米津玄師|僕はこういうふうに生きていきます──「地球儀」に込めた“宮﨑駿と私”「君たちはどう生きるか」主題歌制作の4年を振り返って

米津玄師の新曲「地球儀」についてのインタビューが実現した。

「地球儀」は宮﨑駿監督の新作映画「君たちはどう生きるか」の主題歌として書き下ろされた1曲。米津はかねてからスタジオジブリ作品への思い入れや宮﨑監督への敬愛の念を公言してきたが、長年の思いが実っての制作となった。

7月26日にリリースされたシングルCDには、主題歌制作を追ったドキュメンタリー写真集も同梱されている。4年間にわたる制作の背景とは、どんなものだったのか。米津が宮﨑駿監督作品から受けた影響や、曲に込めた思いなどについて、たっぷりと語ってもらった。

取材・文 / 柴那典撮影 / 木村和平

宮﨑駿監督作品との出会い、強烈な原体験

──米津さんにとってのジブリ映画、宮﨑駿監督作品の原体験はどういうものでしたか?

最初に観たのは「もののけ姫」です。1997年、小学1年生の頃でした。その頃自分が過ごしていた地域は映画館がほとんどなく、映画を観に行く習慣もなかったので、映画館で映画を観た原体験と言っても過言ではなくて。「もののけ姫」を初めて観たときのことはめちゃくちゃ記憶に残っていますね。

──どのような衝撃がありましたか?

ものすごくバイオレンスな映画で、腕や首がふっ飛んだり、子供が観たらトラウマになってもおかしくないようなことが繰り広げられていて。「なんてものを観たんだ」という感覚が一番強くありました。そのせいなのかわからないですが、付随する映画館での記憶も残っているんです。父親の車に乗って姉と3人で行ったんですけれど、映画館に入る前にマクドナルドに寄ってハンバーガーを買って、その紙袋を座席の下に置いて観ていたのですが。暗い中スクリーンの光を浴びてその茶色い紙袋がぼんやり見えた光景もすごく覚えていて。それくらい強烈に残っている体験でした。

──「もののけ姫」から始まって、リアルタイムでたくさんの作品を観てきたと思うのですが、中でも特に思い入れの強いものは?

小学校5年生の頃に観に行った「千と千尋の神隠し」が一番思い入れが深いですね。なぜかはあまり言語化できないところがあるんですけど、主人公の千尋が当時の自分と同世代であるということもあっただろうし、日常では到底起こり得ないことが起こってしまうようなファンタジックな空想世界に対する憧れが子供の頃にすごくあって。そこらへんにいるような女の子が、ひょんなきっかけで、どこかわからないところに迷い込んでしまう。それが子供時代の自分にとってリアリティがあって、もしかしたら自分も日常生活の中で道を曲がってどこかの隘路(あいろ)に入っていけば、そういう世界が広がっているんじゃないかという、そういう可能性を提示してくれるような感覚があった。それは自分にとって豊かな体験だったと思います。

米津玄師

──「千と千尋の神隠し」で好きなシーンや、特に記憶に残っている場面はありますか?

ベタですけど、うっすら海に沈んでしまっている線路を子供たちだけで歩いていくというシーンがすごく好きですね。近年の自分のライブではオープニングとエンディングを同じ映像にするということをよくやっていて。それは「千と千尋の神隠し」の影響ですね。最初に見たものと最後に見たものが、その間に見たものを経ることによって感じ方が全然変わってくるという。それは宮﨑さんの言葉が載った書籍を読んで知ったことで。映画というものがトンネルだとするならば、入っていって、出てくるときにはちょっと違う視点になっていてほしい。映画館に来る前と来たあとで、世の中に対する捉え方が、少しでいいから何か変わってほしいという。そういうものを表現するために、最初と最後を同じ絵にするというのが、すごく効果的だということを思っていて。なので、影響を受けたという意味でも「千と千尋の神隠し」が一番大きいかもしれないです。

偉大な師匠として、父親のような存在として

──子供の頃の原体験だけではなく、アーティストとして音楽を作るようになってからも、スタジオジブリ作品や宮﨑駿監督の考え方やものの見方を参照することは多かった?

