「無学 鶴の間」第25回レポート
関根が語る、鶴瓶の“隙”
「ゲストの方とずっとしゃべってて」「ずーっとしゃべってたんですけど」「だいぶしゃべってますよ」「ようしゃべるで、ほんまに!」
舞台に出てきた鶴瓶が開口一番、今日のゲストが「どれだけしゃべるか」を畳み掛ける。フフフと笑いながらも楽しそうな鶴瓶の物言いに、否応なしにも期待が高まった。
「『いいとも!』でも一緒だったんですよ。紹介しましょう。関根勤さんです」
名前を聞いただけで、関根がこれまで披露してきたマニアックなモノマネやトークの面白さが頭に浮かぶ。それほどに関根の存在は世間に浸透している。実際、鶴瓶がその名前を呼ぶと、観客からは大きな拍手が起き、「ウオーッ」という歓声が上がった。その歓迎ぶりに心底安堵した様子の関根が舞台に登場。「ああ、よかった」と声を漏らした。
まず話は、2007年、関根が「鶴瓶の家族に乾杯」に出演したときのエピソードからスタートした。「おしん」が好きで、そのロケ地に行きたいと、関根が選んだのは山形だったという。しかし冬の時季、撮影当日は雪が積もって歩くのさえ大変だった。
「すっごい雪で、誰もいなくて」と関根。そういう中で出会った高校生の女の子から、最近手紙をもらったのだという。
「オペラ歌手になってたんです。それで東京公演のご案内をいただいて。行けなかったんでお花出したんですよ。すっごい喜んでいただいて。こういう出会いがあるんだなって」
鶴瓶も、そのときの出会いが今につながっていることに驚きながら、「いや、でもほんと、あの番組は、出会いばっかりよ」と頷く。
「あの番組は何も決めてないから余計いいんですよ。偶然の出会いがいろいろある」と、自分自身、「家族に乾杯」で出会った人たちと今も多くつながっていると話す。
関根 やっぱり鶴瓶さんは「人たらし」ですよね。どんな人もみんな鶴瓶さんに包まれちゃう。鶴瓶さんのすごいところはね、大御所なのに隙があんのね。これはね、もうナンバーワンですよ、隙。
鶴瓶 (笑)
関根 「笑っていいとも!」は特大号が年末にあったんですよ。それが終わると、出演者やスタッフ300人ぐらい集まってホテルでパーティをやるんですよね。で、立食でみんな立ってるじゃないですか。そしたらタモリさんが、若い出演者たちに「鶴瓶の頭叩いてこい」って言うの(笑)。で、鶴瓶さんの後ろから頭を叩いて、スッと人の間に紛れて離れるの。
鶴瓶 俺も叩かれたら一回笑うからね。で、「誰や叩きやがったの」って振り返ったら、誰かわからへん(苦笑)。
関根 それを怒んないの。
鶴瓶 いや、怒んないというよりも、誰が叩いてるかわからないからどんどん怖くなって。
関根 それで最後、出入口のドアのところに逃げてたら、裏からドア開けられて叩かれてた(笑)。
鶴瓶 ボーイさんまでもが叩きよる。
関根 なんていうのかな、やってもいいように持っていけるわけですよ。
鶴瓶 全然いいことあらへん。ほんまにみんな叩きよる。
関根 でもそれが鶴瓶さんの人間力っていうの? 器がでかいっていうのかな。で、タモリさんがいたずらっ子だから、すぐ「ちょっとやってこい」って、結局、鶴瓶さんが標的に選ばれる(笑)。
8年くらい違和感があった「いいとも!」
関根は29年間、鶴瓶は27年間と、長い間、「笑っていいとも!」のレギュラーとして出演し続けた。しかし2人ともに、あの空気に慣れるまでは時間がかかったと話す。というのも、関根がそれまでやってきたのは、ジャイアント馬場や長嶋茂雄、輪島功一など、スポーツ界のヒーローたちのモノマネで、関根曰く「男相手の笑い」。鶴瓶も「俺もそうで、男笑いだった」と言う。しかし「笑っていいとも!」のお客さんは「98%が若い女性」。
関根 俺、どうしようかと思ったんですよ。どうやってこの人たちを笑わそうかって。8年間くらいいつも違和感がありました。それをなんで解消できたかというと、(娘の)麻里が7、8歳になったときに、麻里の友達がうちに遊びに来たんですよ。みんな大人っぽいんですよね。それで、自分の曜日に出て、パッと客席を見たら、あ、この間遊びに来た麻里の友達のほんの数年後なんだ、と。なーんだ、緊張すんのやめよう、と。
鶴瓶 どんなメンタルやねん(笑)。でも気持ちはわかる。緊張したよね。
関根 あるときね、客席に1人だけおじさんがいたんですよ。その人が一切笑わないの。みんな笑ってるのに一人だけ笑わないと気になるんですよ。それでとうとう、番組終わった後のアフタートークで、もう我慢できずに訊きました。
鶴瓶 え、訊いたん?
