笑福亭鶴瓶の「無学 鶴の間」|鶴瓶がシークレットゲストと共に送る配信番組を徹底レポート。第26回ゲストは浜村淳。 (16/27)

「無学 鶴の間」第15回レポート

笑福亭笑瓶追善企画(2023年7月2日配信)

鶴瓶の筆頭弟子となった晃瓶

この日、笑福亭鶴瓶は、弟子の晃瓶、恭瓶、孫弟子の笑助を連れて、六代目松鶴の墓参りに行ってから、「無学」の舞台に立った。月命日の前後に、一人、墓参りに行くのはつねだが、今日、弟子を連れて行ったのには理由があった。

2023年2月22日、鶴瓶の一番弟子、笑福亭笑瓶が急性大動脈解離のため、死去した。この日の「無学 鶴の間」は、彼ら弟子ら3人と、笑瓶の追善の会を行うことになっていたからだ。

もちろん観客は、今日のゲストが誰か知らない。まして、そのような会になるとは思ってもいないだろう。

鶴瓶はまずは一人、こうはじめた。

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

「去年は、松鶴一門の筆頭が死んだんですよね。仁鶴兄さんが亡くなって、そして今年、うちの門下の筆頭も死んだんです。うちの門下は笑瓶が筆頭だったんですけど、今は晃瓶が筆頭になりました。その筆頭が俺に言ってきたんですよ。『師匠、今度、繁昌亭で追善の会を弟子でやっていいですか』と。それで、やっていいよ、と。でも、だったら、無学の配信でやろうやと言いました。全国に広く知らすことがすごく大事やから。笑瓶はええ男でしたからね。自分の弟子をあまり褒めるのもあれですけど、ほんまにいい弟子だったんですよ。それでは紹介したいと思います。どうぞ」

拍手に迎えられ、晃瓶、恭瓶、笑助が自ら椅子を運び、舞台に登場。鶴瓶が促し、晃瓶を前に立たせて、しばし2人でのトークからスタートした。まずは新しく筆頭となった晃瓶を広く知ってもらおうという想いもあっただろう。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶。

鶴瓶 久しぶりに見たら、俺より顔大きいな。

晃瓶 僕、師匠と同じ画面に入るのは、生まれて初めてなんですよ。

鶴瓶 え、入ってるかな、これ(笑)。

晃瓶 入ってますかね(笑)。ラジオはご一緒しましたけれど、こういう形で2人は初めてだからどうしようかなと。

鶴瓶 ほんまかいな。お前、こないだ京都でタクシー乗ったら、「お、晃瓶さんの師匠や」って言われたで。

晃瓶 ありがとうございます。

鶴瓶 お前、余裕やんか。「京都で勝負しようか!」みたいな顔して(笑)。

晃瓶 僕は「師匠は鶴瓶さんですよね」はよく言われるんですよ。それはもう「そうです」と。でも、それはいけないことなんですか?

鶴瓶 何が?

晃瓶 「晃瓶さんの師匠ですよね」というのは、別にいいことじゃないですか。

笑福亭晃瓶

笑福亭晃瓶

鶴瓶 ちょっとムカつくな(苦笑)。

晃瓶 何が? どこら辺がムカつくか、そこだけちょっと教えていただけたら、注意して回ります。

鶴瓶 お前、タクシーの運転手さんに注意して回るんか。

晃瓶 いや、放送で言います。これから二度と「晃瓶さんの師匠ですね」と言うのはやめてください、と。それだけは言うときます。結構効きますから。僕言うと。

鶴瓶 お前、京都全部押さえとるよな。

晃瓶 26年ラジオやってますからね。

鶴瓶 ほんだら、もういっぺん言うわ。タクシーで「晃瓶さんの師匠や」って言われるのは、俺が傷ついているの、わかるか?

晃瓶 傷つくんですか!?

