SUPER BEAVERはどのように形作られたのか?さいたまスーパーアリーナ公演を前に語る、8つのターニングポイント

SUPER BEAVERが3月24日に埼玉・さいたまスーパーアリーナで行う全国ツアー「SUPER BEAVER 都会のラクダ TOUR 2023-2024 ~ 駱駝革命21 ~」最終公演の模様がWOWOWで生中継される。

SUPER BEAVERが昨年9月より全国を回り、ホール12公演、アリーナ9公演を行っているこのツアー。WOWOWではツアーに密着したバックステージの模様やメンバーの素顔を収めた特別番組も4月にオンエアされる予定だ。

音楽ナタリーではこの大規模なツアーの終着地を前に、SUPER BEAVERの根底にあるものを探るべく、メンバー1人ひとりにそれぞれが思う“ターニングポイント”を聞いた。4人から飛び出すエピソードから、SUPER BEAVERがどのように形作られていったのかを感じてほしい。

取材・文 / 蜂須賀ちなみ撮影 / 斎藤大嗣

自分たちが楽しいと思えることをやる、それはずっと変わらない

──2月にリリースされた最新アルバム「音楽」の収録曲にはタイアップがたくさん付いていたり、ホール12公演+アリーナ9公演という大規模なツアーのチケットを即完させたりと、今多くの人がSUPER BEAVERの音楽を求めている状況にあると思います。だけどSUPER BEAVERの活動は一貫していて、ブレがないですよね。ブレないようにと強く意識されていることがあるのか、それともわりと自由な心持ちで活動できているのか、気になります。

渋谷龍太(Vo) 「変わらないように」と強く意識することはあんまりないかな。ぼちぼち結成20年目になりますし、バンドの活動姿勢、ことさらライブに挑むときのマインドはずっと持っていたものなので、「こういうふうにしないと、今までの俺たちとは違うものになってしまう」みたいな感覚はないんですよ。まず自分たちが楽しみつつ、音楽を聴いてくださる方やこの空気を一緒に感じたいと思ってくださる方に対しては「もっと楽しんでほしい」と思う。みんなで一緒に楽しい1日を作り上げるという根本的な姿勢は、今の状況になったから生まれたのではなく、ずっと変わらずにあるものなので、改めて聞かれると「別に、何にも意識してないかな」という答えになりますね。

──なるほど。会場の規模が大きくなったり、聴く人の数が増えてきた実感はありますよね?

上杉研太(B) 映画の主題歌をやらせてもらいましたし、特に去年はテレビにもたくさん出させていただいたので、そのタイミングで新しく知ってくださる方もいるんだということは実感しています。だから今回っているツアーは、今のバンドの状況を見せるだけじゃなくて、ここ1、2年でビーバーを知ってくださった方が好きだと言ってくれる、サブスクで上位に上がっている曲もセットリストにバランスよく入れてみようかという会話もしたんです……けど、それに限らないですからね。「昔から応援してくださっている方は、こういう曲が聴きたいのかな」みたいなことも考えましたし。

渋谷 そう、だから変わらないんですよね。自分たちのライブを初めて観る方も、ずっと前から音楽を聴いてくださっている方も視野に入っているし、「全員がおしなべて楽しめるように」ということをずっと意識しているという話なので。

──新しく入ってきた人のことももちろん意識しているけど、「自分たちが楽しいと思えることをやって、みんなも一緒に楽しんでくれたらハッピー」というのが基本姿勢であって、本当は楽しくないことを無理してやって、自己犠牲的にほかの人の幸せを生み出すことはない、ということですよね。

渋谷 そうですね、そういうことはやりたくないです。それは圧倒的に僕らのためにならないし、たぶん、自分たちの音楽を聴いてくださっている方にも伝わっちゃうと思うから。「自分たちが楽しいと思えることをやる」というのがスタート地点にあって、そこから「じゃあ来てくれる人にもっと楽しくなってもらうには、どうしよう」と考えていく感じです。それは基本ずっと変わらないですね。

SUPER BEAVER

SUPER BEAVER

SUPER BEAVERの8つのターニングポイント

①「TEENS' MUSIC FESTIVAL 2006」での優勝(2006年)

──今のSUPER BEAVERの活動を支える強固な地盤のようなものがどのように形作られていったのかを探るために、このインタビューではバンドのターニングポイントを振り返っていければと思います。SUPER BEAVERのターニングポイントといえば、メジャーレーベルを離れて自分たちで活動し始めたタイミングや、メジャー再契約した時期を思い浮かべる人が多そうですが。

渋谷 メジャーから落ちて自分たちだけでやり始めたときは、間違いなくターニングポイントなんですよ。でも、そこはちょっと外したいんですよね……。

柳沢亮太(G) 過去のインタビューでも何回も話してきたことだからね。

渋谷 そうそう。だからほかのことを挙げたいんだけど……1つ目は「TEENS' MUSIC FESTIVAL」という大会で優勝したときかな。

上杉 なるほどね!