関根 「さっきから全然笑ってなかったんですけど、つまんなかったですか」って言ったら、「いえ、緊張してたんです」って。
鶴瓶 (笑)
関根 地方から来て、有名人ばっかり見てたから、ただ緊張してたみたいで。でも、「とても面白かった」って。よかった!
鶴瓶 俺、「パペポ」の収録のとき、スタジオに出て行ったら、客席にミリタリールックで怖そうなやつが2人座っとんねん。で、2本録りやった。1本やったけど全然笑わない。それで2本目に、上岡さんが俺の暗証番号をしゃべりはったんですよ。それが偶然にもほんまやったんです。そしたらその2人が「ウハーッ!!」って笑ろた。どんなツボやねん! めっちゃ笑ろてたわ。ちゃんと好きで来てくれてた。
関根 1本目はちょっと緊張したんですね。
鶴瓶 人の笑いはいろいろあんねんね。
ベタじゃなくても誰かが笑ってくれる
人それぞれに笑いのツボやタイミングがある。「俺、あれ好きやったわ」と鶴瓶が切り出したのは、関根が「笑っていいとも!」の年末特大号で披露した、環境保護活動家のC・W・ニコルのモノマネだった。タモリや鶴瓶は笑っていたが、観客の若い女性たちにはまったくウケず、会場が静まり返った。
「俺ね、居た堪れなくなって、横向いちゃったんですよ」
あまりのウケなさぶりに、失敗した、と、関根はかなり落ち込んだという。
関根 そのショックをずっと引きずっていたんですよ。そしたら3カ月後、「ジャングルTV」に大関の武双山がゲストで来て、「関根さん、C・W・ニコル最高でした!」って言ってくれたの。あれで僕のしこりが取れたの。
鶴瓶 ほんま、誰かが笑ってる、どこかで。
関根 そう、あれはうれしかったですね。
鶴瓶 俺、「うわさのチャンネル!!」に出てて、時代劇でコントやるんですよ。和田アキ子さんとかいっぱいいてはるところで、何もでけへんでしょ。で、コケなあかんのですよ。だからとにかく自分の中で楽しもうと、コケたらなんか違うものをちょっと持つ、コケたらなんかちょっと持つ、っていうのをやってたんですよ。誰かがわかったらええやろと思って。そしたら枝雀師匠が、「鶴瓶ちゃん、あれオモロいよね、コケたらなんか持ってるでしょ?」って。
関根 わ、うれしいですね! 枝雀師匠に言われたら最高ですよね。
鶴瓶 ああ、この人が見てはったんやって。誰かが見てる、ということですよ。
関根 それを信じてやるしかないですよね。
鶴瓶 全部ウケるのも大事やけど、ベタ行くよりもベタじゃないほうに行って、誰かがウケてくれているっていう。それが枝雀師匠やったというのはどんだけうれしかったか。
関根 俺もね、鶴瓶さんには本当に感謝してるんですよ。「ウラ関根TV」という番組をやってたんです。そこでいろんな面白いB級の映画の変なシーンばっかりを紹介してたんです。そしたら鶴瓶さんが会うたびに「ええな、あれ」って言ってくれた。
「情報を入れたモノマネ」の極意
「ウラ関根TV」は、その名が表すように、関根勤の「ウラ」の一面を見ることができる番組だった。しかし視聴率は伸びず、1年で番組は終了。
「そしたら鶴瓶さんがね、『テレビ局はああいうのをやんなきゃダメや』とすごく言ってくれて。それで救われた」と語る。
そこからは、あまりにも多岐にわたるレパートリーを持つ関根のモノマネがどうやって生まれたかについて話が続いた。そのひとつのきっかけが、鶴瓶が当時やっていた大阪の番組にあるという。コロッケをはじめ、モノマネの人たちが数人出演している中に関根も出演していたが、「モノマネ、僕、自信がなかったんですよ。うまい人いっぱいいるじゃないですか。だから僕は鶴瓶さんにウケようと思ってやっていたんです」と話す。それが、「情報を入れたモノマネ」だった。
関根 例えば千葉真一さんだと、(千葉真一の真似をしながら)「妻の野際陽子は、日本で初めてミニスカートを穿いた女優です」。
鶴瓶 フフフ。
関根 あとね、長嶋茂雄さんのマネをする人もいっぱいいたわけ。だから俺は、(長嶋茂雄の真似をしながら)「妻の明子はね、東京オリンピックのコンパニオンでね、英語がベラベラでしてね」。
鶴瓶 フハハ!
