米津玄師|巡る命の環、見えなくてもそこにあるもの

1人ひとりが持ってるものを持ち寄って

──この曲は、サウンドもすごく革新的ですよね。「灰色と青」から通じるデジタルクワイアの手法もありつつ、サビで超低域のベースが鳴っている。この音像もブラッシュアップしていく中でできていったんでしょうか?

それは最初からですね。まずあったのは、ピアノ、リズム、低域のシンセのベースに、あとはクジラの鳴き声をサンプリングしたものがずっと下のほうで鳴っているだけの音源だったんです。そこに打ち込みで弦も入れてみたんですけど、打ち込みより生で録りたいと思って、今の形になりました。とてもダイナミックで、映画に似つかわしい曲になったと思います。

──このサウンドには、海外の音楽を参照するならばビリー・アイリッシュの1stアルバム(「WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?」)の低音の鳴りとハーモニーのあり方とつながる部分もあるし、日本の映画主題歌としてのドラマティックさもある。いろんなものにリンクしているけれど、同時にどこにもないサウンドだと思います。

そうですね。いろんな要素が織り交ざって、いろんな人、1人ひとりが持ってるものを持ち寄ってできあがった実感があります。

きっかけは“椅子の話”

──歌詞には「海獣の子供」の原作で描かれていたモチーフやセリフが散りばめられていますよね。サビにも「大切なことは言葉にならない」という一節がある。これらのモチーフはどう捉えたんでしょうか。

米津玄師

最初の取っかかりになったのは“椅子の話”でした。1巻の終わりのほうにある、ほんのささいなエピソードなんですけれど。

──マンガの中でも、すごく印象に残るシーンですよね。

波打ち際に椅子を1つ置いておくと、そこに先祖の幽霊が帰ってくるという話で。帰ってきた証として、椅子の上に花や果物が乗っかっている。あともう1つは、誰もいない密室の空間に椅子を1つ置いて扉を閉めて、また次に入ってきたときにその椅子に変化があったら、その部屋には何か目に見えないものがいるっていう。物語に関わってくることではあるんだけど、決して本筋ではないエピソードがあって。その話がこの物語にとって、とても象徴的なものに思えて、椅子というモチーフにすごく惹かれたんです。

──そこから「開け放たれた この部屋には誰もいない 潮風の匂い 滲みついた椅子がひとつ」という歌い出しになっている。

そうです。この作品自体が、生命の誕生とか、生まれ変わりみたいなニュアンスがちりばめられているマンガで、なくなってしまったものに思いを馳せることがネガティブには描かれていない。あなたはいなくなってしまったかもしれないけど、またどこかで違う形として生命の誕生が巻き起こるだろうというお話なんです。ただいなくなって寂しいという感じではなくて、すごくポジティブなイメージがあるんですよ、このマンガに対して。結果、椅子の話から生まれ変わりや目には見えなくなってしまったものに思いを馳せる曲を作ろう、と。

彼に向けて歌っているようにしか聴こえなくて

──それがこの曲の始まりだったんですね。原作にはほかにも印象的なエピソードとして、砂浜のエピソードがありますよね。海に住んでいる生物にとって、陸上は死の世界であるという話。つまり砂浜は死と生の境目、彼岸と此岸の境目なんだ、と。「海の幽霊」は「風薫る砂浜で また会いましょう」という歌詞で終わっている……つまり椅子で始まって砂浜で終わるという、原作のモチーフを死と再生のストーリーに象徴的に組み込んだ曲になっているなと思ったんです。そういう必然があったんでしょうね。

そうですね。砂浜の波打ち際が死と生が入れ替わる場所という話で言うと、うちらは海の生き物じゃなくて、陸側の生き物であって。結局、砂浜側の物差しでしか、何かを測ることはできない。向こう側には向こう側の秩序があって、知らないこともあるのかもしれないけれど、でも結局うちらは、ある種の俗の中で生きていかなくてはならない。それを最終的には肯定しなければならないなっていう……。

──ここはなかなか言葉にならないところだと思うんですけど、「最終的に肯定しなければならない」というのを、もうちょっと噛み砕いていただくと?

人間にとって砂浜が生と死の境目であるなら、海はどこか死の象徴である。そういうものって俺にはけっこう、魅力的に映ったりするんですよね。海は「生命の起源」とか「母なる海」とかいろいろ言われるじゃないですか。ともすれば、人間にとっては生きていけない過酷な場所、死に近い場所というイメージもある。で、海が死だとすれば、うちらは陸……つまりは生の側にいて、うちらはうちらで生きていかなくてはならない。そのために、生きていくことを最終的に肯定しなければならない。今回の曲の歌詞とフル尺ができあがって、アレンジをやり直している最中に、俺の親友が死んだんですよね。で、本当に偶然でしかないんだけど、できあがった歌詞を見ていると、なんだか俺が彼に向けて歌っているようにしか聴こえなくて。

──そうなんですよね。僕も本当に、驚くくらい符合するものを感じたんです。「海獣の子供」はすごく大きなスケールで生と死の循環を描いている作品だし、そこには神話のモチーフもある。だから、どんなふうにも読み解ける作品だし、あの世界からどんなテーマを引っ張ってくることもできると思うんですけれど、この「海の幽霊」という曲で歌われているのは、喪失感と別れと餞の言葉なんですよね。だから、作品のために書かれた曲であるのと同時に、結果的に米津さん自身の人生においても大きな意味を持つ曲になった。

はい。

米津玄師

──不思議ではあるんですが、こういうことってあるんだなと思いました。

当然それを予期してたわけではないし、言葉で片付けるなら「偶然」というひと言でしか言えないんですけど。そもそも「海獣の子供」という原作のマンガが持っている、ある種の超常性はそういうもので。人間には理解できない出来事がどこかで巻き起こっている、人にはわからないものがこの世には確かにあるということを教えてくれるマンガだと思うんです。そういう意味で言うと「偶然」にしかならないけれども、そこにはなんらかの、示し合わせ……と言っていいのかわからないけれど、そういうものがあるんじゃないかなと。

──そうですね。加えて言うなら、今米津さんがおっしゃった「言葉にするなら『偶然』にしかならないけど、何か示し合わせのようなものがある気がする」という正直な感慨って、そのまま「大切なことは言葉にならない」という歌詞の意味合いの中身にもなっていると思うんです。

確かに、そうですね。

──そういう意味でも、楽曲と作品と米津さん自身の状況が不思議に何重にもリンクしてしまっている曲だと思いました。

そうですね。不思議な曲です。今までも自分が作ってきた音楽に対して「なんでこうなったんだろう?」みたいに思う経験は確かにあったんですけど。現実があとから付いてくるというか……本当に不思議です。