2月に発売された客演ベストアルバム「助太刀」が好評な中、輪入道が続けて3月20日に3rdアルバム「HAPPY BIRTHDAY」をリリースした。過去の2枚のオリジナルアルバムが、ゲストを迎えず己のマイク1本で作り上げた作品だったのに対し、今作ではGADOROやZeebraらをフィーチャー。多彩な顔ぶれの参加により、これまでとは印象の異なる1枚に仕上がった。
音楽ナタリーでは今回、彼にこのアルバムについてのインタビューを実施。また、輪入道のルーツを探るべく青春時代の話を聞き、彼がラップを始めるに至った流れや、伝説になった高校の文化祭でのひとコマなど、さまざまなエピソードを聞いた。
取材・文 / 秦野邦彦 撮影 / 後藤倫人
今でも母校に語り継がれる、伝説の文化祭ステージ
──アルバムのお話をじっくりうかがう前に、輪入道さん自身について聞かせてください。今回のアルバム「HAPPY BIRTHDAY」に「青春」という曲が収録されていますが、輪入道さんはどんな青春時代を送っていたんですか?
あのリリックの通りでした。小学校のときに地元が嫌で、千葉の浦安にある中高一環の私立を受験して通ってました。遊ぶ場所は千葉駅周辺が多かったです。千葉市は「幸せに輝く都市」みたいなキャッチコピーがあるんですけど、そんな健全な青春は送らなかったですね。人とコミュニケーションを取るのがあまり得意じゃなくて、遮断するために本を読んだり音楽を聴いたりして自分の世界に入り込むタイプでした。その経験が今すごく生きてるんですけど。
──どんな本を読んでらっしゃったんですか?
エッセイが多かったです。母親が山田詠美さんのファンで実家に本があったから小2くらいから読んでいて。その中に“ラッパー”って記述が出てくる作品があって、そこで初めてラッパーという存在を知ったんです。
──輪入道さんのバトルは、常に相手の話をしっかり聞いたうえでユーモアを交えながら的確にアンサーを返すところが素晴らしいと思います。読書家だけに成績はかなりよかったのでは?
国語だけはできたんですけど、それ以外まったく。高3のとき、中間テストで450人中451位だったことがあるんです。「これはどういうことですか?」って先生に聞いたら、「俺もわからん」って言われて(笑)。前の期末試験から中間試験までの間に1人退学した奴がいて、そいつの人数がカウントされてたからそんなことになったんですけど、受けてないやつより点数が悪いくらい、テストは全然ダメでしたね。
──「青春」のリリックに「文化祭の団結が嫌いだ」とあります。
ああいうときだけ団結しようとする集団心理みたいなのがめちゃくちゃイヤなんですよ。ただ、忘れられない思い出が1つあって。出席日数が足りなくて高校3年の9月で退学することが決まったのに、ビートボックスをやってる柔道部の連中と組んで11月の文化祭のステージでラップをやることになったんです。だからなんとか文化祭の日まで退学を延ばしてほしいと夏休み前に先生に掛け合って、補填分のテストを全部やって文化祭に出たんですよ。そのステージは全校生徒の投票の結果が1位になると閉会式でもう1回演奏できるという特典があって、軽音部のバンドとかが出てみんながんばるんですけど、ライブをやった結果、俺らがぶっちぎりで1位だったんです。でも学校側が「保護者も来る閉会式にヒップホップはあまりよろしくない」っていうことで、繰り上げで2位のバンドが演奏することになったんです。
──ひどい! そんなことってあるんですね!