関根 情報を入れると、みんながその情報に釣られて、僕のモノマネが似てる似てないがわかんなくなる。そしたら、鶴瓶さんが褒めてくれたの。「オモロいな」って。
鶴瓶 それはオモロいよ。そういうこと、よう言えるなと思うの。「ちょっと入れる」っていう(笑)。
関根 それはやっぱりね、なんですか、保証って言うんですかね、保険。
鶴瓶 ええ保険持ってくるよね。ベタじゃない保険を持ってくる。
関根 でも本当のことを言うから、情報なんですよ。モノマネうんちく。そうすると、そっちのほうに引きずられて、似てる似てないがファジーになる。
鶴瓶 いや、みんな考えてやってんねんで、ほんまにね。でもモノマネがうまいヤツはいっぱいおるやんか。
関根 だから、人がやらないのをやりましたね。大滝秀治さんとかね。誰もやんないから勝てるんですよ。ところがですよ、鶴瓶さん、やっぱり若い人に向けたいじゃないですか。でね、10代だと、ジャイアント馬場さん、長嶋さん、千葉真一さん、輪島功一さんを知らないんですよ。それでなんかないかなと思ったときに、僕と小堺(一機)くんがやってるラジオ番組に、ペリー提督の写真を印刷したハガキが送られてきて、「ペリーです。持ち肌です」って書いてあった。
鶴瓶 ワハハ!
関根 で、俺と小堺くんがゲラゲラ笑って、「ペリーってどういうふうに話す?」って小堺くんが言うんですよ。あの人、ムチャぶりの小堺だから。しょうがないから、「クニヲ、アケナサイ。オープン・ユア・カントリー!」と言ったんです。これいいぞと思ったんですよ。誰もが知ってる。しかし、その人の声は聞いたことがない。歴史上の人物だから。
その発想に鶴瓶が感心すると、「やった者勝ちなんです」と関根。
レパートリーは増え続け、フレミングの法則を発見したジョン・アンブローズ・フレミングのモノマネ、伊能忠敬のモノマネ、ライト兄弟のモノマネなどが生まれたと、それを披露。そのたびに鶴瓶も会場も大爆笑。
鶴瓶が「ずっとしゃべってる」と言っていたのも納得する。話が次から次へと続き、そのエピソードがいちいち面白いから、会場が笑いの渦に包まれ、またそれが次の話題を呼ぶ、といった展開。関根は「僕、家でもずっとしゃべってるんですよ。そしたら、うちの妻が『誰も聞いてないわよ』って」と、そんな自虐的なエピソードさえもなんともうれしそうに笑う関根がまた面白いのだ。
少しでも孫の思い出に食い込みたい
そして家族の話へ。以前、下北沢で鶴瓶が息子の駿河太郎といたときに、たまたま、関根が娘の麻里と一緒に歩いていたのを見かけたのだという。
「2人がものすごくうれしそうに、めっちゃ笑いながら歩いてる。あの光景はもう今でも忘れない。仲ええねんなあって」
「麻里とは子供の頃から、本当にバカなことしてずっと遊んでましたからね。僕が父親としてできることは何かなと思ったら、そうだ、人生って楽しいんだということを知ってもらうことだと思ったんです」
だからどんなときも全力で娘と遊んだ。麻里も今は母親となり、関根は「じいじ」になった。関根が遊ぶ対象は、麻里ではなく、孫になったが、その姿勢は変わらない。
関根 僕、ちょっとショックというか、うれしかったみたいな、ちょっと半々なんですけどもね、下の孫が4歳なんだけど、麻里に「じいじね、烏骨鶏の匂いがするよね」って。
鶴瓶 ワハハ!
