ナタリー PowerPush - THE YELLOW MONKEY
徹底座談会で明かされる新事実とそれぞれの“1曲”
THE YELLOW MONKEYのデビュー20周年のラストを飾る「ファン選曲ベストアルバム」が7月31日にリリースされる。今回ナタリーでは、このアルバムの発売を記念して、日本コロムビア時代のディレクター宗清裕之、フォトグラファーの有賀幹夫、映像監督の高橋栄樹、当時「音楽と人」の編集長としてバンドを取材した結城雅美という、THE YELLOW MONKEYと深い関わりを持つ4人による座談会を開催。解散から9年経った現在も多くのロックファンから支持され続けているTHE YELLOW MONKEYの歴史を、今だからこそ明かされる新事実とともに、貴重なエピソード満載で振り返ってもらった。
取材・文 / 森朋之 インタビュー撮影 / 上山陽介
グラムロックというより場末の……
──今回はTHE YELLOW MONKEYに縁のある皆さんと共にバンドのキャリアを振り返ってみたいと思います。まず、THE YELLOW MONKEYとの出会い、そしてどのような関わり方をしていたのかを教えてもらえますか?
宗清裕之 はい。最初のアルバム(「THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE / 夜行性のかたつむり達とプラスティックのブギー」)が出たのが1992年だから、初めて会ったのは1991年ですね。のちの事務所の社長(大森常正)が(渋谷のライブハウス)La.mamaで彼らの面倒を見てるときに、インディーズ盤の「Bunched Birth」の試聴用カセット——まだカセットテープの時代ですよ——をいただきまして。要は売り込みなんですけど、それがすごくよかったんです。で、こちらから「ぜひライブを見せてほしい」と言って。最初は大宮フリークスだったんですけど、ライブが終わったあとにメンバーに会いまして。
有賀幹夫 宗清さんはすでにRED WARRIORSなんかも手がけていらっしゃったし、「カッコいいロックンロールバンドを手がけている」ということもメンバーはわかってたんじゃないですか? その流れがあったから、宗清さんに話があったんだと思うな。
宗清 HEESEY(B)が「RED WARRIORSをやってる宗清さんですよね」って言ったから、「他社と競合になった場合は、ちょっとアドバンテージになるかな」とは思いましたけどね(笑)。
──初めてライブを観たときから「一緒にやりたい」と思った、ということですか?
宗清 基本的にはそうですね。よく覚えてるんですけど、そのときのライブが圧倒的にカッコよかったんですよ。当時の写真を見ると「え?」と思うようなメイクとコスチュームなんですけどね。グラムロックというよりも、まるで場末の……。
結城雅美 歌舞(かぶ)いてましたからね(笑)。
宗清 でも、あのときは「カッコいいな、こいつら」って思いました。あとね、みんな背が高かったんですよ。大宮フリークスってステージが高かったから、ライブを観てるときはどれくらいの身長かわからなかったんだけど、あとで会ったら、みんな長身で。写真で見ると、当時僕が関わっていた本田恭章にちょっと雰囲気が似てたんですよ、吉井くん(和哉 / Vo)が。
「ボウイやJAPANが好きだったら観たほうがいいよ」
──結城さんはメンバーと高校時代からの知り合いなんですよね?
結城 高校生のときにバンドをやってたんですけど、そのときに使ってたスタジオがHEESEYさんと一緒だったりして。HEESEYさんはムルバスというバンドをやっていて、ライブにもすごく人が集まっていたし、人気があったんですよね。吉井さんが在籍していたアーグ・ポリスも、もちろん人気があって。そのとき、吉井さんが17歳くらいかな? HEESEYさんはたぶん21歳くらいだと思うんですけど、とにかくみんな別々のバンドだったんです。
──EMMAさん(G)、ANNIEさん(Dr)はKILLER MAYに在籍していて。
結城 そうですね。吉井さんもアーグ・ポリスのときはベーシストだったし。それからしばらくして、のちにHEESEY WITH DUDESにも参加したOMMYさん(近江谷創一朗)から「デヴィッド・ボウイやJAPANが好きだったら、THE YELLOW MONKEYを観たほうがいいよ。ロビンちゃん(吉井)が歌ってるから」って言われて、ライブを観に行ったらホントに歌ってて。あのときはビックリしましたね。しかも網タイツだったんですよ。足がキレイなことにも驚きました(笑)。それも大宮フリークスだったんだけど、ほかに比べるバンドがないほどカッコよかった。
宗清 その頃は自分もバンドやってたんでしょ?
