笑福亭鶴瓶の「無学 鶴の間」|鶴瓶がシークレットゲストと共に送る配信番組を徹底レポート。第26回ゲストは浜村淳。 (25/27)

「無学 鶴の間」第23回レポート

笑福亭鶴瓶×石原良純(2024年4月6日配信)

大阪城ホールでトロンボーン演奏

「あんまりね、大阪へも来られない方ですので、楽しみにしていただきたいと思います。石原良純さんです」

そう鶴瓶がゲストを呼び込むと、観客から「うおーっ!」という歓声が上がった。さらに大きな拍手が良純を迎える。良純も観客の反応をダイレクトに感じるこの状況を「すごく面白いですよね、この近さ。僕ら、こういうのないから。本当に“寄席”のお客さんというか」と、その状況を面白がると、鶴瓶も頷き、「ここ(無学)がもう長年やっているから、そういう“場”が出来上がっている」と話す。

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

鶴瓶が良純を「無学」に迎えたのは今回で2回目。「無学の会」に出演してもらった2006年以来だと言い、「あのときも漫才みたいになったな。人物が漫才みたいな人やから」と、鶴瓶があらためて石原良純という人間の面白さを言葉にした。

俳優として芸能界デビューし、気象予報士としても活躍、さらにここ数年はバラエティ番組での活躍も著しい。「今ね、僕、仕事楽しいんですよ」と、良純自身、その充実ぶりを語ると、鶴瓶も「楽しそうや。ザワついてから、ものすごく楽しそうや」と、良純が、高嶋ちさ子、長嶋一茂と組む人気番組「ザワつく!金曜日」の名前を引用する。

話は、まず、その番組の企画で、大阪城ホールでの高嶋ちさ子のコンサートにトロンボーンで参加したエピソードからはじまった。

石原良純

石原良純

良純 大阪城ホールのステージに立っちゃってるんですよ!

鶴瓶 すごいな! それは高嶋さんも一緒に出はるん?

良純 僕が1人で立ってどうするんですか! 高嶋さんのコンサートなんだけど、僕、トロンボーンを吹き始めて3カ月で、六十の手習いの最初の発表会が大阪城ホール。お客さん、8000人ですよ、8000人!

鶴瓶 えー!!!

良純 で、吹いたんですよ。でも音が出ないんですよ。そしたら「がんばって~!」とか観客が言うんですよ(笑)。うるさい! クラシックだぞ、クラシック!

鶴瓶 ワハハ! で、一茂は何するんですか?

良純 一茂さんね、最初チェロだったんですよ。チェロだったんですけど、黒子がチェロを押さえてたんですよ。2人で1人のチェリスト。

鶴瓶 ワハハ!

良純 それからはじまってもう3年やってるんですけど、2年目からね、空手の大会に移りました(笑)。


極真空手家としても活躍する長嶋一茂。「そっち(良純)は天気当てたらええねん」と鶴瓶が言うと、「いや、今の天気予報すごいでしょ。1時間ごととかダーッて出てくるんですよ。だから天気予報はもう、誰がやっても一緒!」と言い放つ。

曰く、気象予報士は気象庁から送られてくる多様なデータを読み解き、言葉に訳する仕事。それについて心得た瞬間があったという。それは坂東玉三郎に言われた言葉がきっかけだったと続ける。


良純 あるとき玉三郎さんに「役者の仕事ってなんだと思いますか」と聞かれたことがあったんですよ。「役者の仕事はバーッとエネルギーを出していくことなんです」と。歌舞伎って総合芸術のようで、個人の技がある。「観客を自分のエネルギーで覆い尽くす、自分のエネルギーを広げていく、というのが役者の仕事です」と言われたときに、天気予報というのは真逆の仕事なんだと思ったんです。天気予報はいろんな気象衛星があって、それを引きずり込んできてひとつのものをつくる。だから玉三郎さんの言っていることがすごく理解できた。

鶴瓶 玉三郎さんもそういうふうに受け取ってくれたことがうれしいって言ってましたよね。

良純 その「エネルギーを出す」ということについて言うと、僕、初めてね、観客からそのエネルギーをもらったのが、さっき言った大阪城ホールでのコンサートなんですよ。応援してくれるじゃないですか。そうすると元気になる。

鶴瓶 そらそうですよ。僕らも、ドッ、ドッと笑ってくれると、その瞬間にこちらが元気になるからね。

良純 だから皆さん、これ見て楽しんでるようで、エネルギー吸われてますからね! 本当に気をつけて帰っていただきたい!