鶴瓶 いや、傷つくっていうのはおかしいけど、まずは俺やんか! 「あ、鶴瓶さんや! 鶴瓶さんや!」って喜んでくれて、「そういえば、お弟子さんのラジオ聴いてます」、これだったらええですよ。まず俺見て、「晃瓶さんの師匠や!」これはないんちゃうか?

晃瓶 あの、京都の狭いところで言われて、そない悔しいですか、師匠。

鶴瓶 京都は出身みたいなもんや。京都の近畿放送から出た人間や。それが知らん間に、油断してたら、お前に取られたんや。陣地取りみたいなものや。

晃瓶 師匠、お言葉ですけど、「晃瓶、ようがんばってるな」と。

鶴瓶 いや!

晃瓶 その一言いただけるんかなと思ったんですけど、「悔しい!」と。え、ちょっと驚いています、正直。

鶴瓶 だったらもう一度改めて言います。「悔しい!」

笑福亭恭瓶

笑福亭恭瓶

笑福亭笑助

笑福亭笑助

そう言いつつも、鶴瓶は「いや、うれしいですよ、うれしいですよ」と言葉を続ける。そんな息の合った師匠と弟子のやりとりに、あたたかい笑いが起きた。

「そうそう、これ、智子も見てるよ」と鶴瓶。智子さんとは東京に暮らす笑瓶の妻のこと。「配信だから見れる」。

「僕ら、お姉さんところにご挨拶に行ってきました」と晃瓶。この会に臨む前、3人は東京に出向き、智子さんに会って、笑瓶のいろいろなお話を聞いてきたという。

「だから師匠もあまりご存知ないこともあると思います」

「芸に厳しかった」笑瓶の一面

ここからは晃瓶が司会進行を務め、鶴瓶とともに語り合うという流れで進められた。まずはあらためて笑瓶のプロフィールを読み上げていく晃瓶。

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

晃瓶 「1956年11月7日生まれ」。

鶴瓶 4歳しか違わないんですよ。

晃瓶 「蠍座の男」。

鶴瓶 なんの男でもええやん。

晃瓶 書いてあるからしゃーないですね。「高校在学中」、1972年の頃です、ここがびっくりします。「スクールメイツに入団」。マジですよ。スクールメイツにあの感じでよう入ったなと。(笑助に)お前の師匠やで。

笑助 子供の頃から芸能界に憧れてはったと言うのは聞いてたので。

鶴瓶 それでなんで俺んとこやねん(笑)。

晃瓶 「アイドルを目指すも成就せず」。ま、そりゃそやな。アイドルは無理やわな。亡くなった人にあれやけど、正直に言わないと。「大阪芸術大学卒業後、1981年、師匠、鶴瓶の門下の一番弟子に入門」。僕は84年入門だから3年先輩なんです。

鶴瓶 俺が噺家になって10年目くらいですね。

晃瓶 師匠、20代ですよね。

鶴瓶 29ですね。

晃瓶 「そして修行中から、『突然ガバチョ!』のレギュラーとして人気がバーッと出てくる」。

笑福亭鶴瓶、笑福亭笑瓶らが出演した「突然ガバチョ!」のワンシーン。

笑福亭鶴瓶、笑福亭笑瓶らが出演した「突然ガバチョ!」のワンシーン。

鶴瓶 入ってすぐですよ。

晃瓶 「その後、師匠より早く東京に進出し、成功し、さまざまな番組で活躍されました」。

鶴瓶 そうそう、だから早いのや。「お前、東京行け」って太田プロに任せたら、ドーンと行った。

晃瓶 「仁鶴師匠、さんまさん、山田邦子さん、ダウンタウンといった多くの共演者から愛されました」。

鶴瓶 そう、ほんまそれがすごいよ。

晃瓶 パッと懐に入るというか、なんか持って生まれたものをお兄さん持ってはったんですな。めちゃくちゃ優しかったです。「今年の2月22日です。66歳で亡くなりました」。

