂太・森山未來の振付作品にも参加)。そのとき、余越さんが「垣尾さんのすごさは、空間と身体とモノの関係性のつくり方が他に類を見ないところ」とおっしゃっていましたが、今回垣尾さんとクリエーションをして、ダンサーとして垣尾さんの魅力はどんなところにあると感じましたか?
余越 垣尾さんはとにかくインプロビゼーションが得意な方。ダンス界にはインプロがうまい方がたくさんいるんですが、中でも垣尾さんが優れているのはダンスの中に“余白”が多いところですね。余白があるように見えるのは、垣尾さんご自身の性格からくるものなのか、経験からくるものなのかわからないんですけど、垣尾さんのパフォーマンスを観ていると、「この人は(ダンスを通して)どこまでも行けるんやなあ、エキサイティングやなあ」と感じます。
垣尾 実際、そんなに余裕はないんですけどね。余越さんが無茶ぶりをしてくるのでいつも必死ですよ(笑)。でも、余越さんとは通じ合う部分があるから、こちらも安心して取り込むことができる。信頼関係を築けているというのは、一緒にクリエーションをするにあたってすごく大事なことだと思います。
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タイトルが意味するものとは