ナタリー PowerPush - THE YELLOW MONKEY

徹底座談会で明かされる新事実とそれぞれの“1曲”

最初の打ち合わせはずっとUFOの話をしてた

──高橋さんは「SPARK」(1996年発売の10thシングル)のときに初めてミュージックビデオを監督されて。

高橋栄樹 そうですね。リリースが7月だったんですけど、確か4月か5月くらいにビデオの撮影に呼んでもらって。ほかにも候補がいたらしいんですけどね。

宗清 栄樹さんとメンバーがすごくハモったんですよね。打ち合わせのときにはそこまで具体的なアイデアが出てこなかったんだけど、栄樹さんが「こういうイメージで」って言って、こうやったんですよ(顔の前で両手の指をヒラヒラを動かす)。そのポーズを吉井が気に入っちゃって(笑)。栄樹さんのキャラクターがメンバーのツボにハマったんでしょうね。

高橋栄樹

高橋 最初の打ち合わせのことはよく覚えてないんですけど、ずっとUFOの話をしてた気がしますね(笑)。年齢がほとんど同じっていうのも大きかったのかも。

──当時のTHE YELLOW MONKEYにはどんな印象を持ってたんですか?

高橋 実はよくわからなかったんですよね、最初は。カッコいいのか、カッコ悪いのかわからないというか、ほら、歌謡曲っぽいところもあるじゃないですか。それが意図的にやってることなのか、自然とにじみ出てるものなのかもわからなかったし。当時の自分が思う、狭い意味での「カッコいい」には入りきらないものが多かった。だから、すごいカルチャーショックを受けたことは覚えてますね。あと吉井さんの使っている言葉が妙に古くさかったのを覚えてる。「バタくさいビデオがいい」とか(笑)。「バタくさい」って言葉、本でしか見たことなかったし(笑)。

「このままだと、せいぜい10万枚のバンドだよ」

──なるほど。THE YELLOW MONKEYは1992年にアルバム「THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE / 夜行性のかたつむり達とプラスティックのブギー」でデビュー。1993年の2ndアルバム「EXPERIENCE MOVIE / 未公開のエクスペリエンス・ムービー」、1994年の3rdアルバム「Jaguar hard pain 1944~1994」までは、ライブの集客は増えても、それがセールスにつながらないという時期が続きます。宗清さんは当時の状況をどんなふうに捉えていらっしゃったんですか?

宗清 レコード会社の契約はだいたい2年単位なんですけど、デビューして2年経って、次の契約更改のときは、相当焦ってましたね。今と違って「2年で決着をつける」という時代ではなかったから、結果が出てなくても契約更改はできる。ただ、「このまま同じことを続けていても、勝ち戦にはならないな」とは思ってました。その前の「Jaguar hard pain」を作ったときに、吉井くんとやりとりがあったんですよ。「もっとコマーシャルな方向に行こうよ」って僕が言うと、吉井くんは「この先もバンドを続けていく上で、1回はコンセプトアルバムを作りたい」って。

結城雅美

結城 中野の喫茶店の話をしたほうがいいんじゃないですか?

宗清 方南町ね(笑)。社長の大森さんにも頼んで、メンバーとミーティングしたんですよ。「契約更改するにしても、このままじゃ売れないと思う。意識を改革して、曲作りも変えていこう」っていう話をして。それこそさっきの有賀さんのお話にも通じるんだけど、「いろいろやりたいことがあるのはわかるけど、それは売れてからやろうよ」ということですよね。売れてないときからそれをやると、メンバーの意識だけが先に行っていて、世間からはマニアックなバンドだと思われますからね。でも今とは時代が違いますよね。そのとき俺は「このままだと、せいぜい10万枚のバンドだよ」って言ったんだから。

結城 10万枚って、今だったら大ヒットですよね(笑)。

宗清 そうだよ。まあとにかく「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すのか。どちらが君たちの目指すポイントなの?」って聞いたら、メンバーは「それはオリコン1位ですよ」って言うわけ。だったら、今のやり方じゃダメだろうって。そのときに一応ね、3年目以降の方針を大筋で決めたんですよ。吉井くんにも「わかってるんだったら、遠回りしないでやってほしい」ってはっきり言って。その第1弾の回答が「熱帯夜」(1994年7月発売の4thシングル)だったんだよね。あれは何位だったっけ?

──オリコンシングル週間ランキング59位ですね。

宗清 それもすごいことだったんですよ、当時のバンドの状況を考えると。それまではチャートと無縁だったのに、シングルが59位ですからね。でもメンバーは違ったんですよね。ベスト10に入るつもりで作ったシングルだから、ショックを受けちゃって。俺はショックを受けてる姿を見てショックを受けたけどね。そんなに簡単に売れたら苦労しないよ!って(笑)。で、「でもこうやって上向きになってきたんだから、これを続けていきましょう」という話をして。曲そのものもね、変わってきてたんですよ。その前のシングル「悲しきASIAN BOY」にしても、すごくキャッチーなんだけどあえてわかりづらくしてる部分もあって。だけど「熱帯夜」の頃から歌詞にしてもわかりやすくなってきたんです。

ベストアルバム「タイトル未定」 / 2013年7月31日発売 / 日本コロムビア
初回限定盤 [CD+DVD] / 3675円 / COZP-786~7
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通常盤 [CD] / 1890円 / COCP-38162
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応募締切:2013年6月20日(木)23:59

THE YELLOW MONKEY(いえろーもんきー)

1989年12月に吉井和哉(Vo)、菊地英昭(G)、広瀬洋一(B)、菊地英二(Dr)の4人で本格始動。グラマラスなビジュアル&サウンドと歌謡曲にも通じるキャッチーなメロディを武器に、渋谷La.mamaを拠点に精力的なライブ活動を行う。1991年にはインディーズから初のアルバム「Bunched Birth」をリリース。翌1992年5月にはシングル「Romantist Taste」でメジャーデビューを果たす。その後も着実に知名度を高め、1995年4月には日本武道館で初のワンマンライブを実現。「太陽が燃えている」「JAM」「SPARK」といったヒットシングルを連発し、5thアルバム「FOUR SEASONS」は初のオリコン週間ランキング1位を獲得する。その後レーベル移籍を挟み、6thアルバム「SICKS」、ヒットシングル「楽園」「LOVE LOVE SHOW」「BURN」のリリース、「FUJI ROCK FESTIVAL '97」への出演や海外公演、野外スタジアムツアーなどを実施。1998年から1999年には、アルバム「PUNCH DRUNKARD」リリースにまつわる計113本、延べ50万人以上を動員した史上最大のロングツアーを1年間にわたり敢行。トップバンドの名を欲しいままにする。2000年には8枚目のアルバム「8」をリリース。新進気鋭のプロデューサー陣を立て、新機軸を打ち出す。しかし、同年11月に活動休止を突如発表。翌2001年1月の大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)&東京ドームでのライブをもって、長期間の充電に突入する。多くのファンから復活を熱望されていたが、2004年7月に正式に解散を発表。現在もなお、伝説のバンドとして多くのロックファン、アーティストからリスペクトされている。