鶴瓶 早よ、逝きすぎたなあ。

左から笑福亭笑瓶、笑福亭鶴瓶。

左から笑福亭笑瓶、笑福亭鶴瓶。

修行時代、弟子たちは鶴瓶の家に毎日通う。鶴瓶が仕事で家にいないときは、鶴瓶の妻や子供たちと過ごす時間も長い。晃瓶からは自分が弟子入りした初日に、笑瓶が気を遣ってくれて一緒に鶴瓶の家の庭の草むしりをしてくれたことや、お腹を空かせた鶴瓶の子供たちにおにぎりを握ったエピソードなどを明かしていく。

一方、五番弟子の恭瓶は、笑瓶の元で6年間ついて東京へ行っていたこともあり、「僕にとっては怖い人ですね。ズバッてもの言いはる。だからいっぱい怒られてます。怒られるのは芸のことばかりでしたが、『この世界に向いてない!』って言われて、泣きながら家帰ったことありますし」と、笑瓶が芸に厳しかった一面を伝える。それを聞いて、鶴瓶は「俺、ちゃんと笑瓶に言ってたからな。あいつ(恭瓶)、ちゃんと見なあかんでって。よっぽど育てようと思ったんやろな」と頷く。

落語家としての笑瓶

鶴瓶門下は現在12名。その誰もが、落語を本格的にはじめる前の「タレントとしての笑福亭鶴瓶」に憧れて弟子になっているが、その後、鶴瓶が52歳で落語をはじめると、各々、落語に取り組み始めた。それには、一門を集めて言った、鶴瓶のこんな一言があったそうだ。

「お前らも落語をせえ。俺が東京と大阪の架け橋になってやるから、お前ら、食えるようになるから」と。

この言葉はカッコよかったと晃瓶。それが弟子たちの背中を押した。そして、タレントとしてもすでに活躍していた笑瓶もまた、最初こそ戸惑ったが、鶴瓶の私落語を見て、自分でも私落語を作り始め、落語家としての道を歩み始めていくことになる。

鶴瓶が言った。

「実は、笑瓶の『ある日の六代目』と『横山大観』という2作品を収録したCDを出すんですよ。実はこいつは落語家だったんだということをちゃんと残そうと思って、交渉しました」

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

「俺も出してないのに、こいつ(笑瓶)が出すわけや」と、笑いながらもうれしそうに報告する鶴瓶に、「あの世で兄さんもうれしいなと喜んではりますね」と晃瓶が言う。

鶴瓶も笑瓶も、笑福亭一門にいる以上、ずっと落語はそばにあり、落語を聞いてきている。そういう中で鶴瓶は笑瓶にずっとこう言ってきたそうだ。

「ある程度年齢重ねて、その雰囲気ができたら、絶対落語できるから、その雰囲気ができるまで待って、俺がやりはじめたらお前もせえよと言っていた。でも俺がまさかここまでやるとは思ってなかったと思うので戸惑ってたけれど、でもこの2作品ができたからよかったと思う」

鶴瓶は自分が死ぬまで落語の音源を出すつもりはない。しかし、笑瓶のCDは別だった。タレントとして人気者になりながら、その一方で、笑瓶がしっかりと落語家として生きてきたのだという証を、どうしても残したかったのだ。そして、だからこそ、今日も配信を選び、多くの人に聞いてもらいたいと願ったのだ。

いろいろ言うてくるから、面白かった

晃瓶 最初に師匠のところに入門したときは、兄弟分じゃないけど、弟分みたいな感じだったんですよね。

鶴瓶 そうそう、うちの師匠が「お前、弟子来てるんやろ、取ったれ」と。でも「取りません。どうしていいのかわからへんし」と言ってた。この業界って縦社会やから、取ったやつが可哀想やんか。でも、「上方落語をもっと東京に近づけたい。だから人気者も必要やと。お前みたいに、世間にわかる人も必要やし、そして、落語する人も必要やし、そういう落語家を育てたい」と言ってはった。だから笑瓶を取ったけど、まずは俺がせなあかんのは、こいつ(笑瓶)を売り出すことやから、俺の番組に出した。そしたら、あっという間に売れた。それで、大阪にいたらあかん、東京に行け、と。それで(片岡)鶴太郎さんや邦ちゃん(山田邦子)に頼んで、太田プロにお願いして。

