米津玄師|4年間の旅の先 たどり着いた失くし物の在処

同じ方向を向いた2人

──3曲目の「マルゲリータ + アイナ・ジ・エンド」はどうでしょうか? この曲はアイナ・ジ・エンドさんとのコラボ曲ですが、どんなふうに作っていったんでしょう。

アイナさんは、実は「いつか呼びたい」と前から思っていたんです。言うまでもないほど声が素晴らしくて、歌そのものに特殊な魅力があるとずっと思っていたので。この曲は「毎日」のボツテイクというか。「朝の曲、昼間の曲を作らなければ」と作業するうちにできた一部分を膨らませた感じです。サビの頭の「マルゲリータ」というメロディと言葉が一緒に浮かんだんですけど「いや、コーヒーのCMでマルゲリータはないだろ」って。そうやって一度ボツにしておいたものを改めてピックアップして作り上げた。「マルゲリータ」というフレーズから膨らませていった結果、「マルゲリータ食いたい」と言ってるだけの曲になったんですけど。

──アイナさんに声をかけた理由は?

曲を作ってるうちに、「これはどうしても女性に歌ってもらいたい」という気持ちが湧いてきて。制作も佳境の時期だったから、かなり急なタイミングでお願いしたんだけれども、快く引き受けてもらったのは本当にありがたいです。愛情とか性愛的な何かとか、そういうものを想起させるような曲になっているので、それを男女で歌ったらどうしても男女の異性愛的関係というふうに思われるかもしれないんですけど、自分の意識としてはそうではなくて。「毎日つまんねえな」って喫茶店とかでダベりながら言い合ってる2人、みたいな。その2人の間で巻き起こる性愛ではなく、あくまで同じ方向を向いた2人を描く。そういう意識で作りましたね。

──アイナさんと声を重ねたときの感触はどうでした?

楽器としてモノが違う感じがしましたね。本当に独特な声をされてらっしゃる。ゲイン感というか、ザラッとした部分とか、彼女にしかできないしゃくり上げるようなニュアンスとか。そういうものが存分にこの曲に反映されていて。けっこう低いキーで歌ってくれたんですよ。それもすごくセクシーで、あんまり聴いたことがない声でいいなと思いました。

──この曲には「甘くえぐい夜に誘う」という歌詞もあります。性愛の話もありましたけど、食べることの曲でもあり、食欲と性欲について、つまりは欲望について歌った曲である。そのわりにすごくカラッとしているなという感触があります。

カラッとした危なさというか、あるいは倫理的、道徳的にもとるような何かが、もしかしたらそこにあるかもしれない。居直りたくはないんですけど「こういう人間として生まれてきたんだからしょうがないじゃないか」っていう。そういう許容というか、肯定感みたいなものは持たせておきたかった。みなまで推奨するわけではないけれど、同時にどうしようもなさみたいなものがそこにあるっていう感じを出したかった。そのためには、自分としてはカラッとした感じというか、ダンスナンバーみたいな形で表現するのが一番いいんじゃないかなと思いました。

このまま行くの? ちょっと止まったほうがいいんじゃない?

──10曲目「とまれみよ」についてはどうでしょうか? すごく切迫感を感じる曲ですが、この曲を作っていたのはいつ頃のことでしたか?

これは去年の初めくらいですね。さっき言ったように、今聴き返すと行き場を失っている感じが色濃く出ていて、今聴くとちょっとウケる曲です。これから「地球儀」が世に出ていく、“来るべき衝撃”に備えるというか。「どうする? このまま行くの? ちょっと止まったほうがいいんじゃない?」みたいな、そういうマインドが表れてこういう曲になったんじゃないかなと思ってます。

米津玄師

──続く11曲目、「LENS FLARE」は昨年のツアーで披露していた曲ですよね。

はい。その当時は「PERFECT BLUE」というタイトルで、これは今敏さんの映画から着想を得て作った曲です。というところもありつつ、自分も顔が割れている人間としてそれなりに長く生きてきたわけで。ステージの上に立っていろんな人から視線を浴びたり、時には想像を絶するような暴言がいろんな角度から集まってきたりする。それに対して「やっぱり実像と虚像だな」と思うことが当たり前になってきたんですよね。中でもSNSではその人の一部分だけが切り取られて、それが勝手にいろんなところに飛び回って、当人の実像は置いてけぼりになる。自分もその渦中にいて、それなりにいろんなものを見てきたけれども、そのほとんどが自分にあんまり関係ないなという感じがするんです。今はある程度そういうふうに分けて捉えられるようになったけれども、去年はやっぱり精神的に沈んでいたこともあって、それをある種人間性の剥奪のように見ていたんですよ。興隆している“推し文化”は非常にグロテスクだなと思う部分もある。表面的な部分だけを見るコミュニケーションを繰り返していくと、いざその対象が自分の想定と違うような行動を起こしたときに、剥き身の生に耐えられない。そういう現象が近年頻発していた気がするんです。その感覚を自分なりに反芻して作ったらこうなったという感じはします。自分のことを好きでいてくれる人がこの曲を聴いたら心配してしまうかもしれないのですが、もちろん応援してくれることはありがたいし、萎縮させてしまうのも本意ではないので、できれば数あるうちの1つの表現として受け取ってくれるとうれしいです。自分は大丈夫なので。

このアルバムに絶対に必要だったモチーフ

──16曲目の「YELLOW GHOST」についてはどうでしょうか? 