鶴瓶 ワハハ! でも、ほんまにそういうとこってあるやろうね。お互い、こっち(観客)も笑って、こっち(演者)も喜んでっていうのはね。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

つかこうへいの芝居の醍醐味

舞台上におけるエネルギーの交換の話は、つかこうへいの芝居の話へとつながっていった。良純は、つかこうへい主宰の劇団で鍛えられた時期があった。鶴瓶もまた、つかこうへいの芝居が好きで、数多く舞台を観て、影響を受けている。


良純 つかさんの芝居ってものすごいエネルギーを出すんですよ。そのときにつかさんに言われたのは「お前、どうせ芝居下手くそだから、何もできないけど、主役やらせてやる。主役っていうのは、真ん中に立って、夢とか青春とか希望とか大きい声で言ってりゃいいんだ。その代わり、絶対動くなよ」って言われたんです。「絶対動くな、揺れたりするな」と。主役で真ん中にいる人間が揺れると周りがブレる。セリフを言ってるときはラクなんです。だけど、セリフが何にもないときに、周りで何か起きていてもずっと立っている。それが主役の役回りだって。でもその方がエネルギーがいるんですよ。

鶴瓶 ああ、そうでしょうね。

良純 それから、僕、客前がそんなに怖くなくなったんです。

鶴瓶 あの人の芝居はひとつの舞台でもコロコロ変わりますからね。毎回毎回。

良純 そうなんです。舞台に出てセリフ言ってるじゃないですか。そしたら舞台の袖でつかさんが次出る役者になんか耳打ちしてんですよ。嫌だな、なんかやってんなと思って、その役者が出てくると、台本とは違うセリフを言うんですよ、いきなり。本番でですよ!

鶴瓶 (笑)。

良純 でもその緊張感、こう変わっていく緊張感がこたえられない。それが芝居の醍醐味なんですよね。で、バーン!とエネルギーを出すじゃないですか。で、お客さんはそれをバーンと受け止める。そのつかさんの芝居の原点はというと、つかさんは筑豊炭田の出なんです。

鶴瓶 北九州のね。

良純 炭鉱に昔はあまた劇場があって、炭鉱夫たちの人たちが観に来て、「面白い芝居やれよー!」っていうところに役者もバーンと出てきて芝居をする、観客が観てないと、「観ろよ! こっち!」っていうくらいの気持ちでやり合うっていうのをたぶん見て育ったんですよ。

鶴瓶 ああ。かっこいい人やったわ。いやね、僕も落語で人情話をするときは、ダーッてセリフを畳み掛けるように言うんですよ。ゆっくりしゃべらないんです。あの人、そうでしょ。

良純 そう、ダダダダッて。それでパッと変わって、抱き合ってラブシーンに急に転換したりとか。

鶴瓶 涙がね、ピューッて出るのね。つかさんの芝居ってね。

父・石原慎太郎と母が亡くなったとき

そして、父、石原慎太郎の話へ。鶴瓶がその名を出すと、「アチャー!」と顔をしかめる良純。「いやあ、もうね、本当にめんどくさい。ここでね、亡くなった父親の悪口なんか言えんでしょ」と苦笑する良純に、「なんで政治家ならなかったん?」と鶴瓶。すかさず、「今さら政治家になって、うちの弟なんかに『兄貴初めて来たんだろ、トイレはあっちだよ』とか言われたらイラッとしますからね」と突き放す。

それを聞いた鶴瓶、大笑い。「いやあ、それはうれしいわあ! この人が政治家にならなかったっていうのはいいよね。政治家がみんな悪いわけやないけど、でも、なってたらキックバックもらってた?」と返すと、会場からドッと笑いが起きた。

鉄道好きの良純、すぐさま「鉄道の用地買収とかもっと大きいこと考えます」と切り返し、「キックバックって、なんかめちゃくちゃセコくないですか?」と投げかける。鶴瓶も「セコいわ。みんな全然返さへんし、捕まらへんし、俺たち、どんだけ税金払ってるか」と釈然としない様子。「不思議なことが罷り通るんですよ」「おかしいよなあ」という2人の言葉に、観客も大いに頷いた。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

そしてようやく本題、父、慎太郎が亡くなったときの話へ。


良純 亡くなる2日目ですよ、さすがに弱ってたんですよね。病室に行って、「じゃあ、俺は仕事行ってくるよ」って、手とか握るじゃないですか、ポンポンと。手を伸ばしたんですよ。そしたらパーン!って手を払ったんです。すごくないですか? わ! ここ払うんだ! すごいわ、と思って。

鶴瓶 そらそうやな。もう最後の別れみたいなもんもあんねんから。でもそんなこと思わせたくないから、パーン!ってしたんやろな。

良純 だから、亡くなったという電話かかってきたときに、思わず出た言葉が「マジ?」。あんな元気だったのに、って。それで葬儀があって、兄貴が出張があったので、僕がお骨を預かって仏壇に置いたんですよ。そしたらうちの奥さんがね、「今日のお父さんは静かね」って言うわけですよ。

鶴瓶 ワハハハ。そりゃ、お骨がしゃべったら怖いわ。

良純 それでね、僕、疲れて早く寝ちゃったんですよ。そしたらその晩ですよ。雷がバーン! で、家が揺れたんで、目覚めた。夢だった。そこで俺、わかった。放電? 漏電?