晃瓶 ええタイミングで、ええ時期にポンポンポンと行きはったなと思いますね。

鶴瓶 すごくよかったよね。

晃瓶 僕ら、師匠のところに入門されるときの兄さんのこと知らないですけど、今、ええ顔してるじゃないですか。入ってくるときの顔って違ってたと思うんですけど、入ってきはったときに、「あ、こいつは」と、ピンとくることはあったのかな、と。

鶴瓶 それはあるよ。俺に気を遣わんといろいろ言うてくるから、面白かったし。(鶴瓶の本名の学から)「まーちゃん!」とか言い出すしね。「まーちゃん、言うな! アホ!」って。「鶴瓶ちゃん!」とか平気で言いますからね。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶。

晃瓶 僕らは羨ましかったんですよ。師匠との関わりが。それに、師匠が乗ってくれはって、またそれが2人でウケるじゃないですか。僕らはそんなん絶対に言えないから。師匠と松鶴師匠の話も聞いてきましたから、師弟の関わりってそんなものではないから。

鶴瓶 そうやで。仁鶴兄さんに対する笑瓶の感じでもわかるやろ? 結局、本人のここ(心)がええからやろね。

笑瓶の写真連発で会場が爆笑

そこから、智子さんから借りてきたという笑瓶の写真が次々に披露された。「生まれたては師匠に似てる」という赤ちゃんの頃の写真、「目を大きく見開いた」アイドルを目指していた頃の写真、「山から降りてきた服を着た猿」にしか見えない10代のときの写真、そして、タレントとして活躍し始めてからの写真は、ハゲづらや時代劇、どこかの国の伝統衣装に浮き輪をつけたり、マントをしたアメリカンコミック的なものまで、さまざまな変な格好に扮した写真が5連発続いた。一枚一枚、笑瓶の堂々とした写真の写りっぷりに、会場からは爆笑が起きる。

「こんなん、兄さん、ほんと好きでしたからね」と晃瓶。「自分の原点の顔を生かしながら変装するの好きや」と鶴瓶が笑うと、「こういうことを僕らアドバイスされてたんですよ。変な格好しなさいっていうことをずっと言ってはった」と恭瓶。「ワハハ、俺は言ってないよ」と鶴瓶。

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

晃瓶 いっぺん兄さんがね、「お前ら、師匠とキスできるか」っていう。そんなことを振ってくるんですよ。

鶴瓶 しばき倒すぞ。ほんま。

晃瓶 「俺はできる」と言ってた。

鶴瓶 気持ち悪いわ。

晃瓶 それくらい好きなんだという大会をしたことがある。

鶴瓶 それやったら舌入れよか?

恭瓶 そうなると大会にならない(笑)。その辺は負けず嫌い。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶。

左から笑福亭笑助、笑福亭恭瓶、笑福亭晃瓶。

晃瓶 兄さんが落語やっているときの写真もあります。

鶴瓶 やっぱりええ顔してますよ、落語やってるとき。普通はね、落語なんかしてないから、舞台に出るときビビるやんか。でも、だいたい伸び伸びしとったからね。だからすごい奴やなって。

晃瓶 普通アガリますよね。

鶴瓶 落語してないし、俺もその形を見せてないから。着物着ても窮屈やんか。

晃瓶 着物を着るだけで、ウッと気持ちがアガリそうですけど。

鶴瓶 着ぐるみを着たみたいな感覚やったのかもな。

晃瓶 逆にうまいことテンション上げはったんでしょうね。


そして用意された写真の最後は、笑福亭仁鶴と間寛平と一緒に写った写真だった。間寛平がトルコでのアースマラソンに出演したとき、仁鶴と一緒にその応援に駆けつけたときのものだ。