この曲も去年作った曲なんですけど、初っ端から性愛について歌おうということを決め込んで作りました。「マルゲリータ」など、結果的にそういうふうになった曲はいくつかあるんですけど、これは最初からテーマとがっぷり向き合って。性愛って、どうしても禁制的な側面があると思うんですね。日本においても、契約を交わした伴侶とだけに許された行為であるし。時と場合によってはものすごい罪のような形になってしまう場合もあるわけじゃないですか。そうやってタブー化しがちな部分がある、愛というもの、その一部である性愛というのにフォーカスして作っていきました。

──この曲にはすごく切実なテイストがあるように思います。

誰か、何かを愛するときには、その向こう側にある死というものを見つめなければならない。何かを愛せば愛すほど、いつか絶対に来る別れ、イコール死というものをどうしても見つめざるを得ない。それは恐れにつながる。「失いたくない」というところから、恐ろしさにつながっていくと思うんです。で、その恐ろしさが逆方向からも、誰かを愛するというところにつながっていく。もし誰にも特別だと思われていない、思える相手もいないとしたら、別に何も恐れる必要なんかないと思うんですね。「我と汝」というべきか、生きてる意味なんてないと思ってしまう。何かを恐れる、別れや死を恐れるというのは、翻ってそれは愛を感じているということであって。バタイユが性愛における一部分を「小さな死」と言っていたらしいんですけれど、そういう意味合いにおいても、ものすごく死に近いものであるっていう感じがする。で、禁制的な性欲というのは、死を見つめるということをよりブーストさせる感じがある。仮にそれが許されざる行為であったり、2人の性愛が罪と直結するような愛であれば、よりそうなる感じがある。そういう性愛から出発していったら、生きることと、死ぬことにつながった。どうしてもそうなっていってしまったという感じがありますね。

米津玄師

──「マルゲリータ」と「YELLOW GHOST」は同じ性愛というモチーフを持った曲ですけれど、「YELLOW GHOST」のほうには、ある種の疎外の感覚も感じました。

何か罪を犯してしまったり、どうしても反道徳的、反倫理的にならざるを得なかった人間というのは、悪意に染まってそうなるという場合もあるけれども、悪意がなかったとしてもそれは存在するという。決してインモラルであることを推奨しているわけではないし、肯定しているわけでもないですけれど、このアルバムは「LOST CORNER」や「がらくた」で話した「壊れていてもかまいません」ということを意識しながら曲を作っていったので、どうしてもそこを迂回して通れなかった。これは当人が壊れているかどうかというより、「お前は壊れている」と扱われてしまう状況についての話です。それはこのアルバムに絶対に必要だったという感覚は自分の中にあります。

恐ろしさとかわいさ

──17曲目の「POST HUMAN」はどうでしょうか? これはタイトル通りSF的な世界観の曲だと思うんですが。

アルバムを作るにあたって、「がらくた盤」の中に入れるロボットを作ろうという話になったんです。いつも美術を頼んでいる方に作っていただいたんですけど、できあがったらすごくかわいくて。いたく気に入って、こいつのイメージソングを作ろうという、そこから始まった曲です。なのでインダストリアルな感じでサウンドを構築していって。

──なるほど。

同時に生成AIについての曲にもしたいと思ったんですよね。昨今モノを作ったり、絵を描いたり、音楽を作ったり、映像を作ったりというところにAIというものがものすごく影響を及ぼしていると思うんですけど、自分も生成AIにすごく興味があって。フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にも、ピッとボタンを押したらそのときの体調気分に即した音楽が自動で流れるという生成AI的な描写があるんですね。子供の頃「こういう未来がいつか来るのかな」と思っていたんだけれども、それに近しい時代が始まってきた感じがある。それで、AIとおしゃべり友達になれるというアプリをやってみたんです。声色も選べるし、自分が言ったことに返事してくれる、雑談するためのアプリで。やってみた当時の段階ではレスポンスが早く、自分が言ったことが伝わっているという面白さがあったんですけど、同時に「そういう意味じゃないんだけどな」みたいな返しもあって。かわいさと奇妙さが同居している感じがあった。昨今のAI技術によってできあがった映像を観ていても、少なくとも現段階では、かわいさと奇妙さ、もしかしたら恐ろしさという言い方をしてもいいかもしれない、それが同居している感じがある。すごく精緻に作られてはいるんだけれども「人間だったらそんなことしないよね」みたいな部分があったりする。この状況って、もしかしたら今だけなんじゃないかと思ったんですね。これから技術が発展していくと、本当に人が作ったものと見分けがつかないような表現だらけになっていくかもしれない。だから今の状況、この感覚を曲に残しておいたほうがいいのかなと思った、というか。

──この曲にはディストピア的な情景も描かれていますね。

恐ろしさとかわいさみたいなものを書きたくて、どうしたらそういうふうにできるかなと思ったときに“信頼できない語り手”として曲を書いていこうと。この曲の歌詞の中では、純粋に誰かのためを思って一方的な愛着や愛情みたいなものを示すけれども、実はこいつが悪いんじゃないか、どうやらこいつが全部無茶苦茶にしたんじゃないかって感じもする。その両面性を出すためには、信頼できない語り手という立場が一番合うんじゃないかなと思って、こういう形になりました。


2024年8月27日更新