関根 どうしてかと言うと、幼稚園のそばに烏骨鶏を10羽飼ってるお寺があるわけ。そこに3、4回遊びに行ってたんです。で、そこでキャッチして覚えちゃったんでしょうね。それで私と遊んでるときに、「ん? これは烏骨鶏だ!」って。この間は逆ですよ。そこの場所に行って、「あ、じいじの匂いする!」って。
鶴瓶 ワハハ! でも正直に言うよね。子供って。フフフ、烏骨鶏の匂い!
関根 加齢臭出てきますからね。もう今は孫とずっと遊んでます。孫が寝るまでマッサージしてます。
鶴瓶 孫をマッサージ?
関根 少しでも孫の思い出に食い込みたい! 僕自身、おじいちゃんのことが僕の思い出に全然残ってないから、孫にはとにかく思い出に残ってほしい。烏骨鶏もプラスしてね。「おじいちゃん、楽しかったな」って。ちょっと寂しい話ですけども、死は必ず訪れるじゃないですか。そしたらもう世間の人は僕のこと忘れちゃうわけ。だけど、孫の心の中には生きていたいなっていう、そういう気持ちなんです。
どちらが子どもかわからないくらいに孫とずっと遊んでいるという関根の話に、鶴瓶も「でもそうやってアホになれるのが若さの秘訣」と、関根の面白さに納得する。
師・萩本欽一との修行時代と最近の交流
関根が芸人として活動を開始したのは大学3年生のときに遡る。「ぎんざNOW!」という番組の「しろうととコメディアン道場」に出演し、5週連続勝ち抜いてチャンピオンになったのがきっかけだった。
「その次の週からレギュラーですから、当時のテレビは乱暴ですよね。1週間前まで大学生だったんですよ。それがいきなりせんだみつおさんのアシスタント」
そのときの審査員の一人が、関根が所属している浅井企画の社長、浅井良二だった。浅井はコント55号を育てた人物。当時、萩本欽一はいくつもの冠番組を持ち、「視聴率100%男」と呼ばれるほどの人気者。関根と小堺一機はともに下北沢のライブハウスなどに出演しながら、萩本欽一のもと修行を重ねてきた。
鶴瓶 萩本さんからは「弟子」という形を取ってもらったんやろ?
関根 そうです。本格的じゃないんですけども、仮の弟子ということで。
鶴瓶 それは大きいよね。
関根 欽ちゃんはね、タモさんと同じ。全然忖度しない。うちの社長は僕を「ぎんざNOW!」でスカウトして、第2の欽ちゃんになってほしいと思っていたけれど、なかなか芽が出なかった。だからあるとき、ゴルフ場でね、社長が「欽ちゃん、関根くん使ってあげてよ」って言ったら、「いや俺、関根みたいなの嫌い。一緒に仕事したくない」って、3メートルぐらいの距離で言うんですよ。
鶴瓶 え?
関根 でも逆にね、この人正直だなと思ったの。だってその場しのぎで、「社長考えとくわ」って言って、後で断ってもいいじゃないですか。それを面と向かって俺に言うのよ。よっぽど嫌いだったんだね(笑)。
鶴瓶 それは誤解してるというところもあったんやろな。
関根 そうなんですよ。まだ僕のことよく知らなかった。芸風もよくわからなかったと思う。萩本さんは、浅草でいちからコメディアンとしての基礎を習って、軽演劇をずっと踏襲しているんですよ。だけど、僕はそんな勉強なんかしたことない。テレビで林家三平さん見て面白い、コント55号見て面白い、「シャボン玉ホリデー」見て、クレージーキャッツ見て面白いって、そういうのを自分の中で勝手にミックスしてやってるから、基礎が全然ないわけ。だから、萩本さんから見ると違和感しかないわけですよ。僕の芸は。演歌歌手の人がラップを聴いた感じ。それで嫌だったみたい。基礎がないから。
鶴瓶 それは言われてはないやろうけど、感じてた?