「本当に可愛がってもらってたよ。仁鶴兄さんが去年逝った。その後、追って行ったんやろな」と鶴瓶。

笑助がそこにエピソードを加える。

笑瓶が最後に大阪に帰ったのは、2022年12月10日、今年の「事始め」だったという。事始めとは、芸ごとの人たちにとっての「正月」を意味する日で、この日、鶴瓶一門全員が集まり、酒を交わした。

笑助は言う。

「僕と師匠・笑瓶は、一緒に事始めの場所に行かせてもらったのですが、僕はその後、繁昌亭の昼席が入っているから、途中で失礼させていただいて、師匠は仁鶴師匠のお墓参りに行ってはると思うんですよ。行きにそんな話をしてたんです。お墓の場所のナビ、僕、入れさせてもらったので。そこから3カ月後やから、仁鶴師匠が呼ばれたのかなと。ちょっとだけ思いましたね」

鶴瓶は孫弟子から初めて聞いたそのエピソードに、頷くしかなかった。

「だとしたら、幸せやね。あんなに愛されているって」

左から笑福亭笑助、笑福亭笑瓶。

左から笑福亭笑助、笑福亭笑瓶。

笑瓶を映した10分弱の映像

会の後半は、同じ太田プロ所属で仲良くしていた松村邦洋からのボイスメッセージが紹介された。全編に渡り、笑瓶のモノマネしながら思い出話を披露する松村に、会場は大爆笑に包まれた。

そして最後には、鶴瓶のドキュメンタリー映画「バケモン」の監督で、鶴瓶の落語会や鶴瓶噺の現場には必ず密着し、記録を撮り続けている山根真吾が編集した約10分弱の映像が公開された。山根は鶴瓶に密着しながらも、周りの重要な人物たちのインタビューも丁寧に重ねており、笑瓶のインタビューも取っていた。そこには、タレント鶴瓶に憧れ、弟子入りし、突っ走っていく鶴瓶の姿を追いかけながら、自身も落語を始めていったその想いが語られた。

2010年の笑福亭鶴瓶一門会では、高座に上がる落語家・笑福亭笑瓶の生き生きとした姿も映像として残っている。

そして2020年の笑福亭鶴瓶落語会の楽屋外ではこのようなインタビューが記録されていた。


山根 弟子入りするとき、松鶴さんの許しをどうやって得たんですか?

笑瓶 六代目のところに、粉浜の旧邸(今の「無学」がある場所)ですけど、勝手口から入らせてもらって、その日の午前中でしたかね、六代目、あーちゃん(松鶴の妻)、師匠が下座でご挨拶している後ろに待たせていただいたんです。それで、「今日はなんや」、「後ろに控えている男の子なんですけど、落語やってないんですけど、この世界で勉強したいという話なのですが、師匠にお伺い立ててからと思ってお伺いに来ました」と。そしたら、「面白い話するの好きか」と六代目が僕に声をかけていただいて、「大好きです」と言ったら、「それなら鶴瓶、もうええで、落語家みたいなもんや。落ちのある語りと書いて落語家だから、面白い話が好きだったら入れてあげえ」言うて、「名前もつけてあげえ」って言って、許しを得て、ようやく入門という形を取らせていただいた。

山根 ああ、そうですか。

笑瓶 その後に、「何も芸を学ばんでもええ、生き様学びや」って、その時、六代目に伝言していただきましたね。深い言葉だと思いますね。すべて、人間含めた上で、そこから出てくる芸道というものが、六代目の中には観念でお持ちだったのかもしれないですね。「人となりが芸となる」ということをおっしゃってたのかな、と。深いお言葉でしたね。

笑福亭笑瓶

笑福亭笑瓶

短い映像ではあったが、その中からは、師匠鶴瓶への思いや、六代目からもらった言葉を大事にして生きてきた笑瓶の姿が浮かび上がる。そんな言葉を今、ここで聞けるとは。「録っておいてくれたことに感謝しますね」と晃瓶はしみじみと頷き、「なんか、今も亡くなったとは思えてないんですね。正直」と呟いた。

