ゴールデンウィークの静岡をにぎわす2つの演劇フェスティバル、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」「ストレンジシード静岡」が今年も開催される。それに向けて、「せかい演劇祭」を司るSPAC芸術総監督・宮城聰と、「ストレンジシード」のフェスティバルディレクター・ウォーリー木下が、両フェスのゆかりの地・駿府城公園で対談。公園内の静岡おでんの店でアツアツおでんをいただきつつ、ラインナップに込めた思い、フェスティバルの今後について語った。
※2020年4月3日追記:新型コロナウイルスの影響で、「ふじのくに⇄せかい演劇祭2020」およびふじのくに野外芸術フェスタ2020静岡「アンティゴネ」は中止、ストリートシアターフェス「ストレンジシード静岡」は延期になりました。
取材・文 / 熊井玲 撮影 / 川野結李歌
“いろいろ”が感じられるフェスティバルに
──「ふじのくに⇄せかい演劇祭」は今年21回目、「ストレンジシード」は5回目となります。今年はどのような思いを持って取り組まれているのでしょうか?
宮城聰 演劇のいいところは、世界には本当にいろいろなバックグラウンドの人がいて、それを肉体そのものから感じられるところです。そういう意味で日本はこれまでバリエーションに乏しい国でしたが、だんだんと身の周りに異なるバックグランドを持った人が増えてきた。でもそうなってくると、日本に限ったことではありませんが、ある種の防御本能というか、同質の人間だけで固まろうという現象が起こりやすいんですよね。でもそれがあまりいい結果をもたらさないことは、歴史がはっきり示しているわけです。では異なるバックグラウンドを持った人たちとどうしたら一緒に楽しく暮らしていけるか。そこに、演劇が蓄積した知恵が役に立つのではないかと思うんです。「せかい演劇祭」では、こんなにもいろいろなバックグラウンドを持った人がいるということをダイレクトに感じていただけると思いますし、今回もそのような視点からラインナップを決めました。
ウォーリー木下 僕はこれまでいくつかのフェスティバルでディレクターをやらせていただいているんですが、だいたい3回目までで、4回以上続いたことがないんです(笑)。だから4回を越して5回目となる今回は、6回目以降のこと、未来のことを見据えてラインナップを考えたいなと。これまでいろいろなフェスティバルや劇団がストリートシアターに取り組んできましたが、それが何を目指したものかと言うと、例えば劇場に呼び込むための宣伝だったり、町興しだったり、創客だったり。でも実はもっと違うことを目指すこともできるんじゃないかと僕は思っていて。なのでアーティストと一緒に「ストリートシアターは今後、どうなっていくだろうね」ってことを考えていきたいと思っています。
先人たちの“痛恨の思い”に触れる
──ではまず、今年の「せかい演劇祭」について伺わせてください。「せかい演劇祭」では毎年、宮城さんが“巻頭言”、キャッチコピーをお決めになりますが、2月下旬に行われたプレス発表会で、今年は「寛容」であることが発表されました(参照:宮城聰「演劇祭から、世界には本当にいろいろな状況の人がいることを感じて」)。
宮城 いつもテーマを決めるときは、「今、世界はどんな感じなのか」ということを考えます。今は時間が逆戻りしているというか、「人類はやっとそのへんを乗り越えただろう」と思われていたことが、全然乗り越えられてなくて、むしろ世界の時計の針が戻ってしまった感じがあります。どうしてそんなことが起こってしまうのか考えてみると、それは人間がせいぜい100年くらいしか生きないからじゃないかなと。つまり、「もうあれだけはしたくない」「もうその愚行は繰り返さないだろう」という人々の“痛恨の思い”が、その人たちが亡くなってしまうと痛恨の思いごとあの世に行ってしまって、次の世代には継承されず、でもどういうわけか憎悪だけが継承されてしまう。だから針が戻ってしまうのかなと。