鶴瓶 骨から出るって言うからね。

良純 最後に余ってたエネルギーが、バーン!って出たんです。

鶴瓶 フフフ。

良純 そのときに、なるほどなって。人間が生きていくというのは、エネルギーを出し続けることなんだ、エネルギーがなくなると人は亡くなるんだ、って。すごく腑に落ちたっていうかね。

鶴瓶 すごい話、考えたな。

良純 でもそれって、例えばつかさんの「エネルギーを出して立ってろ」とか、玉三郎さんが「エネルギーを広げてくもんだよ」という言葉と同じで、やっぱり人間はエネルギーを出し続けることで生きていたんだと思うんです。うちの父親って人当たりが強かったけども、あれって、怒ってるわけじゃなくて、これやれ、これやれ、次これって、全部自分がやりたいことだったと思うんですよ。でも、次、次、次って、その立ち止まらなさ加減、あれはちょっと尋常じゃなかったなと思いますね。


生前、父親から教わったことは何もなかったと良純は言う。叔父である石原裕次郎からは、デビューした当時、「時間を守ること」「ちゃんと挨拶をすること」の大切さを教わったが、父親からは生きていく上での教えのようなことは何も言われたことがなかったそうだ。しかし、人間が放つエネルギーの正体を、父は、自身の生涯をかけて見せていたのかもしれなかった。

そこからは、「15分一緒にいると疲れた」という父親の強烈なエピソードや、闘病期間にかかわらず激しい父とのやり合い、そういう父親だったからか、兄弟4人の仲がいいエピソードなど、石原家の話が続いた。さらに、「ママとの関係はどうだったの?」と鶴瓶が聞くと、「愛妻家では絶対ないとは思うんだけど、でも、他人が入りきれない人間関係、子供といえども入れないような関係だった」と述懐する。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

良純 うちのお袋、親父が死んだ後、1カ月後に亡くなったんですよ。普通は、旦那が亡くなったら元気になるとか言いますよね。息子、男兄弟4人ですよ? 春になって気候もよくなったら、どこかの庭にテーブル出してご飯でも食べましょうね、とか、普通、それ、楽しみにしてるでしょ? でも母親は何の興味もなかったんです。母親は親父のところに行きたかった。

鶴瓶 それはすごいやん。

良純 すごいでしょ! だから僕、おふくろが亡くなったって電話とったときに、「マジ?」ってまた言いました(笑)。だって亡くなる前の日、プリン持っていったんですよ。小さいプリンを4つ持っていって、僕、目の前で「食べなよ」って言って2個食べたんですよ。で、翌日亡くなった。

鶴瓶 それは「マジ?」やわな。

良純 それで片付けに行ったら、プリンなかったですからね。食べたんですよ。

鶴瓶 ワハハハ。

良純 それぐらい元気だったの。

鶴瓶 ほんなら引っ張られていかれた?

良純 引っ張ったんじゃないですよ。ンン!って逝ったんですよ。自分で「動脈瘤決壊!」みたいな。

鶴瓶 怖いわ、それ! お母さんが自分で破裂させたん!?

良純 いや、だからね、人間ってそういうふうに亡くなれるものなのかな、すごいなって思ってて。皆さん、こういう話を僕がチャラチャラしてると「何言ってるんだ、あいつは」と思われるかもしれないけれど、そういうふうに話をしてかないと、しなくなってしまうじゃないですか。だから、そんな話でもしたほうがいいのかなと。

鶴瓶 すごくいいですよ。たぶん、お母さんは、自分で血管切りはったと思いますよ。


強烈なエネルギーを放った人とその家族とのやりとりは、聞いていても面白く、どこかドラマを見ているようでもあり、また、良純の軽快な語り口も相まって、観客は大いに笑いながら、石原家の話に惹きつけられていった。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

「西部警察」のムチャなロケ

さらに話題は、良純が俳優としてのスタートを切った「石原プロモーション」に及んだ。

「石原プロってどんなんやったん?」と鶴瓶も興味津々で聞くと、良純、「その辺で車を爆発させたりですね、その辺で車を転がしたりして、日本中でロケがしにくくなった!」と言いながら爆笑している。「石原軍団が行ったところは草も生えないと言われてたからね」と鶴瓶が言うと、当時、人気を博したドラマ「西部警察」の「かなり無茶していた」ロケ話が飛び出した。


良純 目黒川という川があるんですよ。目黒ですよ。そこを飛び越えてたんですよ。カースタントが。

鶴瓶 え!!