鶴瓶は言う。

「亡くなるというのは、形がなくなるんですけど、いろんなしゃべったことがここ(心)に残ってるから、だから俺も亡くなったとは思えへんね。特に笑瓶はもう独り立ちしていたから、後にはそういうことはしゃべらなかったしね」、そう続け、「でも、お前らがこの会を企画して、俺がこれを確かめる、ってこんな幸せなことないで。幸せやと思うよ。それは」と深く感謝をするように言葉を続けた。

笑福亭鶴瓶

笑福亭鶴瓶

「こいつの生き様を学べ」と、まだ入門9年目の鶴瓶に、六代目松鶴は何を感じていたのか。思えば、六代目松鶴の何よりもの望みは、江戸と上方のコミュニケーションを活発にして、上方落語をより広く世間に知ってもらえるようにすることだった。そのために、落語を追求する弟子とメディアの人気者になっていく弟子の2パターンが大切だと思っていたのだろうと鶴瓶は言う。

「たまたまのちに、俺は両方できるようになった。ありがたいなと思いますね。それが松鶴が言う、『生き様』なのかもしれないですね。そういう意味では師匠の手の平でずっと泳がされている感じがして、それもよかったなと思いますね。いい噺家を輩出した、笑瓶というね」

六代目の旧邸で修行した鶴瓶たち、そして、今、ここ「無学」の場所に受け継がれてきたもの、そして、またここから生まれるもの。

笑瓶との思い出を、師弟、孫弟子で、笑いながら語っていると、すぐ上の楽屋から笑瓶が舞台に現れてきそうな気さえした。それくらいに、誰もの中に、笑瓶は生き生きと存在していた。

第15回「無学 鶴の間」は、晃瓶、恭瓶、そして、笑瓶の弟子、笑助とともに、2月に急死した笑福亭笑瓶を偲ぶ会となった。家族に愛され、師匠に愛され、一門に愛され、たくさんの先輩後輩芸人に愛され、笑わすことが大好きで、面白いことをするためなら何も惜しまない、まさしく「落語家」として生きた人、笑福亭笑瓶──。

左から笑福亭笑助、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶、笑福亭恭瓶。

左から笑福亭笑助、笑福亭晃瓶、笑福亭鶴瓶、笑福亭恭瓶。

プロフィール

笑福亭鶴瓶(ショウフクテイツルベ)

1951年12月23日生まれ。大阪府出身。1972年、6代目笑福亭松鶴のもとに入門。以降、テレビバラエティ、ドラマ、映画、ラジオ、落語などで長年にわたって活躍している。大阪・帝塚山の寄席小屋「無学」で、秘密のゲストを招いて行う「帝塚山 無学の会」を20年以上にわたって開催してきた。

笑福亭笑瓶(ショウフクテイショウヘイ)

1956年、大阪生まれ。高校時代にスクールメイツに入団するなど芸能界に興味を持ち、1981年、笑福亭鶴瓶に入門。筆頭弟子となる。修行時代から「突然ガバチョ!」(MBS)で人気を博し、その後、東京進出。さまざまな番組に出演し、タレントとして活躍した。2023年2月22日、66歳で逝去。

笑福亭晃瓶(ショウフクテイコウヘイ)

1960年、大阪生まれ。1984年、笑福亭鶴瓶に入門。1998年より、「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(KBS京都)のパーソナリティを務めている。

笑福亭恭瓶(ショウフクテイキョウヘイ)

1964年、福岡生まれ。1986年、笑福亭鶴瓶に入門。博多弁落語を得意とする。

笑福亭笑助(ショウフクテイショウスケ)

1976年、大阪生まれ。1997年、笑福亭笑瓶に入門。入門後すぐに東京へ。2014年より4年間、「東北住みます芸人」として山形を拠点に活動。現在、大阪在住。

2024年10月30日更新