ひどいですよね。まあ、そもそも退学してるはずのやつが閉会式でライブをやるのはどうかという理由もあったと思うんですけど。文化祭の最後、校長先生が話しているとき、周りの奴らが「もう学校辞めるんだからマイク取っちゃえよ!」みたいに煽るから、ちょっと迷ったけどステージに上がって、マイクを奪って「俺のラップを聴いてくれ!」ってやったんです。そしたら先生たちがブチ切れて(笑)。
──ハハハ!(笑)
体育の先生とかが生徒に「みんな帰れ!」みたいに言い始めたんですけど、実行委員が先生を止めてくれたんです。「いや、こいつが学校に来るのは最後だからやらせてやりましょう」って。その後、照明を全部落とされた真っ暗な体育館で、ビートボックスをしてもらってフリースタイルで「ちゃんと学校行けよ」みたいなことを歌いました。「いや、お前が言うな」って話ですけど(笑)。それから「俺はラッパーになりてえ! CDも出してえ! この夢を馬鹿にするやつは止めてみろ!」って言ったんです。みんなそれを聴いて泣いてて。
──そのフリースタイルを聴いた生徒たちはきっと一生忘れないでしょうね。
同級生で母校の先生になった奴が「今でも生徒たちにお前の話をしてる」って言ってました。いいのか悪いのかわかんないですけど(笑)。
水木しげるに会うために調布に住んでいた
──高校生の輪入道さんをそこまで夢中にさせたラップの魅力について聞かせてください。当時、地元の状況はいかがでしたか?
ラップが流行ってるか流行ってないかで言ったら千葉ではそんなに流行ってなかったですね。同級生だと、男子はまだしも女子はラッパーの名前とかまったく知らなかったし。でも千葉にはシーンがちゃんとあって、そこで活動している同い歳もけっこういました。例えばKINGDOM RECORDS を主宰するMr.OMERIというラッパーは千葉以外では一切ライブをやらないんです。だからその人たちのファンは千葉まで観に来るしかない。で、地元で遊べっていうことをすごく強く言って熱狂的に支持されてました。その頃の千葉のシーンはハードコアパンクとかと密接につながっていて、ちょっと名古屋と近いイメージがありましたね。
──輪入道さんの、アンダーグラウンドなヒップホップとの出会いは?
般若さんのシングル「おはよう日本(無修正Version)」だったので、2004年ですね。中学2年生のときでした。母子家庭の友達でヒップホップが大好きな奴がいて、そいつにニトロ(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)とかいろいろ教えてもらって。
──リリックもその頃に書き始めたんですか?
そうですね。中学生のとき、家にパソコンがあったんですけど、ネットにつながってなかったんで、文字を打つかダイソーで買った100円のゲームをやるぐらいしかできなかったんですよ。それに毎晩毎晩いろんな人格になりきって文章を書いてました。今日の俺はラッパーだ、今日はロックだ、みたいな感じで。それで書くことに関しては慣れました。
──なぜ輪入道という名前に決めたんですか?
子供の頃から水木しげるがすごく好きだったんです。最初のライブが決まったとき、「タイムテーブルとかフライヤーに載せるからMCネームを決めてくれ」と主催者に言われて。どうせだったらほかと被らない名前を付けたかったので、インターネットがつながっている友達の家に妖怪図鑑を持ちこんで、どれがいいかねえって話しながら決めました。火炎車もいいなと思ったんですけど、検索してもらったらすでに同じ名前のバンドがあると言われて。輪入道って、自分の姿を見た人間の魂を抜くし、石ころをダイヤにするし、その意味でもいい名前だなと思ってます。ただ、めちゃくちゃ“輸入道(ゆにゅうどう)”って間違われますけどね(笑)。たぶん一生言われるんだろうな。
──水木先生のファンはそんな間違いをしないので大丈夫です。
逆に水木しげるファンにどう思われてるのか気になりますね。本人に会って名前の許可を取りたくて、調布に2年くらい住んでいた時期があるんです。さすがに事務所に行く勇気はなかったので、古くからある理髪店とか果物屋さんに行って「先生は何時ぐらいに来ます?」みたいなことをやってたんですけど、結局会えなかった。
──水木先生はレゲエがお好きだったとか。
らしいですね。びっくりしました。
──先日放送された「フリースタイルダンジョン」のレゲエvsヒップホップ対決は、水木先生がご覧になったら喜ばれたんじゃないでしょうか。
「輪入道がやっとるぞー!」って笑ってもらえたらうれしいですね(笑)。
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基準は「1曲しかないステージに華を添えてもらうときに誰がいいか」