土岐麻子|土岐麻子は現代のシティポップとどう向き合ってきたのか? “3部作”の徹底解説と著名人7人のレビューで紐解く

土岐麻子がニューアルバム「PASSION BLUE」をリリースした。このアルバムは前々作「PINK」、前作「SAFARI」と同様に、トオミヨウをサウンドプロデューサーに迎えて制作された作品。「PINK」と「SAFARI」に続く“シティポップ3部作”の完結編として位置付けられている。

国内でのリバイバルが訪れてひさしく、近年では海外でも音楽ファンの間で注目されつつあるシティポップ。この音楽ジャンルに対して、かねてから“シティポップの女王”とも呼ばれていた土岐はどう向かい合ってきたのか。音楽ナタリーでは“シティポップリバイバル”という観点から「PINK」「SAFARI」「PASSION BLUE」の3部作について解説。さらに柿本ケンサク、豊崎愛生、西寺郷太(NONA REEVES)、バカリズム、原田知世、槇原敬之、夢眠ねむ(50音順)といった土岐とゆかりの深い人々に、「PASSION BLUE」を聴いた感想を語ってもらった。

文 / imdkm(P1)

“シティポップの女王”としての土岐麻子

今や“シティポップの女王”の異名を持つほどに、2010年代のシティポップの重要人物である土岐麻子。2000年代中盤から続く“ネオシティポップ”の動向や、海外のディガーからの注目によって再び脚光を浴びる1970年代から1980年代の“オリジナルシティポップ”のリバイバルを経て、シティポップなるジャンルの再評価と拡張が進んだ現在から見れば、彼女のソロ作の数々をシティポップとして語ることは造作ないことのように思える。例えば、2006年のカバーアルバム「WEEKEND SHUFFLE」ではシュガー・ベイブ「DOWN TOWN」をはじめとした1970年代から80年代の日本のポップスを多数フィーチャーしている。さらに、2008年のミニアルバム「Summerin'」では大貫妙子のクラシック「都会」のカバーも披露し、オリジナルシティポップのスタンダードを数多くレパートリーとしてきた。とはいえやはり重要なのは、2017年の「PINK」、翌2018年の「SAFARI」、そしてこの秋の「PASSION BLUE」に至る“シティポップ3部作”だろう。

つまり、音楽性や人脈の点ではシティポップリバイバルの空気感をいち早く作品に織り込んできた、いわばシティポップリバイバルのパイオニアの1人である土岐は、“3部作”を通じて自分にとっての確固たるシティポップ像を練り直したことで、名実共に“女王”となった、というわけだ。

実際、本人の発言からその変化をたどることができる。例えば2010年のアルバム「乱反射ガール」リリース時に、インタビューで土岐はこんなふうに語っている。

「誰々向きとか、何々向きとか、何々ソングとか、そういったカテゴライズが未だに謎なんです。今回のアルバムは自分ですごく気に入ってるんですけど、そこだけが謎として残っていて。」

先に述べたように、シティポップが再評価され、その定義も現代的に変化・拡張してきたことを踏まえれば、「乱反射ガール」をシティポップと呼んでも差し支えないはずだ。至るところに現れる16ビートの洒脱なグルーヴに洗練されたコードとメロディラインしかり、曲名や歌詞の、都市の風景を思わせる言葉選びしかり。しかし、このインタビューで土岐は続けて、自分の“椅子”、すなわち音楽的な自分の立ち位置を模索しているとも言っている。

これと対照的なのが、2017年のベストアルバム「HIGHLIGHT - The Very Best of Toki Asako -」にあわせたインタビューでの発言だ。

私の中にある音の趣向はあまり変わってないのですが、“土岐麻子ってこういう感じ”と自分で自分のことを決めつけてしまいがちだったので、その凝り固まっていたイメージを打破したアルバムになりました。

作品としての性質はもちろん、本人の言葉から見ても、「PINK」は土岐自身が持っていた凝り固まった自己像を打破し、シティポップの担い手としての立ち位置を自ら見出した一作、と位置付けられよう。

現代のシティポップを“開拓”した「PINK」

土岐が「PINK」で意識したのは、オリジナルシティポップのクリシェを反復せず、都市の生活や時代を率直に反映した音楽としてのシティポップだ。

私は、本当のシティ・ポップって、サウンドのことではなく、「時代の開拓者」なんじゃないかと思っているんですね。「ポップの開拓者」と言ってもいいと思う。きっと当時、先人達がものすごい挑戦を重ねて築きあげた音楽であって、その姿勢こそが “シティ・ポップ” であって、私もそこを目指したいと思ったんです。

シティポップのクラシックをカバーしたり、あるいは都会的な意匠をまとうのではなく、先人から受け取った精神性から現代のシティポップを描き直す。土岐の“シティポップ3部作”はオリジナルシティポップからのアティチュードの面での連続性と、現代的なネオシティポップとのシンパシーを併せ持っているのだ。

サウンド面から言えば、「PINK」はいわゆるネオシティポップともオリジナルシティポップともやや距離を置いている。3部作のキーパーソンであるトオミヨウと意気投合したきっかけが、硬質な電子音を駆使してヒップホップやブレイクビーツにアプローチしたドイツのデュオ、Funkstörungだったという点は興味深い。その時点ですでに、“シティポップ3部作”のサウンドが目指す方向性が伺える。