渋谷  自分たちは「4人が楽しい」だけじゃなくて、「スタッフの人間や観に来てくださる方も含め、全員が楽しかったら最高だよね」という姿勢で活動しているんですよ。そういう姿勢の基盤になった出来事が「TEENS' MUSIC FESTIVAL」での優勝だったのかなと思っていて。大会に出て優勝したときに、友達とか仲間とか家族とか、いろいろな人が喜んでくれているのを初めて見たんですよね。あの日「うわ、俺たちよりももっと喜んでる人がいる。なんて素敵なんだろう」と思ったことが今のバンドの姿勢につながっている気がするし、「なんでバンドやってるの?」と聞かれたら「人の喜んでる顔が見たいから」という答えが一番に出てくるようになったのは、あの日がきっかけだったと思います。その感覚はもともと根付いていたものだったかもしれないけど、「あ、音楽やる意味ってこれじゃん」って初めてちゃんとわかった日でした。だから最初のターニングポイントを挙げるとしたら、やっぱりこの日かな。

渋谷龍太(Vo)

渋谷龍太(Vo)

藤原“35才”広明(Dr) 確かに大事な日でしたね。

柳沢 でもさ、ぶーやん、初年度もデカかったよ。

渋谷 ああ、そうだね。今カッコつけて優勝したって言っちゃいましたけど、初めて出場した年は全国大会まで行ったものの優勝できなかったんですよ。みんなはわりと「じゃあ次行こうぜ!」ぐらいの感じだったけど、僕、死ぬほど悔しくて。人生で初めて味わう大きな敗北感だったんですよ。「優勝者は……」ってほかのバンドの名前がバーンと出た瞬間の「うわっ……友達とか家族とかこんなに来てくれてるのに、俺たち負けたの?」という気持ちを忘れられなくて。3人が次のライブとかの話をしてる中で、「絶対に来年も出たい」って伝えました。

柳沢 本当に即言ってたよね。

上杉 わかりやすく火が着いた音がした。

藤原 ボッ!ってね(笑)。

柳沢 俺らももちろん悔しかったけどね、渋谷はもっとすごかったから(笑)。

上杉 だから「えっ、じゃあ出る? もう1回やる?」って話になって(笑)。

渋谷 3人は「この大会がすべてじゃないし」と思っていただろうし、今考えると本当にその通りなんですよ。だけど俺はとにかくめっちゃ悔しかった。10代しか出演できない大会だから、その次の年に僕と上杉が19歳ということでラストイヤーだったんですけど、「絶対次は優勝してやるんだ」って本気で思って。

上杉 そこでよく優勝できたよね。

渋谷 確かにね。よくやったよね。そういう流れがあったから、メンバー4人めっちゃ喜んだけど、もっと喜んでる人がいたから、「素敵だ!」って思った。あのときの体験が忘れられないから今もバンドやってる感じはありますね。

②SHIBUYA CYCLONEの店長からもらった言葉(2011年)

──「TEENS' MUSIC FESTIVAL 2006」で優勝したあと、2007年にインディーズレーベルより初の全国流通作品をリリースしたSUPER BEAVERは、2009年にメジャーデビューしました。しかしメジャーでの活動は約2年間で終了。2011年といえば、所属していたレーベルと事務所を離れて自分たちで活動し始めた頃ですね。

藤原 はい。僕、1回目のメジャーデビューの直前まで、SHIBUYA CYCLONEというライブハウスでバイトしてたんです。CYCLONEでは怒られることもしょっちゅうありましたけど、礼儀とか、人として大事なことを一から教えてもらったし、ビーバーもブッキングライブに出演させてもらったりしてました。メジャーデビューをすることが決まって「がんばってきます」とバイトを辞めたんですけど、メジャーをクビになってしまったので、「負けてしまいました」と当時の店長の三浦さんに4人で報告をしに行って。そしたら三浦さんから「お前ら全員目の色全然曇ってねえから、大丈夫だよ!」って言われたんです。自分の目の色が曇ってるかなんて、鏡を見ても自分ではわからないじゃないですか。昔から知ってる人に明るく「大丈夫だぜ」と言われたことで、「あ、大丈夫なんだ」って思うことができたんですよね。

藤原“35才”広明(Dr)

藤原“35才”広明(Dr)

──2011年のSUPER BEAVERは自主活動ながら、年間100本以上のライブを行っていたそうですね。

藤原 三浦さんからもらった言葉で吹っ切れて、「とりあえずライブをやろう」という話が4人の間で出てきたんです。毎年100本くらいはライブをやろうというのは、そこからずっと続いてますね。なので、三浦さんから大丈夫だと言ってもらった日はターニングポイントだったと思ってます。