ナタリー PowerPush - 八代亜紀×小西康陽
演歌の女王、ジャズを歌う
“演歌の女王”八代亜紀によるジャズのアルバムが完成した。プロデュースおよびアレンジを手がけたのは小西康陽。この意外な組み合わせで制作された「夜のアルバム」には、これまでの双方の作品にはなかった独特のムードが流れている。
相思相愛とも言える見事なコンビネーションを見せた2人。この対談では、レコーディング時の貴重なエピソードから、八代のキュートな一面が垣間見える裏話まで、たっぷりと語り合ってもらった。
取材・文 / 松永良平(リズム&ペンシル) 撮影 / 佐藤類
「例えば八代亜紀さんみたいな」が現実に
──「八代亜紀さんが小西康陽さんのプロデュースでジャズアルバムをリリースする!」。そのニュースにはリスナーとして僕も驚きましたけど、まず最初にこの企画が出てきた時点でのご本人同士が一番驚かれたと思うんです。
八代亜紀 ジャズっていうのは10代の頃クラブで歌っていた私にとって、歌手としての原点なんです。スタンダードジャズを歌うということ自体にわくわくしましたし、小西さんがプロデュースしてくださることにもわくわくしました。どういうふうにアレンジしてくださるのか、どの曲もレコーディングが毎回すごく楽しみでした。
──八代さんは、小西さんのお仕事やピチカート・ファイヴについてはご存じでした?
八代 お仕事するのは初めてなんですけど、小西さんのダンスを知ってますよ(笑)。
小西康陽 なんですか、それ(笑)。
八代 ダンスしてらっしゃいますよね。YouTubeで観ました(笑)。
小西 いやあ……。昔はしてました(笑)。
八代 踊れるんですねえ?
小西 踊れないです、踊れないです(笑)。
──(笑)。では、逆に小西さんにお訊きします。このオファーがきたとき、どう思われました?
小西 僕は、ジャズという以前に、八代亜紀さんのような本当にすごく歌のうまい人と仕事をしてみたいと思っていたんです。でも「例えば八代亜紀さんみたいな」という例え話ぐらいの気持ちだったのに、まさかずばりその人の作品に関われるチャンスがめぐってきたので、本当にびっくりしました。
八代 うれしい(笑)。
ジュリー・ロンドンと八代亜紀
──アルバムを作り始めるにあたって、最初はどのような作品を意識されました?
小西 うん、そうですね……。誰にでもいろいろなイメージのジャズがあるから。僕にも僕のイメージがありましたし。でも、八代さんのお話を聞いたり、何曲か録り進めていくうちに、八代さんのほうにもしっかりとしたビジョンがあるということがわかってきて。
──例えばその鍵のひとつに、ジュリー・ロンドンというアメリカの女性歌手の存在がありますよね。1950年代から60年代にかけて大変人気のあった、低音のハスキーボイスのシンガーですけど、八代さんは実は子供の頃に彼女の歌に影響を受けていらっしゃって。
八代 ジュリー・ロンドンっていうのは私にとって「歌手になりたい」と思った原点なんです。小西さんは打ち合わせのときに「何を歌いたいですか?」って私に訊いてくださって。私が「難しいジャズはできません」みたいな答えをしたら、「そうじゃなくてスタンダードジャズでいいんですよ」と言ってくださったので、肩の荷が下りました。そのときにジュリー・ロンドンの「クライ・ミー・ア・リヴァー」がクラブ歌手だった頃の十八番だった、みたいな話をしましたよね?
小西 はい。僕にとっては、ジュリー・ロンドンというと、ギタリストと彼女の2人だけで歌うというようなイメージだったんですよ。最初にヒットした「クライ・ミー・ア・リヴァー」がそうですし。あれって、やっぱり男の人がリビングルームでレコードを聴いていて、まるでジュリー・ロンドンが隣にいるように思う、そんな錯覚をして聴くものですよね。だから、今回の作品も買ってくださった方が家で聴くときに、本当に八代さんが隣にいるような感じで聴ける、そういうジャズボーカルのアルバムがいいんじゃないかってまず最初にイメージしました。だから八代さんがジュリー・ロンドンの話をされたときに、僕にとってもすごく方向性が見えたところがありましたね。
収録曲
- フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
- クライ・ミー・ア・リヴァー
- ジャニー・ギター
- 五木の子守唄~いそしぎ
- サマータイム
- 枯葉
- スウェイ
- 私は泣いています
- ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー
- 再会
- ただそれだけのこと
- 虹の彼方に
八代亜紀
熊本県八代市出身の演歌歌手。15歳で歌手を目指して上京し、銀座でクラブ歌手として活動を始める。1971年にシングル「愛は死んでも」でデビューを果たし、1973年には出世作となった「なみだ恋」を発表。1979年発売の「舟唄」が大ヒットを記録し、1980年には「雨の慕情」で「第22回日本レコード大賞」大賞を受賞した。演歌歌手として確固たる地位を築きながら、一方で画家としても才能を発揮。フランス「ル・サロン展」に5年連続で入選し、永久会員となった。2010年にはデビュー40周年シングル「一枚のLP盤」を発表。2012年5月には小林旭とのデュエット曲「クレオパトラの夢」、10月10日には小西康陽プロデュースによる初の本格的なジャズアルバム「夜のアルバム」をリリースした。
小西康陽
1959年、北海道札幌生まれ。1985年にピチカート・ファイヴでデビューを果す。豊富な知識と独特の美学から作り出される作品群は世界各国で高い評価を集め、1990年代のムーブメント“渋谷系”を代表する1人となった。2001年3月31日のピチカート・ファイヴ解散後は、作詞・作曲家、アレンジャー、プロデューサー、DJとして多方面で活躍。2009年にはニューヨーク・ブロードウェイで上演された三谷幸喜 演出・脚本のミュージカル「TALK LIKE SINGING」の作曲・音楽監督を務めた。2011年5月には「PIZZICATO ONE」名義による初のソロプロジェクトとして、アルバム「11のとても悲しい歌」を発表。2012年10月10日発売の八代亜紀「夜のアルバム」ではアルバムプロデュースおよびアレンジを担当した。