都市の風景を思い起こさせるようなフィールドレコーディングに被さる土岐麻子のアカペラから幕を開け、プリズマイザー(ハーモニーを生成するボーカルエフェクト)的な処理を施されて一気に作品の世界に惹き込まれる冒頭の「City Lights」からして、オリジナルシティポップともネオシティポップとも一線を画す本作のサウンドを予感させる。硬質だが、聴きこむほどに音の感触に豊かなニュアンスを感じるダンスポップを基調としたサウンド。その上に並ぶ言葉は、都市で生活する人々の生々しい生活を、ときにギョッとするようなフレーズを交えて描き出す。

とはいえ、ファンキーなカッティングギターや16ビートのグルーヴを紡ぐドラムマシンの音色に80年代シティポップの面影を見出す人も少なくないだろう。例えば「Rain Dancer」や「Peppermint Town」がそうだ。

都市の変化と躍動を観察する「SAFARI」

前作から引き続きトオミヨウとのタッグで制作され、1年4カ月ぶりに発表された「SAFARI」。前作よりも音色のパレットが豊かになり、きらびやかな倍音をたっぷりと含んだ、さりげなくラグジュアリーなサウンドに彩られている。とりわけストリングスやブラスなどが前作以上に存在感を放っているのが印象的だ。

本作はそのタイトルどおり、形を変えゆく都市のそこかしこに野生を、生々しい生活を見出し、躍動感あふれるサウンドへと落とし込んでいる。ビッグバンド調のサウンドでスウィングする「SUNNY SIDE」の都会的な洗練と野性味の同居はその好例だ。

個人的に白眉と思うのは、アコースティックなサウンドと加工されたデジタルなサウンドが見事に融合したバラードの数々だ。「Flame」や「名前」、そしてなにより「mellow yellow」には、作編曲を担うトオミの優れたバランス感覚がいかんなく発揮されている。

アコースティックギターが刻むビートと土岐のボーカルに導かれてダウンテンポのエレクトロニックなビートが登場する「mellow yellow」は、特に本作のコンセプトを体現している。簡素にも思えるサウンドの中にユーモラスなギミックが散りばめられ、不思議にゆらめく電子音やチャント、ストリングスなどがひしめきあう、聴くほどにディティールの豊潤さに驚く。詞の面でも、カバーアートワークに呼応するような情景の描写が、「この曲にこそ『SAFARI』がある」と勝手ながら思ってしまう。

都市における「孤独」に向き合う「PASSION BLUE」

“シティポップ3部作”の完結を謳う本作では、いわゆる“トラップ以降”的なビートや譜割りが巧みに取り入れられているのが印象的だ。1曲目を飾るエレクトロニックな四つ打ちの楽曲「Passion Blue」での土岐のボーカルは、端正なビートの上にリズムのヨレや訛りを巧みに表現している。「High Line」のトラップビート、あるいは「エメラルド」や「愛を手探り」の歪んだベースとギターのダイナミズムはまさに2019年のサウンドであり、そうしたサウンドの中で自在に歌声を展開させる土岐の堂々とした歌唱には、“シティポップ3部作”を完結させると同時に、置き土産に“シティポップ”という枠組みや“都市”への私たちの眼差し自体を更新するようなすごみがある。

ここまであえて土岐の書く詞について突っ込んだ言及はしてこなかったが、「Passion Blue」についてはその詞について語らないわけにはいかない。都市に暮らす人々の日常や、そこにつきまとう孤独は3部作の中で繰り返し登場する主題だ。共同体の感覚が希薄で、“個”として生きざるを得ない都市の人びとが持つ孤独や寂莫とした心に寄り添う言葉をつむいできた土岐が、本作ではそこから一歩踏み込んで(あるいは踏み出して)、“個”として生き、孤独を活用することの価値を伝えようとしているように思える。

それは単なる強がりでもなければ他人を出し抜いてサバイブすることの奨励でもない。その意味で、冒頭の「Passion Blue」や、3部作を通じてコラボレーションを重ねてきたG.RINAをフィーチャーした「Ice Cream Talk」に登場する“孤独”と“自由”の微妙なニュアンスには注意したい。例えば、「エメラルド」のとりわけ印象的な「痛みを感じないふりが美しいはずなんてないじゃない」という一節の、痛みを覚える“私”の弱さに向き合うことをそれとなく肯定するメッセージと並置すると、そのニュアンスの複雑さは増すのではないか。先行シングルとしてMVも公開された「美しい顔」も、アルバムの中に置くと、そのメッセージの力強さに別のニュアンスが加わる。

アルバムのラストを飾る「Bubble Gum Town」は、空虚さを匂わせる「バブルガム」という語の選択や、「明日街は誰のものか」と問う歌詞の鋭さが印象に残る。この曲が象徴するように、「PASSION BLUE」は聴きようによっては3部作の中で最も率直なアルバムで、ときに辛辣でさえある東京という都市と、そこで営まれる暮らしへの批評が織り込まれている。2010年代末という時代を捉えたドキュメントであると同時に、その批評性ゆえに普遍的な価値を帯びた1作だ。