だとすると、戦後75年が経ち、第二次世界大戦で痛恨の思いを持った世界の人々が少なくなってきた今、大戦前と似たような状況が近付いているんじゃないかと思うんです。大戦後に多くの人が抱いていた痛恨の思いが要約されている言葉として、1945年に起草されたユネスコ憲章の前文がありますが、そこには「戦争は人の心の中に起こるものだから、人の心の中に平和の砦を築かないとならない」と書いてあるんですね。以前はこの言葉がある種の理想主義に感じたんですけど、改めてこれが1945年の廃墟のヨーロッパで書かれたことを考えると、人間は戦争をしてしまう生き物だという、ものすごく苦い人間観、人間認識ではないかと思うんです。ではどうやったらそれを防げるかというと、ユネスコ憲章には「他者の文化に興味を持つことしかない」ということが書かれている。今は、その1945年の人たちが感じた痛恨の思いに心を砕くべき時なのではないでしょうか。
──過去を振り返るという意味で、近年はギリシア劇など古典にアプローチした作品が増加傾向にあると感じます。今年の「せかい演劇祭」には6作品がラインナップされていますが、その1つ、クリスティアヌ・ジャタヒー演出の「終わらない旅~われわれのオデッセイ~」はギリシア劇「オデュッセイア」をモチーフにした作品です。
宮城 近年ギリシア劇がよく取り上げられるのは、おそらく、中東地域の永遠に終わらない戦争で翻弄されている人たちにとって、ある種、自分たちの状況を客観的に見られる、1つのよすがなんじゃないかなと思っていて。2500年前から戦争はこういうもので、それに巻き込まれた人間はこう感じ、国はこうやって滅びてきたということを知ると、自分の今の状況を少し客観的に見ることができて、「じゃあどう生きようか」と考えられるのではないかなと思うんです。ジャタヒーさん自身はリオデジャネイロの出身ですが、ブラジルもユダヤ人などたくさんの亡命者がやってきた国ですよね。亡命者たちをどう描くかと考えたときに、「オデュッセイア」のような古典が1つのガイドになると思ったのではないでしょうか。
「OUTSIDE」は、アーティストが一生に一度しか作れない作品
──資料を拝見して、キリル・セレブレンニコフ「OUTSIDE─レン・ハンの詩に基づく」にとても興味が湧きました。
宮城 キリルは「OUTSIDE」以前にアビニョンで2度作品を上演していて、実はそのときまで、ロシアの演出家の中でも僕はそんなに興味がなかったんです。と言うのも僕が惹かれるのは演劇でしかできないことをやれる人たちで、キリルは映画も撮るし、舞台でもテクノロジーを使う人なので、そこまで興味が持てなくて。ところが2017年に彼に不思議な嫌疑がかかって裁判にかけられ、彼は自宅軟禁状態になってしまう。当時、パリのシャイヨー劇場などに行くと、「キリル・セレブレンニコフを解放せよ」という演劇人たちの署名がありました。だからキリルは作品が作れなくなってしまったんだな……と思っていたら、2019年のアビニョン演劇祭のラインナップに彼の名前があって、そのとき上演されたのが「OUTSIDE」でした。劇中ではワンルームマンションのような空間に閉じ込められたある男が、自殺の誘惑にかられながら過ごしています。そこに影が立ち上がって、それがレン・ハンという中国の写真家の霊なんですよね。レン・ハンは北京の、ある意味抑圧された環境の中で、エロスや裸体を回路にして、自由や美を獲得していこうとした人で、男はそんなレン・ハンに導かれるようにして、閉塞的な環境の中から自由や美を獲得していく。そのことに著しく感動して。「これはアーティストにとって一生に一度しか作れない作品だな。これをなんとか日本で見せることはできないのか」と思い、今回お呼びすることになりました。公演は、レン・ハンに関するレクチャーと上演がセットになった形態で、レン・ハンの作品を観ればキリルの作品が彼から強い影響を受けたものだということがよくわかると思います。
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SPACおなじみのアーティストたちが見せる、“最先端”
2020年4月3日更新