良純 ほかには、五反田に交番みたいなのを作って、爆破してたんですよ。五反田の駅前ですよ!

鶴瓶 ワハハハ! ウソやん! すごいな!

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

良純 いやいや、やったらダメなんですよ。

鶴瓶 そこまでやったらええわ(笑)。中途半端じゃないから。怒られたん?

良純 だんだん快く思われなくなって、「西部警察」も制作しにくくなって、その後、日本映画は冬の時代を迎えたんです。今はね、フィルムコミッションができて、町おこしも込めて、東京、大阪も含めて、その町を世界に知らせようという意味で、町が映画に協力するんですけど。ほかには、鹿児島の吹上浜というところでね、銃撃戦をやったんですよ。どーんって爆弾仕掛けて。そしたら翌年、アサリがいなくなっちゃったんですよ。

鶴瓶 え! ちょっと! それ、これね、生配信されていますよ。

良純 いや、もう時効だから、たぶん、吹上浜漁協の人たちも「あった、あった、とんでもなかった」って今頃は思われてるくらいで(※その後は戻ってきている)。アサリって、怖いと、砂からぼこぼこって出てきて、潮に乗って流れて逃げるらしいのよね。「怖い怖い」って。


しかも「西部警察ロケ情報」を前日にわざわざ流していたそうで、一目「石原プロ」の俳優たちの姿を見ようとロケ場所は人だかり。ある場所では5万人もの人が集まったという。

「でも面白かったですね。あの町にサーカスがやってくる!みたいな、そんな時代だったんですね」と、昔を語る良純はどこか懐かしそう。

さらに、石原プロで行われていた宴会でのエピソードを披露。石原裕次郎が調子を崩し、石原プロの若い俳優たちをまとめるために、渡哲也がなんとかしなくてはと、毎晩、宴会を開いていたそうで、そこで繰り広げられていた、まるでコントのような展開に、会場も大爆笑となった。

「いざさらば」が言えるように

若い人たちへの思いは、良純が娘の高校の卒業式に行った話へとつながっていった。ここから新しくそれぞれの場所に向かう若い人たちの顔を見たとき、「みんな、なかなかいい顔している」と思ったと良純は言う。そのときに脳裏に浮かんだのは、卒業式でよく歌われていた「仰げば尊し」の歌詞だったという。

「その2番は、『身をたて 名をあげ やよはげめよ 今こそわかれめ いざさらば』という歌詞があるんですけど、別れのきっぱりとした歌だなと思って、ああ、いい歌だなと、若い人の決意みたいなものを感じたんです。『いざさらば』って、それはたとえば、ひとつの番組が終わったときも、がんばったから言えるんだと思うんです」

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

良純はそう言い、自身が初舞台を踏んだときに共演した俳優の杉浦直樹との思い出を語りはじめた。

「杉浦さんが僕の父親役だったんですが、2カ月間稽古して、1カ月間公演やって、すごく仲良くさせてもらったんです。最後、千秋楽のあと、朝まで飲んで、今でも覚えているんですが、表参道のまだ蒸し暑い空気が残ってる中、『よくやったな、じゃあな』って、杉浦さんが表参道の坂をくだっていかれてるときに、止まって振り返られるかなと思ったら、そのまま振り返らず、スッと手を上げられたんです」

「ああ、かっこええなあ」と鶴瓶。

良純は、あれが「いざさらば」だと思ったのだという。精一杯、力を尽くし、やり遂げたからこその潔い別れ。

良純は言った。

「僕ら、『いざさらば』が言えるようにならなくてはいけない」と。

それは、いつか潔く別れるために、番組や舞台にエネルギーを燃やし、懸命に取り組むのだという覚悟でもあった。そしてそれは、つかこうへいや、坂東玉三郎、そして、父・慎太郎の姿から教わったことにも重なっていく。「今ね、僕、仕事楽しいんですよ」と最初に言った良純の言葉は、彼がそのことをひしひしと実感しながら生きているからに、ほかならない。

「無学 鶴の間」、23回目のゲストは石原良純。俳優、気象予報士、タレントといったカテゴリーなど、彼には必要ないのかもしれない。石原良純には石原良純にしか出せないエネルギーがある。それは、決して、他に替えがきかない。年々、「石原良純」としての存在感が増していく理由が少しわかった気がした。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

左から石原良純、笑福亭鶴瓶。

石原良純

石原良純

第23回(2024年4月6日配信)
笑福亭鶴瓶×石原良純

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プロフィール

笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)

1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。

石原良純(イシハラヨシズミ)

1962年、神奈川県生まれ。1982年、映画「凶弾」で俳優デビュー。その後、数多くの映画、ドラマ、舞台、バラエティで活躍する傍ら、1997年に気象予報士資格に合格。鉄道、マラソン、ダムなど趣味も多岐にわたる。

2024年10月30日更新