関根 感じましたね。ところがいろいろ教えていただいたり、いろいろ話してやってるうちに、5年ぐらいはかかりましたけど、最後は「関根好きだよ」って言ってくれました。
昨年10月、神奈川県伊勢原の高岳院内に創建を進める「欽ちゃん寺」の弁財天で、弁財天像のお披露目と石碑の除幕式が行われた。その石碑には、萩本と親しい人たちが思い思いの言葉を刻むことになっており、その一人として関根も声をかけられたという。
「お前らしい、なんか変なの考えてくれって言われて、5個ぐらい考えたんですよ。で、採用されたのが『スルンと生まれて ピロンと生きてきました』。これ、関根らしくていいなって言うんですよ」
その除幕式に関根は参加。そのとき、初めて出来上がった石碑を見たという。
萩本が書いた言葉は「運は正面から来ない ふと後ろから来る」。直筆の綺麗な文字が刻んであったと関根は続ける。
関根 その真横に僕の字で、「スルンと生まれてピロンと生きてきました。関根勤」って。
鶴瓶 フフフ。
関根 しかも向こうのほうが字が多いから、俺のほうがでっかくて(笑)。
鶴瓶 ワハハ!
関根 「えー! 欽ちゃんやめてよ、俺怒られるよ」って言ったんです。
鶴瓶 ウハハ! それオモロいなあ!
関根 そしたら欽ちゃんが、「お前がやっぱり一番近かったな」って。
鶴瓶 すごいな、それ。
関根 結局欽ちゃんには最終的には俺が一番好かれたっていう。
鶴瓶 そやな。
関根 なんかもう、俺としては、うれしい!
鶴瓶 関根勤というのは、こんな人間だってわかってくれたんやな。
関根 時間かかりましたけどね。
ずっとしゃべってられる2人
それでもいまだに「お前の笑いはわからない。お前の笑いはマニアックだから、お前のファンしか笑わねえ。俺はみんなを笑わせられる」と萩本は関根に言うそうだ。そのやりとりはきっと何度も行われているのだろう。「いや、そりゃそうですよって言って終わり」と関根は笑う。長く深い付き合いの中、萩本は、自分にはできない笑いを関根の中に見たのだろう。これまで2人が培ってきた信頼関係が、このエピソードからは見てとれた。
鶴瓶が言う。
「でも、『スルンと生まれてピロンと生きてきました』が大きく掘ってあるって、みんな死んで、何年後かにやで、これ、何や!?と」
関根も笑いながら、「困りますよね。萩本欽一さんは日本の芸能史に残る人じゃないですか。同じぐらいの大きさでスペースとってる僕のことは誰も知らないけど、コンビ組んでたのかな、とかね」と、にんまりうれしそうな笑顔。
「誰かが見てくれていると信じるしかない」と関根は言ったが、その想いの中には、いつも、師・萩本欽一の存在があったのだろうと思った。
鶴瓶は観客に向けて言った。
「オモロいやろ? ずっとしゃべってられるもんね。ほんま、なんやねん。けったいな人や。ほんまにある意味気持ち悪いわ」
あっという間に時間が過ぎ、関根も「もう90分過ぎちゃったの? 早いなあ!」と呟き、再び、大きな拍手の中、舞台をあとにした。
「無学 鶴の間」25回目のゲストは、今年芸歴50周年を迎えた関根勤。鶴瓶を相手にした90分の会話の中からは、正直に、自分が面白いと思うことを追求してきた人の、純粋な笑いへの愛情がひしひしと伝わってきた。その歩みが、今の関根勤を作っている。最初に「関根勤さんです」と鶴瓶がその名前を呼んだときの観客の歓声は、彼が50年間かけて作ってきた笑いへの賞賛でもあったのだ。
プロフィール
笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)
1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。
関根勤(セキネツトム)
1953年8月21日生まれ、東京都出身。TBSの「ぎんざNOW」の素人コーナーで優勝し、1974年に芸能界入り。当初使っていた芸名「ラビット関根」は桂三枝(現・六代目文枝)が名付けた。テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」の出演をきっかけに本名に戻し活動。テレビ、ラジオ、CMなどで活躍する傍ら、舞台「カンコンキンシアター」では座長を務め毎年公演を行っている。今年芸歴50周年を迎えた。最新著書に「関根勤の嫌われない法則」(扶桑社)がある。