結城 もうやってませんでしたよ(笑)。すでに編集者として働いてました。そのときは音楽誌じゃなかったんですけど、のちに「音楽と人」に入って、「smile」(1995年発売の4thアルバム)が出たときに吉井さんとHEESEYさんで表紙をやらせてもらって、そのときにひさびさに再会して。撮影スタジオに行ったら、「おまえ、何やってんの?」って言われましたけど(笑)。その後は、ほぼ毎月のように取材をさせてもらっていました。
初武道館は「写真を撮るには最悪の環境」だった
──有賀さんは1995年4月に行われた初の武道館ライブのときに撮影されたんですよね?
有賀 そうです。一番いいときに出会えたなって思いますね。その前にね、テレビで観たことがあったんですよ。「歌う天気予報」っていう夜中の番組で、新人のPVを流していたんだけど、「アバンギャルドで行こうよ」(1993年3月発売の2ndシングル)のPVを観てブッ飛んだんです。すごいバンドが出てきたな!って。あと、EMMAさん、ANNIEさんがメンバーだったこともうれしかったんですよね。駆け出しの頃にKILLER MAYもよく撮らせてもらってたから。
宗清 有賀さんが武道館で撮ってくれたときのこともすごく覚えてますよ。とにかくインパクトがあって。最初の武道館のときって、正面から当たる照明が少なかったんです。写真を撮るには最悪の環境なんですよね。で、終わってから有賀さんがブチ切れて。
有賀 まあ、これじゃあ撮れないということですよね(笑)。
宗清 こちらとしては「やばいよ、世界の有賀を怒らせちゃった」っていうことですよね。なんといっても、ストーンズのオフィシャルカメラマンですから。現場はすごい緊張感だったし「これはもう、二度と撮ってもらえないかもしれないな」と思ったんだけど、それからずーっとお付き合いが続いて。
有賀 大森社長からも、半年後くらいに「照明よくなったので、またライブに来てください」って連絡をもらいましたから。最初の武道館のときは「不親切だな」って思ったんですよ。不親切なことをやるには、まだ時期が早いだろうって。
- ベストアルバム「タイトル未定」 / 2013年7月31日発売 / 日本コロムビア
- 初回限定盤 [CD+DVD] / 3675円 / COZP-786~7
- 初回限定盤 [CD+DVD] / 3675円 / COZP-786~7
- 通常盤 [CD] / 1890円 / COCP-38162
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応募締切:2013年6月20日(木)23:59
THE YELLOW MONKEY(いえろーもんきー)
1989年12月に吉井和哉(Vo)、菊地英昭(G)、広瀬洋一(B)、菊地英二(Dr)の4人で本格始動。グラマラスなビジュアル&サウンドと歌謡曲にも通じるキャッチーなメロディを武器に、渋谷La.mamaを拠点に精力的なライブ活動を行う。1991年にはインディーズから初のアルバム「Bunched Birth」をリリース。翌1992年5月にはシングル「Romantist Taste」でメジャーデビューを果たす。その後も着実に知名度を高め、1995年4月には日本武道館で初のワンマンライブを実現。「太陽が燃えている」「JAM」「SPARK」といったヒットシングルを連発し、5thアルバム「FOUR SEASONS」は初のオリコン週間ランキング1位を獲得する。その後レーベル移籍を挟み、6thアルバム「SICKS」、ヒットシングル「楽園」「LOVE LOVE SHOW」「BURN」のリリース、「FUJI ROCK FESTIVAL '97」への出演や海外公演、野外スタジアムツアーなどを実施。1998年から1999年には、アルバム「PUNCH DRUNKARD」リリースにまつわる計113本、延べ50万人以上を動員した史上最大のロングツアーを1年間にわたり敢行。トップバンドの名を欲しいままにする。2000年には8枚目のアルバム「8」をリリース。新進気鋭のプロデューサー陣を立て、新機軸を打ち出す。しかし、同年11月に活動休止を突如発表。翌2001年1月の大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)&東京ドームでのライブをもって、長期間の充電に突入する。多くのファンから復活を熱望されていたが、2004年7月に正式に解散を発表。現在もなお、伝説のバンドとして多くのロックファン、アーティストからリスペクトされている。