そうですね。自分の人生で一番参照したんじゃないかなと思います。ただ、なんでそうなったのかは自分でもまったく覚えていないんですよ。もちろん子供の頃から宮﨑監督の映画を観ながら生きてきましたけど、そのうえで、何かものを作る立場として参照するようになった大きなきっかけが何だったか、どのタイミングで始まったのかもまったく覚えてない。それくらい自明なものとして、ある種の私淑が始まった感じがあります。

──そうなんですね。

「君たちはどう生きるか」の主題歌を作ることになって、自分にとってジブリ映画、ひいては宮﨑駿さんとはどういう存在なんだろうかと改めて考えてみると、自分には師匠と言えるような存在がいないんですよね。例えば音楽に関しても、絵に関しても、明確に誰かに何かを教えられたという体験がほとんどない。学業もそぞろに生きてきたし、先輩付き合い後輩付き合いとか、上司と部下とか、そういう関係性もほとんど体験していない。年長者に何かを教わって、それが自分の人格に大きく影響を及ぼしているという、そういう体験がすごく希薄だなって、自分の人生を思い返してみて思ったんです。だから、師匠のような存在として宮﨑駿さんを求めていたのかもしれない。偉大な師匠として、もっと言うと、父親のような存在として。彼の映画は祝福にあふれているし、一方で書籍を読むと、すごく辛辣な言葉があふれている。だから、ちゃんと自分のことを否定してくれて、それと同時に「お前は生きていていいんだよ」と教えてもらう。そういう、ある種の父性をどこかで彼に求めていたんじゃないかというのは、最近になって思うようになりました。

──以前のインタビューでは「風の谷のナウシカ」をイメージして「飛燕」という曲を書いたとおっしゃっていました。特にマンガ版の「風の谷のナウシカ」に大きな影響を受けた、それが自分にとっての指針になっているということでしたが、それは改めてどういうものだったんでしょうか。

「千と千尋の神隠し」が幼少期の体験だとすれば、「風の谷のナウシカ」のマンガ版は青年期、18歳くらいの、田舎から出てきて大阪に住んでいろんなものを吸収していく時期に出会った作品で。一番印象深いのは最後のシーンですね。墓の主とナウシカが対面するところで「お前は危険な闇だ」という墓の主の言葉に対してナウシカが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」と言う。その「闇の中のまたたく光」というのが、当時の自分にとってものすごい衝撃だったんです。コンパクトに短く、それでいて自分の生き方とも合致するような普遍的な言葉で何かを残せるというのが、すごく大きな体験だったんですよね。本当に、あのひと言があるだけで、ここから先、自分は生きていけるんだろうなと思いました。当時は暗闇の中をもがくような人生を送っていて、光輝けない自分がこの世で生きててもしょうがないんじゃないかという絶望や失望があったんですけれど、「ああ、それでいいんだな」と自分の人生を丸ごと肯定してくれたような衝撃がありました。なので「風の谷のナウシカ」は自分にとって大事なものになりましたね。

──以前のインタビューでは2018年に宮﨑監督と鈴木敏夫プロデューサーに初めてお会いしたときのことを話していました。実際に対面したことで、印象が変わったことはありましたか?(参照:米津玄師「Flamingo / TEENAGE RIOT」インタビュー

ドキュメンタリーで見ていた宮﨑さんは、苛烈な言葉をスタッフに吐いたりする場面が映っていたり、頑固親父的なイメージがありました。でも、よくよく考えてみれば当たり前なんですけど、初めて会った若造に対してそんな態度なわけもなく、最初に会ったときはニコニコしていて。朗らかなおじいちゃんという印象でした。どこの誰ともわからないような若造に対して「何歳なの?」「27です」「27年なんて、ついこないだだね」と言ってくれて。何気ない言葉だったと思うのですが、ちゃんと言葉を交わしてくれたことが、自分にとってはすごくエポックメイキングな体験でした。

──その頃には宮﨑監督が新作の長編映画を作っているという情報はすでに世に出ていましたね。

「毛虫のボロ」という宮﨑さんが作った短編映画ができあがった頃で、それについてジブリが発行している「熱風」という小冊子のインタビューを受けるという仕事があってジブリに行ったんですね。そのときに「せっかくだから」とスタジオを見させていただいたんです。そのときにはすでに「君たちはどう生きるか」の設定資料や、眞人の顔も壁に貼られていて。「これが次の新作か、どういうふうになるんだろうな」みたいなことを思っていたのを覚えています。